お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
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