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Web上で見かけた書き物についての感想。
同じ内容をTwitterに流すかもしれないし、流さないかもしれない。

ここのところ読後のメモを書く場所に迷って何もアクションを起こさないままになっていたりそもそも読むこと自体控えていたりしたので、その駄目な感じをここで解決したいところ。

noratetsu
作成: 2023/04/17 (月) 12:07:16
最終更新: 2023/04/18 (火) 10:04:48
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noratetsu 2023/04/17 (月) 12:11:21 >> 1

「知をわたる」とは、さまざまな知を渡り歩くことです。知の散策、知の散歩。ときにそれはショートトリップであったり、長期旅行であったりもするでしょう。不遇にあって知の亡命を行うこともあるかもしれません。ともかくそれは移動することです。移動しながら、そこにある知を味わっていくことです。

知るためにあちこち渡り歩く、というのはメタファーとして珍しいものではないような気がするのに、どうしてか「そうか」と感じた。
「知りに行く」は既にあったイメージなのに、「知の移動」となると「知の!移動!そうか!」という気持ちになる。

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noratetsu 2023/04/17 (月) 12:19:50 >> 1

どこの筋肉をどのように鍛えたいのかがわからなければ適切な筋トレメニューが組めないように、自分の知りたいが曖昧なままではそれ以降の知る行為も漠然としてしまいます。
だからまず、自分の「知りたい」を認めましょう。それは存在してもよいのだと受け入れ、それがどんな形をしているのかを見つめましょう。自分の知りたいを肯定するのです。

「自分は○○を知りたいと思っている人間でありたい」みたいな自己像があり、ずっとそれに縛られていたけれど、多分本当に自分が知りたいことは自分が思い描いていた「○○」とは全然違うんですよね。
博覧強記な人は素晴らしいと心から思っている。自分がそうであったらどんなにか素敵だろうと思っている。が、本当に博覧強記になりたいのかと言うと、多分どうでもいい。それが己の実像だということを認めるまでに結構かかっている。
自分が見つめるべきは、「博覧強記」的イメージの領域ではないのだと思う。持っている知識が絶対的に広くて多いことは大事だという思いは持ち続けながらも。
というか、どちらかというと自分のための「知りたい」を追究した先に、博覧強記の道が繋がっているのではないかとも思う。

5
noratetsu 2023/04/17 (月) 18:44:12 >> 4

アウトライナーを自由に使うための○箇条!みたいで面白かったです。
ポイントそれぞれについてばらばらに「こう考えた方がいいよね」と思い至りはしますが、こういう風に踏まえるべきポイントがまとめられていると見通しが良くなる感じがします。

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noratetsu 2023/04/17 (月) 18:49:38 >> 4

実はこれは多くの人に共通するアウトライナーに対する誤解のひとつです。「誤解」が言い過ぎなら「アウトラインという言葉に引っ張られたイメージの偏り」とでも言えばいいでしょうか。「アウトライナーで操作するアウトライン」と「最終的な成果物のアウトライン」を混同しているわけです(むろん「間違い」ではありません)。

アウトライナーという言葉がやっぱり諸悪の根源なのでは…ゴニョゴニョ(アウトライナーという名前を好まない派のつぶやき)
意味と形式の両方を持ってしまう単語は常に両方を引き連れてしまうし、しかもカタカナ語となると「微妙な違いで言い分ける」みたいなことも起こらない。

正直「○○のアウトライン」「△△のアウトライン」という風に呼び分けてもあまり納得できないし、単に「アウトライン」と言われた時にどの意味の何を示しているのか自明でないので、「アウトライン」と呼び続ける限り日本人の混乱がなくなることはなさそう。しかし市民権を得うる日本語が思いつかないのでどうしたらいいかわからない。
せめて形式に「○○型表記」という名前が付けば半分はわかりやすくなるのにって前から思っていますがずっと考えていてもこれぞというのが思いつかない。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 09:55:14 >> 7

お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。

ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 09:56:53 >> 7

現状プラットフォームが提供するタイムラインは、基本的にそのプラットフォームのためのものであって、わざわざフィードを吐いてくれる仕様にはしないでしょう。何かしらのハックでそれが可能になっても、いつプラットフォーム側がその窓を閉じるのかはわかりません。不安定きわまりない状態です。

こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。
統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。

10
noratetsu 2023/04/18 (火) 10:01:30 >> 7

一方で、やっぱり私たちはもう一度RSSなる文化に回帰することも検討したいところです。自分がチェックしている情報を自動的に収集してくれる夢のようなツール。自分が好ましく感じる情報源だけを集めた領域。それは永田希さんが『積読こそが完全な読書術である』の中で提示された自分なりのビオトープ作りとも関わってくるでしょう。そういう情報源を構築しておくことは、効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます(それくらいに荒れた場所になりつつあるのが近年のSNSです)。

「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。
視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 11:53:24 >> 11

坂本:この言葉、ほんとうに嫌いなんですけど、(バッハの曲を聴くと)まさに「音楽に救われる」という感じがするんですよ。癒される、慰められる思いがします。子どものころ、ケガをして痛かったときに、母がこうやって手をあててくれた(話しながら自身の左手を右腕にあてる)、そんな感覚と似ています。

坂本:僕にとって音楽による慰めっていうのは、そういう感じのものなんです。「お母さんの手」のようなもの。なにも音楽のすべてがそうだというわけじゃなくて、なかでも特別な曲がある。バッハの「無伴奏チェロ組曲」とか。そういう意味では、「癒し」という言葉は嫌いだけれど、僕もやっぱり音楽に慰められているんですよね。

音楽の中でも、言葉を乗せて直に精神に触れてくるような歌と言葉のない曲とあるけども、歌もいいけどインストゥルメンタルの寄り添い方はより深い慰めを感じる。
個人的には、歌と一緒に沈めるところまで沈んで、インストゥルメンタルと一緒にゆっくり浮き上がってくる、という慰め方をそれぞれに感じる。その意味で、応援歌よりは悲劇をそのまま歌った歌の方が「効く」。
言葉があるとその言葉に関する自分の心情を整理することを積極的に求められている感じがどうしてもしてしまうけど、言葉のない音楽は自分自身がゆっくりながらも能動的に心情を整理することを支えてくれるという感じがする。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 12:02:59 >> 11

坂本:そう。まだ子どもがちいさかったころ、たとえば「勉強用のプレイリストをつくってよ」とか頼まれるわけ。

――勉強がはかどる曲、みたいなテーマで選ぶんですか。

坂本:うん。それからだんだん、「クラシックをもう少し知りたいから、なに聴けばいいかちょっと選んで」とか、「ベースをはじめたから、マストで聴いておいたほうがいい古今東西のベースのいい曲を集めてよ」とか。そのときどきで「はい、はい」って僕が曲を選んでプレイリストをつくるわけです(笑)。

親が坂本龍一という環境、強い。
なんだか最近、「プレイリストを作る」ということをしなくなったなあ。というか、そもそも音楽を聞かなくなっている。十代の頃は「聞いてちゃ駄目な時間以外何かしら聞いている」というくらい聞いていたのに、今は聞こうと思った時以外聞いていない。新しい音楽を知ろうという気持ちもかなり薄まっている。
聴覚が塞がっているとまずいという生活がちょっと続いていたこともあって、「聞く」というのが縁遠くなってしまった。
シチュエーションに合わせて音楽を構成する、というのは多分すごく「豊か」なことで、取り戻した方が良い習慣だなと思う。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 12:12:05 >> 11

坂本:もともとアメリカ人の気質としては、国というのはちいさくていい、みんなばらばら、州単位でいい、という感じなんです。ふだんは「お国のために」なんて考えない。ましてや遠いヨーロッパ大陸とか、世界のほかの国のことなんか知ったこっちゃない、というのがアメリカ人なんですが、ときどきぐっと団結するんですよ。それが米西戦争、ベトナム戦争、そして9.11。そのうちふたつはアメリカ政府の自作自演ではじまっている。
 だからといって9.11も自作自演だとはいえませんけれど、一晩にして、ニューヨークというアメリカのなかで一、二を争うリベラルな街の人たちがぐっと愛国主義に傾いた。こわかったです。

坂本:ナチスも1939年のポーランド侵攻をきっかけに戦争をはじめるわけですけど、その名目はポーランドにいる自国民を救うため、ということだったんですよ。「自分たちの仲間があぶない目に遭っているからそれを救いだしにいくんだ」といって攻めいった。
 大義名分というのはかならずそうなんです。なにか犠牲があって、わっと集まる。このあいだのボストンマラソンのテロ(2013年4月16日)もほんとうに不可解で目的もよくわかりませんが、結果的にあれのせいでアメリカ人の4割が「公民権が多少制限されてでもテロ対策をしてもらったほうがいい」と答えているんです。あの個人主義のアメリカ人が、ですよ。だからほんとうにきくんですよね、ああいうのって。統治する側からいえば、ああいうできごとがちょっとあると。

日本でもテロが「本当に起こること」になりつつあるが、先日の岸田首相を襲った件に対する反応を見ても本当に危ういと感じる。
秘密にするのは簡単だが、クリアにするのは難しい。「ちょうどよい秘密さ」なんてものはなく、秘密にしていいとなったら果てしなく秘密にされる。
統治者という存在の恐ろしさを日本はよく知っているはずなのに、一件二件のショッキングな出来事でワーッとなってしまうのは、戦争のことをもうほとんど忘れてしまったということかなと思う。

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noratetsu 2023/04/18 (火) 12:14:33 >> 11

坂本:ええ。80歳じゃなくて、最近90歳に設定しなおしました。90歳まではとにかく生きて、読みたいものは読むというのがいちおう人生の目標なんです。だから仕事なんかしている暇はないんです、ほんとうは。

悲しい。
「後悔」はないとしても、あと二十年欲しかっただろうな。

16
noratetsu 2023/04/18 (火) 12:29:58 >> 11

坂本:ええ。どこを読んでもいいんです。だから本ってメディアとしてはひじょうにすばらしい。

――人の身体に負担のすくないメディアですよね。

坂本:そうなんです。どこにアクセスしてもいいし、飛ばしてもいいし、ほんとうによくできているなと思います。どう読むか、こっちの時間で主体的に決められるわけですから。

「人の身体に負担のすくないメディア」という表現が良い。
うーん、多分私は、折角「負担のすくないメディア」であるところの本をわざわざ負担に感じるように読もうとしているのだなと思う。律儀に読もうとしてしまうというか。未だに「本というものは最初から読まなきゃいけない」と思っているわけではないのだが、その認識を捨てたからと言って「(自分に良いように)雑に読む」ということができるわけではない。
全ての本を「立ち読みのように読む」という気でいた方がいいのかも。別にそれは「読み捨てている」ということにはならないのだし、繰り返し立ち読みすればいい。

17
noratetsu 2023/04/18 (火) 12:31:29 >> 16

もしや、立って読めばいいのでは? 物理的に「立ち読み」にする。
座ってはならぬ、くらいの気持ちで立ったまま読む。「座らせてくれ!」という気持ちになったら座って読む。そのくらいの気持ちになったらそのまま読み続けられるだろう。

19
noratetsu 2023/04/18 (火) 12:43:29 >> 11

(坂本)だけど音楽とか映画とか、そういうメディアは時間がもう向こうから押しつけられちゃうのでむずかしいですよね。でも、音楽にも譜面というものがあります。それで譜面はやっぱり本とおなじで、自分の意思で読む速度を変えられるんですよ。楽譜の速読ができるんです。その音楽の持つ本来のスピードの、4、5倍のはやさでいける。

本以上に苦手なのが映画なんだけどまさにこのことによって苦手に感じている。時間の流れを乗っ取られたくないという気持ちがある。
実際に見始めれば事前に感じていた程の不快感は見ている間にはないのだけど(ゼロにはならない)、事前の拒否感がありすぎて「見始める」までのハードルが高い。
音楽も「ただ聴く」ってできなくて、常にBGMにしている。音楽に対して集中することはなく、BGMとして繰り返し聞く中で全体像を把握していっている感じがする。

逆に、本を読んでいる時に時間の流れを乗っ取らせなさすぎて、多動性的なものが発動して読むのをやめてしまう。
でも本に関しては折り合いをつける余地があると思う。そもそも本の流れにそのまま沿わなくていいのだから、もっと横暴に読んでしまえばいいのだと思う。内容を蔑ろにするというのではなく、自分の時間の流れに合わせて自分仕様の読み方をした結果、最終的に内容を取り込んだ状態になるようにする、という話。つまり自分の音楽の聞き方と同じようにすればいいのかも。

22
noratetsu 2023/04/20 (木) 09:58:08 修正 >> 21

ぼくたちの望みの多くは言葉にできる形なんかしていないのではないか。「夢」や「やりたいこと」として具体的な言葉にできる望みの方が、むしろ例外なのではないか。

「将来の夢は?」と問うて「具体的な職業名」を答えさせるとか、「何を成し遂げたいか?」を言わせるとか、社会に貢献する方法で自分を定義しようとする感じがする。でも自分の望みというのはふつう「社会に貢献する方法」の中にはないのだと思う。
如何にも利他的な職種や手段でなくとも、余程の野心家でなければ、思い描くのは人に良い影響をもたらしうる何かだろうと思う。それはやはり「社会に貢献する方法」の中から最も自分が惹かれるものを選んでいるということになると思う。

23
noratetsu 2023/04/20 (木) 10:16:08 >> 21

それを読み返していて気づくのは、少なくともぼくの場合、望みの多くは名前がつけられるような具体的な行動や成果なんかではなく、ぼんやりした「情景」の形で存在しているということだ。

「夢」や「やりたいこと」がうまく言葉にできないという人の中にも、この種の「情景」ならあるという人はいるんじゃないかと思っている。

自分に最適な「社会に貢献する方法」が見つからない状態を「夢がわからない」と思ってしまうのは、まさに私自身がそうだったが、多分ただただ不幸な苦しみなのだろうと思う。自分に何か欠陥があるかのような気持ちになった。空っぽという感じがした。
今でも所謂「夢」とか「やりたいこと」というのは別にない。ひねり出そうとしてこれかなと言うことはあるが、正直に言えば「ない」と言っていいと思う。
でも、自分がどういう人間であるかを語る力はそんなに乏しくないと思う。これだけ色々言えるのに、どうして自分が空っぽだとか欠陥があるとかいうことになるんだろう? 途中からそう思い始めた。

多分私も、Tak.さんが仰るような「『情景』ならある」タイプの人間なのだと思う。
自分の望みに名前はつけられないし、「名前がつけられないタイプの望み」という概念をピッと指し示す名前も無いような気がする。
望みに名前をつけたいわけではない。でも、名前がつかないことによって遠回りする必要に迫られたというところはあるのだと思う。

25
noratetsu 2023/04/23 (日) 17:51:38 >> 24

価値とは何か。何に価値があるのか。それはどうやったら作り出せるのか。
ある意味で「知的生産性」を測定するその土台の部分について正面から疑問を抱えることこそが、知的生産においては必要である。逆に言えば、それを何かのメジャーで測れると考えている時点ですでにドツボにはまりこんでいる。

新しくなくても価値がある、ということも考えなくてはいけないなと思う。
インターネットによって世界に繋がりすぎて「絶対的に新しいもの」のことに意識を向けてしまうが、普通、人間というのは、その短い人生、狭い視界の中で偶然何かを知るということをもたらしてもらえれば十分にありがたい。どこかで誰かが絶対的に新しいものを発見して発表していたとしても、それを自分が生きている間に自分の視界に入れてくれる存在がなければ無いのと同じだ。

ただ、「情報としては新しくないが魅力を持っているもの」は「コピペで作ったもの」とは根本的に違う。そりゃそう。
その「魅力」の部分というのは、その書き手を通さなければ出てこないのだから、表現としては新しい何かを含んでいる。いや、新しいというか、「十分稀な」もの、と言った方がいいのかもしれない。

「十分稀な」ものを作るためには真剣にならなければならない。適当にやったものは「十分稀」にはなり得ない。記事にあるように「何かのメジャーで測れる」と考えていても駄目だ。そうやって測れるなら容易に量産可能なはずだが、そこに「十分稀な」何かはないだろう。

27
noratetsu 2023/09/24 (日) 11:30:05 >> 26

ただその結果、自分のために書くと決めたのに、せっかく読んでもらえるなら、その人たちにも面白いと思ってもらいたいという欲が生まれてしまい、結果何を書いていいのかわからなくなってしまった(本来、それを防ぐためにSubstackを始めたのに!)。

あるある。
読まれないのはちょっと悲しいから読まれた方が良いと感じるのに、読まれていると思うと急に自由を失ってしまうという。
私の場合、「なんか、読み続けるほどじゃなかったかな」とか思われるのが怖いと思ったりしてしまいますね…。「期待外れ」という評価に対する恐怖というか。

28
noratetsu 2023/09/24 (日) 11:32:18 >> 26

どうしたものかと思っていたが、最近、のらてつさんがたくさん書いているのを見て、私も書かねば(?)と思った。

いいぞいいぞ。
見た人読んだ人が「何か自分もやりたい」と思うというのは私の理想のひとつなので、大変嬉しいです。

29
noratetsu 2023/09/24 (日) 11:38:42 >> 26

のらてつさんの文章については、毎回楽しませて読ませてもらっているが、内容とは以外にも文体や書き方にも注目している。

おお、なんと。ありがとうございます!

のらてつさんの文章を読むと、自分だったらここは削るだろうとか、書かないだろうと思うところがある(念のため、悪い意味ではない)。

結果、書いていることに嘘を感じないというか、ちゃんと本当に思っていることを書いているのだという印象を受ける。そこが面白さであり、良さであり、羨ましさを感じる。

とても嬉しいです。「自分だったら~」というのもよくわかります。私も昔の私だったらこうは書いていないなと自分で思う部分が結構あります。
昔とは「演出」をするベクトルが全然違っているんですよね。昔は演出というか演技の部分が結構多かったのですが(こういうキャラに思われたい的なものも含めて)、今は「私はこう感じているんです」というのがなるべく誤解なく伝わるように導くための演出という感じがあります。

自分の文体が良いのかどうかは自分にはわからないので、本当に嬉しく思います。
こうするしかないと思ってなるべく堂々とした顔でやろうと心がけていても、「でも全然面白くないかも~~~!」という恐れはいつも抱いています…笑

30
noratetsu 2023/09/24 (日) 11:39:08 >> 26

だいたい1回の投稿で言いたいことを1つ決め、それを他人に伝えるために書いていく。そのために、「作文」をしている感覚が強い。その結果、「もしかしたらこの部分は冗長だったり、無駄かしら」という部分を削ることが多くて、文章としては綺麗に書けるようになってきたと思う反面、自分自身しかない固有の部分が薄れている気もしている。

わかる!
noteに書こうとしていた時にこれに陥って、私の場合は自分にとって「悪いこと」と言える程にマイナスに働いてしまったので(マイナスになるかどうかは人それぞれと思います)、反動で今の文体になったという感じです。
私がtksさんと違って致命的に失敗していたのは、「言いたいこと」の部分自体が自分由来ではなく「自分以外の誰かにとって有意義かもしれないこと」という想像上の何か由来だったことですね…。自己が薄れているどころか何もない…。

31
noratetsu 2023/09/24 (日) 11:40:14 修正 >> 26

言及していただきありがとうございます。嬉しさと共感のあまり、文単位で感想を書いてしまいました😊

tksさんのSubstack活動が自由で豊かになるよう応援しております🙌
自分が読んで「なかなか面白いじゃないか」と思えたら勝ちだと思っています!

32
noratetsu 2023/09/25 (月) 11:48:53 >> 26

#26 のらてつの雑記帳への感想 - 公開練習場
お返事をいただきました。ありがとうございます!

「最初はいい印象だったとして、だんだんと印象が悪くなるのに耐えられない」がすごくわかるんですが、そういう目に遭ったことがあるのかというと、実際には遭ってない(あったとしても繰り返し思い出して気に病むほどのトラウマにはなっていない)気がして、謎の悩みだなと思いますね…。どうしたらいいんでしょうね…。後でもうちょっと考えたいところ。