Web上で見かけた書き物についての感想。
同じ内容をTwitterに流すかもしれないし、流さないかもしれない。
ここのところ読後のメモを書く場所に迷って何もアクションを起こさないままになっていたりそもそも読むこと自体控えていたりしたので、その駄目な感じをここで解決したいところ。
Web上で見かけた書き物についての感想。
同じ内容をTwitterに流すかもしれないし、流さないかもしれない。
ここのところ読後のメモを書く場所に迷って何もアクションを起こさないままになっていたりそもそも読むこと自体控えていたりしたので、その駄目な感じをここで解決したいところ。
Knowledge Walkersにようこそ | Knowledge Walkers
知るためにあちこち渡り歩く、というのはメタファーとして珍しいものではないような気がするのに、どうしてか「そうか」と感じた。
「知りに行く」は既にあったイメージなのに、「知の移動」となると「知の!移動!そうか!」という気持ちになる。
「自分は○○を知りたいと思っている人間でありたい」みたいな自己像があり、ずっとそれに縛られていたけれど、多分本当に自分が知りたいことは自分が思い描いていた「○○」とは全然違うんですよね。
博覧強記な人は素晴らしいと心から思っている。自分がそうであったらどんなにか素敵だろうと思っている。が、本当に博覧強記になりたいのかと言うと、多分どうでもいい。それが己の実像だということを認めるまでに結構かかっている。
自分が見つめるべきは、「博覧強記」的イメージの領域ではないのだと思う。持っている知識が絶対的に広くて多いことは大事だという思いは持ち続けながらも。
というか、どちらかというと自分のための「知りたい」を追究した先に、博覧強記の道が繋がっているのではないかとも思う。
アウトライナーと仲良くなるためのいくつかのポイント|Tak. (Word Piece)|note
アウトライナーを自由に使うための○箇条!みたいで面白かったです。
ポイントそれぞれについてばらばらに「こう考えた方がいいよね」と思い至りはしますが、こういう風に踏まえるべきポイントがまとめられていると見通しが良くなる感じがします。
アウトライナーという言葉がやっぱり諸悪の根源なのでは…ゴニョゴニョ(アウトライナーという名前を好まない派のつぶやき)
意味と形式の両方を持ってしまう単語は常に両方を引き連れてしまうし、しかもカタカナ語となると「微妙な違いで言い分ける」みたいなことも起こらない。
正直「○○のアウトライン」「△△のアウトライン」という風に呼び分けてもあまり納得できないし、単に「アウトライン」と言われた時にどの意味の何を示しているのか自明でないので、「アウトライン」と呼び続ける限り日本人の混乱がなくなることはなさそう。しかし市民権を得うる日本語が思いつかないのでどうしたらいいかわからない。
せめて形式に「○○型表記」という名前が付けば半分はわかりやすくなるのにって前から思っていますがずっと考えていてもこれぞというのが思いつかない。
タイムラインとフィード | R-style
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。
統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。
「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。
視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。
2023.04.07
特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂
聞き手:もんじゅ君
インタビューは2013年のもの。
音楽の中でも、言葉を乗せて直に精神に触れてくるような歌と言葉のない曲とあるけども、歌もいいけどインストゥルメンタルの寄り添い方はより深い慰めを感じる。
個人的には、歌と一緒に沈めるところまで沈んで、インストゥルメンタルと一緒にゆっくり浮き上がってくる、という慰め方をそれぞれに感じる。その意味で、応援歌よりは悲劇をそのまま歌った歌の方が「効く」。
言葉があるとその言葉に関する自分の心情を整理することを積極的に求められている感じがどうしてもしてしまうけど、言葉のない音楽は自分自身がゆっくりながらも能動的に心情を整理することを支えてくれるという感じがする。
親が坂本龍一という環境、強い。
なんだか最近、「プレイリストを作る」ということをしなくなったなあ。というか、そもそも音楽を聞かなくなっている。十代の頃は「聞いてちゃ駄目な時間以外何かしら聞いている」というくらい聞いていたのに、今は聞こうと思った時以外聞いていない。新しい音楽を知ろうという気持ちもかなり薄まっている。
聴覚が塞がっているとまずいという生活がちょっと続いていたこともあって、「聞く」というのが縁遠くなってしまった。
シチュエーションに合わせて音楽を構成する、というのは多分すごく「豊か」なことで、取り戻した方が良い習慣だなと思う。
日本でもテロが「本当に起こること」になりつつあるが、先日の岸田首相を襲った件に対する反応を見ても本当に危ういと感じる。
秘密にするのは簡単だが、クリアにするのは難しい。「ちょうどよい秘密さ」なんてものはなく、秘密にしていいとなったら果てしなく秘密にされる。
統治者という存在の恐ろしさを日本はよく知っているはずなのに、一件二件のショッキングな出来事でワーッとなってしまうのは、戦争のことをもうほとんど忘れてしまったということかなと思う。
悲しい。
「後悔」はないとしても、あと二十年欲しかっただろうな。
「人の身体に負担のすくないメディア」という表現が良い。
うーん、多分私は、折角「負担のすくないメディア」であるところの本をわざわざ負担に感じるように読もうとしているのだなと思う。律儀に読もうとしてしまうというか。未だに「本というものは最初から読まなきゃいけない」と思っているわけではないのだが、その認識を捨てたからと言って「(自分に良いように)雑に読む」ということができるわけではない。
全ての本を「立ち読みのように読む」という気でいた方がいいのかも。別にそれは「読み捨てている」ということにはならないのだし、繰り返し立ち読みすればいい。
もしや、立って読めばいいのでは? 物理的に「立ち読み」にする。
座ってはならぬ、くらいの気持ちで立ったまま読む。「座らせてくれ!」という気持ちになったら座って読む。そのくらいの気持ちになったらそのまま読み続けられるだろう。
本以上に苦手なのが映画なんだけどまさにこのことによって苦手に感じている。時間の流れを乗っ取られたくないという気持ちがある。
実際に見始めれば事前に感じていた程の不快感は見ている間にはないのだけど(ゼロにはならない)、事前の拒否感がありすぎて「見始める」までのハードルが高い。
音楽も「ただ聴く」ってできなくて、常にBGMにしている。音楽に対して集中することはなく、BGMとして繰り返し聞く中で全体像を把握していっている感じがする。
逆に、本を読んでいる時に時間の流れを乗っ取らせなさすぎて、多動性的なものが発動して読むのをやめてしまう。
でも本に関しては折り合いをつける余地があると思う。そもそも本の流れにそのまま沿わなくていいのだから、もっと横暴に読んでしまえばいいのだと思う。内容を蔑ろにするというのではなく、自分の時間の流れに合わせて自分仕様の読み方をした結果、最終的に内容を取り込んだ状態になるようにする、という話。つまり自分の音楽の聞き方と同じようにすればいいのかも。
特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー後編「この日本という国では『やめる』という決定を誰もできない。撤退ができない国なんです」|じんぶん堂
2023-04-19
名前のない望み - Word Piece
「将来の夢は?」と問うて「具体的な職業名」を答えさせるとか、「何を成し遂げたいか?」を言わせるとか、社会に貢献する方法で自分を定義しようとする感じがする。でも自分の望みというのはふつう「社会に貢献する方法」の中にはないのだと思う。
如何にも利他的な職種や手段でなくとも、余程の野心家でなければ、思い描くのは人に良い影響をもたらしうる何かだろうと思う。それはやはり「社会に貢献する方法」の中から最も自分が惹かれるものを選んでいるということになると思う。
自分に最適な「社会に貢献する方法」が見つからない状態を「夢がわからない」と思ってしまうのは、まさに私自身がそうだったが、多分ただただ不幸な苦しみなのだろうと思う。自分に何か欠陥があるかのような気持ちになった。空っぽという感じがした。
今でも所謂「夢」とか「やりたいこと」というのは別にない。ひねり出そうとしてこれかなと言うことはあるが、正直に言えば「ない」と言っていいと思う。
でも、自分がどういう人間であるかを語る力はそんなに乏しくないと思う。これだけ色々言えるのに、どうして自分が空っぽだとか欠陥があるとかいうことになるんだろう? 途中からそう思い始めた。
多分私も、Tak.さんが仰るような「『情景』ならある」タイプの人間なのだと思う。
自分の望みに名前はつけられないし、「名前がつけられないタイプの望み」という概念をピッと指し示す名前も無いような気がする。
望みに名前をつけたいわけではない。でも、名前がつかないことによって遠回りする必要に迫られたというところはあるのだと思う。
知的生産力向上委員会 | Knowledge Walkers
新しくなくても価値がある、ということも考えなくてはいけないなと思う。
インターネットによって世界に繋がりすぎて「絶対的に新しいもの」のことに意識を向けてしまうが、普通、人間というのは、その短い人生、狭い視界の中で偶然何かを知るということをもたらしてもらえれば十分にありがたい。どこかで誰かが絶対的に新しいものを発見して発表していたとしても、それを自分が生きている間に自分の視界に入れてくれる存在がなければ無いのと同じだ。
ただ、「情報としては新しくないが魅力を持っているもの」は「コピペで作ったもの」とは根本的に違う。そりゃそう。
その「魅力」の部分というのは、その書き手を通さなければ出てこないのだから、表現としては新しい何かを含んでいる。いや、新しいというか、「十分稀な」もの、と言った方がいいのかもしれない。
「十分稀な」ものを作るためには真剣にならなければならない。適当にやったものは「十分稀」にはなり得ない。記事にあるように「何かのメジャーで測れる」と考えていても駄目だ。そうやって測れるなら容易に量産可能なはずだが、そこに「十分稀な」何かはないだろう。
カッコつけない文章を書きたい - tks’s Substack
あるある。
読まれないのはちょっと悲しいから読まれた方が良いと感じるのに、読まれていると思うと急に自由を失ってしまうという。
私の場合、「なんか、読み続けるほどじゃなかったかな」とか思われるのが怖いと思ったりしてしまいますね…。「期待外れ」という評価に対する恐怖というか。
いいぞいいぞ。
見た人読んだ人が「何か自分もやりたい」と思うというのは私の理想のひとつなので、大変嬉しいです。
おお、なんと。ありがとうございます!
とても嬉しいです。「自分だったら~」というのもよくわかります。私も昔の私だったらこうは書いていないなと自分で思う部分が結構あります。
昔とは「演出」をするベクトルが全然違っているんですよね。昔は演出というか演技の部分が結構多かったのですが(こういうキャラに思われたい的なものも含めて)、今は「私はこう感じているんです」というのがなるべく誤解なく伝わるように導くための演出という感じがあります。
自分の文体が良いのかどうかは自分にはわからないので、本当に嬉しく思います。
こうするしかないと思ってなるべく堂々とした顔でやろうと心がけていても、「でも全然面白くないかも~~~!」という恐れはいつも抱いています…笑
わかる!
noteに書こうとしていた時にこれに陥って、私の場合は自分にとって「悪いこと」と言える程にマイナスに働いてしまったので(マイナスになるかどうかは人それぞれと思います)、反動で今の文体になったという感じです。
私がtksさんと違って致命的に失敗していたのは、「言いたいこと」の部分自体が自分由来ではなく「自分以外の誰かにとって有意義かもしれないこと」という想像上の何か由来だったことですね…。自己が薄れているどころか何もない…。
言及していただきありがとうございます。嬉しさと共感のあまり、文単位で感想を書いてしまいました😊
tksさんのSubstack活動が自由で豊かになるよう応援しております🙌
自分が読んで「なかなか面白いじゃないか」と思えたら勝ちだと思っています!
#26 のらてつの雑記帳への感想 - 公開練習場
お返事をいただきました。ありがとうございます!
「最初はいい印象だったとして、だんだんと印象が悪くなるのに耐えられない」がすごくわかるんですが、そういう目に遭ったことがあるのかというと、実際には遭ってない(あったとしても繰り返し思い出して気に病むほどのトラウマにはなっていない)気がして、謎の悩みだなと思いますね…。どうしたらいいんでしょうね…。後でもうちょっと考えたいところ。