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2023/04/20
第百二十五回:Tak.さんと二冊の本について - 知的生産の技術 第百二十五回:Tak.さんと二冊の本について - LISTEN
取り上げられている書籍
8:06
Tak.:(Bikeは)アウトラインのファイル形式にプレーンなテキストファイルを選べるんですよね。だからアウトライナーでアウトラインとして操作してるんだけど、テキストファイルとして保存されてる。
Tak.:それを普通のテキストエディターで開くと、普通に単にタブの数でインデントの深さが表現されたテキストファイルになってるんですけど。あれは素晴らしいですね。 倉下:そうですね。原理的に考えたら全然作れる話で。
HTML上ではアウトライナーとして使えてデータの実体はMarkdownの箇条書き形式(mdファイル)、というのを以前私も頑張って自作しました😎 (その前にLogseqを使っていて、Journal機能の感じはいいけどアプリケーションとして自分にとって過剰、と思って代替が欲しくて作った)
属性をごりごりに使うリッチなアウトライナーも面白いし、そういうものを必要としないシンプルなアウトライナーもあった方がよくて、アウトライナーとしては一見似た見た目で似た機能に思えても、そういうデータの形式で使い分けするというのもありですよね。
31:10
倉下:著者が経験してきたはずであろう戸惑いとか試行錯誤みたいなのも、きれいさっぱりないんですね。 (中略) 倉下:そこが僕はやっぱりノウハウの決定的な弱点というか、人を助けようと思ってるけど助けられてないところがこういうところにあるんじゃないかなというのを、この本を読みながらずっと考えてたんですよ。 方法を教える人も人間であって、その方法にたどり着くまでにいろんな苦労があったと。つまり歴史があったと。むしろ人を勇気づけるのはそっちの歴史の方じゃないかなと思うんですよ。 (中略) 倉下:人は苦労してノウハウを作るんだっていうことを伝えるということが、それよりも1000倍も2000倍も重要じゃないのかなと。
そう…なんですよね。今まで読んで響いたのはその人の歴史をちゃんと書いてくれた本だったと思います。
ただこれって、著者を「すごい人」と認識しているからその人の歴史まで知りたいとか、その歴史が論の支えになるということもあるような。 例えば「東大卒で○○の専門家」みたいな肩書がある人が失敗の歴史を語れば「そうかー」と割とみんなが思うけれど、そういう「保証」的なものがはっきりしていない著者の歴史はあんまり真剣に読まれないかも、とちょっと思う。
個人的には素直に読みたいとは思うけれど、悪書溢れる世の中なのでよく知らない著者の本には余計なフィルターをかけてしまうところがある。別に東大卒で○○の専門家なら信用できるという話にはならないとわかっていつつ。
昔に流行った本というのは、経歴の強さが支えになった面がどうしてもあると思うし、一方今はたとえ東大卒と言っても昔と比べれば肩書として重みを失ってしまったので、本当に余程存在感がしっかりした人(千葉雅也氏のような)じゃないとあの頃のようには真剣に読まれないのかもしれない…。どうなんでしょうね…。
40:22
倉下:なんか不思議なんですけど、例えば料理の本ってあるじゃないですか。レシピの本とか。 あれはこの手の(ノウハウ)本と同じような困りごとというか、自己否定に陥るほどの困難って多分起こらないと思うんですよ。料理の本って。うまくできなかったらまあうまくできなかったし、作ってみてあんまり美味しくなかったら「まあまあこんなもんか」で済ますと思うんですけど。 でもタスク管理とか情報整理って、もっとラディカルに自己否定が生まれるような気がするんですよ。 Tak.:料理ってのはやっぱり料理の中だけのことですよね、うまくいかなかったとしても。タスク管理とかっていうと、人生全体みたいな感覚を抱かせちゃうのかもしれないですよね。
そうですよね。そう。ノウハウと言っても領域によっては自分が何かを「できない」とか何かが「うまくいかない」とかを割とさらっと流せるのに、タスク管理とか情報整理はなぜか「人間としての基本的な能力」を問われているかのような気に勝手になってしまう。
多分仮に料理の本なら料理というものにものすごい価値を置く環境で育ってしまうとまた違ってくるのだと思いますが、でもタスク管理とかほどダメージを受けるというのはよくあることではない。
45:43
Tak.:だから(アウトライナー否定派の主張を)読んでると、僕はアウトライナーの価値を信じているので、それを読むと腹が立つ。 いやいやお前がわかってないだろって思うんですけど。 思うんだけど、それでいい気がするんですよね。
倉下:その人の個人の考えが素直に出ている方が、読み手にとってはむしろ選択肢が増えるという意味で良い…その著者の本しか読まない人っていうのは極端にはいるかもしれないですけど、そういうのを一旦例外として置けば、読者もそんなに馬鹿ではないというか。
これ本当そうだと思いますね…。 なんというか、ネット上でそういうテンションで悪口的なことを誰かが言ったとすると、正直「どうしてわざわざ面倒くさい事態を招くの?」という気持ちが先に立ってしまうのですが(自分のその反応が正解と思っているわけではないです)、でも本でそれをやるのが許されない、出版させてもらえない、となるとそれはちょっと違うんじゃないかなとも思います。
多少過激なことを言って、反対派を怒らせたりして、でもそれでいいと思う。もちろんエセなんとかを流布させているとか歴史的事実の解釈が大幅に間違っているとかは別ですが、人それぞれの美学をちょっと強力に押し出してみる、というのはあって然るべきと思っています。 その意味で、ネットの空間と本の空間は別の次元であってほしいのですが、昨今はその境界が曖昧だなと思います。ポリコレの時代になって特別区的なものが失われたということなのかもしれない。
55:16
倉下:1億人に軽く刺さるフラットな方法論よりは、500人ぐらいにぐっさり刺さるノウハウが100個も200個もあった方が、有意義というか、良い空間な気がしますけどね。
そう思います。
1:00:03
倉下:日常的にブログを更新していくと、やっぱり大きな体系をまとめるということにはなりにくくて。 (中略) 倉下:やっぱりもうブログは書いたら終わりみたいなところがずっと頭の中にあったので。
ブログで発表されていると、読む側としても「そもそもそこに体系はない」みたいな感じで読んでしまう。 体系というのは「時間の流れとは関係なくどっしり存在している」ものであるという意識があって、「時系列」というだけでもう「体系的ではないな」と判定してしまうところがある。書き手としてもそういう意識が働いてしまうように思う。
やっぱり時間の流れとは別の構造によって整理する必要があるのだなあ。
1:04:27
Tak.:例えばのらてつさんが書いてるプログラミングの話、あれを見て自分もやってみようと思う人っていると思うんですけど。 倉下:思いますね。 Tak.:で、まあ決してのらてつさんはその道の権威ではないけれども、もしかしたらそこからその道に入っていく人っていると思うんですよね。多分ね、十数年前の自分があれを読んだら多分やってみるような気がするんですけどね。
おお、ありがとうございます!
1:05:52
倉下:やっぱりその、同じレベルで…まあ「ちょっと先」を歩いてる先輩ぐらいの位置づけで語る人がいたら、まあ半年遅れでもちょっとやってみようか、みたいな感じにはなりやすいでしょうね。
そうだと思うんですよね。 ただ難しいのは、そういう存在というのはググっても見つけにくいし、そもそも「全く知らない人」だと「わざわざ未熟な人の語りを読む意味とは?」みたいなことにもなってしまう。 例えばTak.さん・倉下さんが私の記事をシェアしてくれたとすれば、Tak.さん・倉下さんのことを知っている人からすると、のらてつという存在がその人にとって「知っている人が知っている人」に位置づけられるので、ちょいと読んでみようかと思ってくれる可能性が生まれる。価値あるものとして扱おうという選択肢が出てくるというか。
そう考えると、記事の質・方向性をどうするかもさることながら、空間づくり的なものが重要になってしまうところはあるのだと思います。多分、ライフハックブームの時のブロガー同士のネットワークというのはそういう空間を作っていたということでもあるんでしょうね。
1:06:11 「誰でもできますよ」問題
❌ 「誰でもできますよ、なぜなら私ができたからです」
⭕ 「私はこうやりました」 「結果的には私はできたんで、同じやり方でできる人もいるかもしれませんよ」 「俺は誰でもできると思ってますよ」
ここのくだり、聴いていてなんだか面白くて笑ってしまいました。
なんというか、やっぱり正確なことを言った方がいいですよね。 ある程度以上の複雑さがあるものだと、「誰でもできます」というのはぶっちゃけそんなはずはないので「誇張してるな」とわかってしまう。 「盛ってるからその分差し引いて読む」みたいな回りくどいことを起こさずに、普通にその通りに書いてその通りに読んでもらえば話はシンプルになるのになあ。
1:12:24
倉下:僕はずっと読者に押し付けない方がいいとずっと思いながらこの手の活動してきましたけど。やっぱり何も押し付けないと、起点になるものが何もないなということに最近気がついたんで。 力を蓄えた読者は、俺が与えた構造なんて簡単に壊していくだろうという信頼感を持った方がもっといいんだろうなというふうには、ちょっと最近思ってます。 Tak.:あーでもそうですよね。読者に対する信頼感ってのはそういうことですよね。
作家という存在であることの覚悟みたいなものを感じました。 やっぱり、あまりに「良き先生像」のようなものを目指し過ぎても駄目なところもあるんだろうなと思いました。会って話す存在と本の著者とはまたあるべき姿が違うような気がします。 「傷ついた人の心に寄り添うための本」ならまた話は違ってくるでしょうが、普通の硬度(?)の読者が相手ならむしろ「かかってこいや」くらいの強さでもいいくらいなのかもと思ったりなんだり。自分がやるとなったら難しいですが…。
面白かったです!
それにしてもLISTENのおかげで超がつくほど捗った。 Podcastの利用が自分の中でやっと「現実的なもの」になったと感じる。
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - LISTEN 第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - 知的生産の技術
面白かったです。 Podcastそのものとは関係ありませんが、LISTENの文字起こしが結構暴れていてちょっと可笑しい。途中で突然話者の名前に「おだしょー」とか「知事」とか表示されていたり。でも目次はすごい。
23:47
Tak.:(自分の)ブログってそれこそ二千字もないのが多いんですよ。しかも、こう、パーツが三つくらい組み合わさったりするのが多いんですけど。そうですね、あれは多分ブログのアウトラインの中で、あっちやったりこっちやったりしてる、全然関係ないときに書いたものが組み合わさってできてたりすることが結構多いので、ある記事を書き始めるっていう感覚自体があんまりなかったです。
26:18
自分の頭から出てきた文章のつまらなさを直視しないために、それを切断して違うものとくっつけるみたいな。そうすると、切断して繋ぎ換えると飛躍が生まれるわけじゃないですか。その飛躍っていうのは、普通に僕の中では普通に流れるように書いていくと生まれないものなんですよね。 だから場合によってその、自分でも思いつかなかった、書けなかったはずのを書けるみたいな。書けるわけじゃないんですけど、単に繋いでるだけなんですけど。そうすると自分で読み返したときに、ああ、自分が自然に書いたものよりも面白いかもしれないってちょっと自分で思えることがあって、結局そういう欲求に突き動かされるようになる。
今回最も興味深かったのがこの部分です。 自分の文章がつまらないと感じた結果そういう工夫に繋がるということにかなり仰天しました。 同時に、あの飛躍はそうやって生まれるからああなるのか、ということに納得しました。その飛躍のミステリアスさに憧れを抱いてきたのですが、多分自分がやろうとしていた努力ではこれは実現しなかったなと思いました。でも手法として真似し得ることだというのがわかったので、逆に自分に取り入れられる可能性は見えてなんだか気持ちが軽く自由になった感じがします。
素朴な疑問ですが、Tak.さんの喋りはずっと面白いと思っているのですがご本人の感覚としては話すのと書くのとで大きく違っていたりするのでしょうか。
24:23
倉下:僕は明らかに記事を書くっていうテンションで臨みますし、多分おそらくコウさんもそうでしょうね。
28:43
倉下:僕は文章の断片がなんとなく並べ替えて文章になるということはほぼないですね、やっぱり。書くとなってからもう書く、それ記事かどうかわからないけど、これをちゃんと文章にする、この考えを文章にすると思って文章にして出すみたいな感じですね。
私もそうですね。リニア型の書き方というのはつまりそういうことなんでしょうか。流れで書くということは結局流れを生むと決めて流すということで、書くというテンションで臨むのは大前提というか。 多分流れで書いてしまうことができない人からするとこの「書くと決めて書くんだよね」というスタンスは羨望の対象になるのではと思いますが、「流れで書ける」イコール「書くことが流れに依存してしまう」ということで、任意のタイミングで取り扱うのが難しいとか編集が難しいとかいうことになるのだと思っています。 あらゆるものを流れにできる超能力を持っているか、流れをコントロールする術を自分で開発するかしない限り、「たまたま巡り合った流れに乗る」という博打性から逃れられないと感じています。
34:30
倉下:だから何に困ってるのかっていうことに対する解決でしかない、ノウハウっていうのは。で、その解決したことによってその人が本来持ってた生産性っていうものがもしかしたら発揮されるから、ビフォーアフターを見た時に生産性が上がっているように見えるけど、それはただ単に元の状態に戻ったというか、本来的なスペックが発揮されただけであって、過剰に底上げしたわけではないというノウハウの捉え方の方が健全というか、真っ当ではないかなというのを最近思いますね。
そうそう、そうですよね。いつも「枷を外す」というイメージを持っています。ノウハウは界王拳でもバイキルトでもヘイストでもなく、つまりバフではなく、デバフ解除の助けなんだと思います。 だから、誰でもすごい人になれるみたいなのは信用できませんし、どちらかというと「本来の自分になることそのもの」を喜ぶ気持ちが必要だろうなと思います。その結果すごいかどうかではなく。
41:05
倉下:書かざるを得なくなったら人は書くものであるし、そのために新しい方法が必要だったらおそらくそこで輸入されるものなので。 だから非常に泥縄式なんですけど、ニーズがあったら初めてノウハウが引き継がれて生きてくるというか、使えるようになるので、困ってないことってやっぱりどうしたって使えないんで。
「書かねばならぬ」が先にあって、そのために方法というのが見いだされるものだろうなと私も思います。ツールやノウハウというのは「どう実現するか」の助けになるもので、「何を実現するか」がなければ使いようがないですよね。
で、私は「ブログの書き方ド下手問題」で本当に真剣に考えたのですが(Noratetsu Lab: ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~)、「書かざるを得ない」「書かずにはいられない」という思いは確かにあっても、そのエネルギーをどう出していくべきかというのはすんなり定まるとは限らないのですよね。 ①「何か書かねばならぬ」→②「○○を書かねばならぬ」→③「これを使って○○を書くべし」という過程の、②からスタートする人もたくさんいるわけですが、①からスタートしている人間が、②からスタートしている人の話を聞いて③に行ってしまおうとしても、②を飛ばしているわけなのでどうにもならないということがあると思います。 自分は「書かざるを得ない」タイプの人間であるはずと思いながら、具体的に書かずにいられないことはないという時、やはり自分の欲望に深く潜っていく必要があると感じています。
45:07
倉下:僕の一つのポリシーとして、オファーされたら、オファーした人を信用するっていうのがありまして、こいつは書けると思われたんやったら、俺は書けるんだろうと。
これは大事ですよね。本当に大事だと感じます。 私も物事がうまくいっていた時というのは「やれと言われたんならやれるんだろうからやる」という風にやれていたなと思います。でも人生が下り調子になった頃からこれができなくなっていきました。
53:54
Tak.:舐めてるから始められる。 倉下:そうそうそうそう。舐めてるから始められて、後の自分が苦労するという、そういう構図で人って前に進んでいくところがあるので。
これって本当にそうですよね。そうだから、賢明で慎重ならいいのかっていうとそうでもないという。 ある種愚かじゃないと前に進めない。
57:46~ 脱線について あー、脱線の感じに関しては私はTak.さん寄りなのかもしれない。 私は前の文に依存して次の文を生み出すタイプですが、ひとつの文に依存して複数の文を作ってしまうことがたくさんあるので、それはとりあえず全部書いてしまって、今必要ではないものは取り除くことになります。 その取り除いたものは何らかの形でどこかに使うことを目指しますが、手前の文に依存していることは変わらないので、それを別な場所で使うにはかなり苦労を感じます。でもそうすることがないわけではありません。
あと自分のブログなら、脱線してもまあ接続詞を駆使して本筋に戻して、何が本筋かを強調し直せばいいやと思うので、そのまま書いてしまうことがあります。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、自分にとってその方が面白いので、そうしてしまっています。
1:04:00あたり~ 欲望について
あー、私はもう自分の深淵を探るのが当たり前になっているけど、まあ確かに危ないことでもあるのか…。 私自身、自己を知らなければ遅かれ早かれ死ぬ、という極限状態を経たのでそれが習慣になっているだけで、もしのほほんと生きていけたならそんなことやってないんだろうなあ。 だから「自己に問うべし」ということを本当に毎度のように、あらゆる記事で書いているかのように繰り返し書いているけど、その意味が通じるかっていうと、多分私が思うようにはすんなり通じないんですよね。
こんまりについて
私はかなり感銘を受けた…というか、まあやましたひでこさんとか辰巳渚さんの著書を読んでいたので核にある価値観は前から知っていたことだったんですが、やはり「ときめき」という表現のパワーに心底感嘆しましたね。 私自身が「ときめき」で開眼したというのではなく、「ときめき」という言葉によって「自分の物と対話する」という観念を世界に一撃で叩き込んだということにただただ圧倒されています。
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - LISTEN 第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
とても面白かったです。 いつもお二方の間で共通の文脈があるからこその鋭い考察を興味深く聴いていますが、ゲストが新しい風を吹き込んだ時に生まれる「盲点だった」感にはまた別の面白さがあるなと思います。
30:23
Tak.:例えばあの記事にコウさんが全面的に満足しているのかしていないのかわからないですけど、仮にしていなかったと、仮にしたときに、そうやってこのアウトラインの形で書いてしまったことを俯瞰したときに、自分はこういう流れでこういうことを書いたんだなと。 (中略) まずは文章を普通に書いてみて、その後で何を書いちゃったかを確認して、それで良ければもちろんそのままいけばいいし、良くなかったらどう良くないのか、それでどう直したらいいのかっていうのを考えやすくなるっていう、(アウトラインというのは)そういう装置なんじゃないかなという気がしてますね。
そういえば、自分が文章を書いた時には、自分なりに文章の出来を点検する尺度があるわけですが、自分が自分の文章に当てるべきその物差しがいかなるものかを考えるというのも必要なことかもしれないですね。 問題があるとかないとかいうのを判定する基準がないと、見直してもどこにもいけないので、「こういう文章は嫌だ」チェックリストみたいなものを持っておくとか。明文化しないとしてもイメージとして持っておくというか。
42:38
倉下:慣れてない作業がきっとあって、文章を書く中でも書き換えるとか粒度を整えるとかっていうことは多分あんまりこれまでやられてこなかったと思うんですよ。なぜやらなかったかというと、書けちゃうからなんですね。初めからそれなりに形の整った文章が書き出せてしまうから、もうそれ以上手を加えるという、ある種のトレーニングをしなくても済んだ。
なるほど。
48:27
倉下:時期によってメルマガの書き方って違うんですけど、1週間に5つの記事を載せていた時期は、1日1記事2000字くらいなので、1日に1記事書く2000字書くを1週間、月から金まで5日続ければ一応メルマガ1号本が出来上がるじゃないですか。 で、それぞれの記事は1回ずつ切れているわけですから、僕はそれを終わりまで書いてるわけですね、その1日ごとに。で、書き上げて完成するっていうパターン。で、たまに1号まるまる同じテーマの回とかがあるんですけど、あれは1日で書いてます。 3日に分けて3000字で1万字とかじゃなくて、1万字の記事書くときは朝から書いて夕方までで1万字に仕上げてる。だから結局連続性でないと書けないっていう感じがあって、いかにそれを担保するかっていうのを苦心してるという感じですね。
なるほどなるほど。まあやっぱりそうですよね、流れ派としては。だから村上春樹さんの書き方には信じられない気持ちになる。
50:19
倉下:だから、ドライブする気持ちっていうことが多分一番大切で、というか、それが文章を書くことの意義だと思うので。文字を埋めることは多分文章を書くことの意義じゃないと思うので。 ドライブする気持ちと筆が乗る気持ちとのタイミング、リズムを合わせていって、文章が書けたらもうそれでハッピーで、時間が取れなかったら書けないのもしょうがないし、気分が乗らなかったら書けないのもしょうがないっていう、ものすごく諦めの話が多いですけど、この仕事をずっとやってきて感じるのは、人間というもののどうしようもなさですよね。コントロールできないものなので、その性質に合わせてぼちぼちやっていくしかない。
「ドライブする気持ちと筆が乗る気持ちとのタイミング、リズムを合わせていって」というのが重要なポイントだなと思いました。努力すべきところは、他の何でもなく、この「合わせていく」ことだということ。
1:01:33
Tak.:思うのが、アウトライナーの中にメモの断片をどんどん蓄積していって、これをあれこれいじると文章ができたりするといいなって思うんですけど、できないじゃないですか大体それって。 メモの断片を蓄積するってそれカードでも同じことが起こると思うんですけど。むしろそのメモの断片というよりも書きかけの記事でそれをやったほうがおそらくうまくいく。 これはもう全然経験からしか言ってないんですけど、何でかわかんないんですけど、書きかけの記事っていうのはやっぱりどこかに向かいたいという、倉下さんの言い方で言うと矢印があるんですけどね。それが途中でブツッと切れてるんですけど、矢印があるから、それが指し示している方向にある何かを別の機会に書いたときにそれと接続しやすいとか。もしくはその同じ方向を向いている矢印を持った別のもの、同じ方向のものだから、接続というよりも並列しやすいとか、そういうことが起こるんですよね。 でも最初からこれはメモ、メモの断片と思って書いたものをいくら貯めてもそういうことってあんまり起こらないんですよね。だからむしろ何か書きかけの文章の方が何て言うんでしょうね。生産性が高いという言い方変ですけど。
これはわかる気がします。 なので、「一度Twitterに呟いたもの」は再利用しやすいんですよね。矢印ができているので。 で、再利用しやすいものをTwitterにどんどん放流できているからと、非公開のメモも充実するに違いないと思っていると、ところがどっこいうまくいかない。矢印の力が弱いのでしょう。
1:11:01
Tak.:削除する勇気がないから未使用に落とすと思ってたけど、未使用に落とす勇気がないときはどうしたらいいんだろう。 (中略) 鞘戸:私が結局、文章を動かすということに慣れていないために、未使用に落としてしまったらもう出番がないみたいな感じになっちゃうんです。
これ、もし「未使用」が視覚的に下ではなく上とか横にあったらどうなんだろう? 「落とす」って言うともうそこから這い上がってくるのは大変な感は確かにあるんですよね。 私は「使うかもしれないもの」は上に、明らかな「没」(別の書き方で言い換えたのでもう要らなくなったもの、矛盾が発生してしまったので書けなくなったものなど)は下に置くことが多いです。
1:23:02
Tak.:ブログはそんなにこなれさせようとしない、かなりぎこちない状態をむしろ前に出してたりすることがあって。そのぎこちなさのことを時々褒めてくださる方がいるというか、例えばそのコウさんがどこかで独特の空気感と言っていただいていることもあるんだけど、それってぎこちなさのことかもしれないんですよね。
倉下:そうですね。だから流れ派で言うと、流れてなければダメだし、文章を書くときは流れで想定しているから、飛躍のあるような繋がりを見ると「とても自分はこんなん書けない」っていう感じがするんですね。流れ派からすると。なんかすごい技法が後ろに働いているように見えるわけですよ。
そうそうそう。まさに「なんかすごい技法が後ろに働いているように見える」んですよね。 この件について前に書いた記事→Noratetsu Lab: 飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ
1:27:53
倉下:でもやっぱりモチベーションは上がるけどプレッシャーは上がらないなんていう楽園は多分なくて(笑)、上がっていくものなので仕方がないですね。
厳しい現実…笑
1:29:30
Tak.:(コウさんは)やっぱり書けてるんですよね。ただその、実際に人が見て書けてるって思うことと書き手が自分は書けてるって思うことってやっぱ違うんですよね。だからそこのせめぎ合いをどう解決するのかって結構書く人にとって重要なことなんだなと思いますね。 人の文章だからこんなことが言えるけれども自分のに関してはそう思えないんですよね。 倉下:あっはっはっはっは(笑) (中略) 倉下:他人がいるから言えることっていうのがあって自分のことを棚にあげてはいけないっていうのでは多分何も教訓的なものって生み出せないと思うので。お互いに棚にあげてお互いのことをアドバイスし合うというのは大変良いことではないかなと個人的には思いますね。
お互いに棚に上げてアドバイスし合うというのは本当に重要というか、倉下さんが仰る通り「大変良いこと」だなと思いますね! やっぱり批判的な目を向け合うみたいなのは辛くて、「お互い棚に上げる」ことが許される、つまり「仲間」的な間柄でお互いに言及し合うのは大事だと思います。(not「容赦なく言う」)
第百三十七回:Tak.さんとるうさんとメモやタスク管理とその道具についての四方山話 - LISTEN 第百三十七回:Tak.さんとるうさんとメモやタスク管理とその道具についての四方山話 - 知的生産の技術
29:40
るう:(デジタルで)うまくいかなかったのが、1月から12月までっていうノートを作って、それぞれにそっち行って書く、こっち行って書くとか、4月になったら4月のノートに行って書くとか。そういうことを何て言うかな、昔の紙だったらみんな当たり前じゃないですか、手帳で動いていく。
そうなんですよね。そのうまくいかなさ本当によくわかります。 やっぱり手帳というのは無限に広がっているわけではなくて「1冊」というコンパクトな世界だからいいんですよね。 デジタルはどこからどこまでが1冊とかなくて、無限に広がってしまう。仮にここからここまでを1冊と解釈するということを試みたとしても、やっぱり物としてあるのとは全く違っていて、身体的にそれを1冊と認識できないから紙の手帳のようにはうまくいかない感じがしますね。
30:29
倉下:12月分のノートを作っていって、それを例えば更新日順とかにしてしまうと、ホーム感という居場所感っていうのがやっぱりなくなってきますし。
そう、更新日順っていうのが曲者なんですよね…。カード的に書き溜めている情報なら、色々と順番を変えて見るのが刺激になったり取り出しやすさに貢献したりとメリットが多いですが、そうふらふらされると困る情報というのがあって、それはちゃんと「留める」ように考えて場所を選ばないといけないですよね。
33:17
Tak.:(先々までデイリーの欄を用意してしまうと)スケジュール代わりに使っちゃうんですよね、それやると。カレンダー代わりになっちゃうんですけど、それはすごい危険なので、カレンダーでないものをカレンダー代わりに使うのはものすごい危険なのでやめました。カレンダーはカレンダーに書くべきだろうと。
あ~そうそう、スケジュール的なものを書き始めるとまずいのとてもわかります。結局全貌の把握に貢献しないというか。 「危険」という表現が面白いと感じましたが、確かに「危険」なんですよね。事故が起こる。
51:28
Tak.:僕ね、掃除をするっていうのをリピートにしたらダメでしたね。月曜日の朝には必ずトイレ掃除をするみたいなことをやり始めるとダメなんですよ。 (略) で、しなくてもいいじゃないですか。別に月曜の朝にしなくてもいいわけですよ。しなくてもいいということは、自分の選択に任されているはずなんですけど、それを「やる」って出てくるとすごく嫌になるんですよね。
わ、わかる~~~。こういう頻度で掃除したらいいだろうなと思ってセットすると本当駄目ですね。 掃除は自分の中でやりたさの波が上がった時に勢いでやるべきだと思い直し、もう全く「予定」としては立てなくなりました。放っておくとやらないだろうという自分への信用のなさによって、予め思い出させてやろうとセットしたりするわけですけど、自分を信じて、そろそろやるかと腰を上げるタイミングが必ず来るはずだからと思うようにしました(実際適当なタイミングで掃除をやっている)。
55:36
Tak.:だから逆に言えば、その裁量の範囲があまりにも広い場合は、いわゆるタスク管理っていう、「管理」っていう考え方があまり向かないんじゃないかとは思いますね。やっぱりタスク「管理」ってね、自分の外からタスクが降りかかってくるものをどう扱うかっていうイメージなんですよね。
なるほど。ベルトコンベアで流れてくるものを、流れている間に如何に捌くかみたいな感じですよね。捌けないと働く権利を失うから頑張って捌く。 でも自分に裁量があるというのはベルトコンベアじゃなくてまな板が目の前にどんとあるみたいな感じで、同じ「捌く」でも「捌く」の意味が違うというか。
1:01:47
るう:(自分自身への宣言について)なんか自分は多分そういうふうに書いてあっても、「またまたぁ(笑)」とかっていう、ちょっと他人ぽく思っちゃうっていうか。
そう~~~なんですよね~~~~~。私も宣言系はうまくいったためしがないですね。どんどん虚しくなっていく。
でも、この後にあった「作業記録を公開している」という話を踏まえると、まあ確かにブログにやるって書いちゃったらやるよなというのはあるので、やっぱりたとえ「自分に言い聞かせる」ということ自体の効力が薄くても、見えるところに書いちゃうと「なんとなくやらないままになる」というのを防ぐ効果はいくらかあるなと思いました。
あーでも、私は自分を二つに分けて本当に会話するように自己対話するということを時々やるんですが、そこで自分Aと自分Bの間で「じゃあこうしようと思う」「それがいいと思う」と納得したようなことは(本当にこういう台詞で書きます)、普通にやれている感じがあります。何らかの理由で実現できなかったとしても、「言葉が空虚になった」ということはなくて、実現に向けて真剣に再考するところからスタートできる。明確に対話形式にするというのが私には有効のようです。 多分それはこの後Tak.さんが語られていた「欲望と現実を接続する」ということに繋がっているんだと思います。
1:31:13 Microsoftは偉い、のくだり
Microsoftは本当に偉い。
1:33:42
るう:倉下さんよくツイッターとかにカードに書いたメモなのか、手書きのメモとかをよく上げられてるじゃないですか。ああいうのはどうしてるんですか。 倉下:写真に撮ってScrapbox。
あー、そうか。なるほど。
1:36:18
倉下:この一元管理という言葉のマジックというか、勘違いしやすいところなんですけど、すべてを一つの場所に入れたら駄目なんですね。
うんうん。 以前は本当、全てのものを一箇所に集約できたら最強だとか思ってましたが(Evernoteのせいだと思う)、なんか最近は全然そんな感じじゃなくなりました。 日記なら日記は一箇所に集約したいけど、日記と日記じゃないものが一緒にあってほしいとは今は全然思わない。でも前はそう思ってたんですよね。
面白かったです😃
第百四十四回:Tak.さんと2023年の振り返りと2024年の目標について - 知的生産の技術 第百四十四回:Tak.さんと2023年の振り返りと2024年の目標について - うちあわせCast - LISTEN
16:03 Noratetsu Lab: デジタルなノートを作った ツールを取り上げていただきありがとうございます!
倉下: 人間、集中したい時はもちろんワンノート(1画面)がいいんですけれども、何か考え事とか作業する時って複数の情報を並列で並べることも普通に必要なので、
デジタルツールでいつも気になっていたのがこの問題で、やっぱり何かする時は「参照する」ことが必要なので二つの画面を扱えるようであってほしい。 でもなぜか大抵のアプリケーションがそのようにはなっていない。技術的にそんなに難しいこととは思えないけれど、なぜかそのようになっていない。スマホは仕方ないとしても(それでも上下半分ずつの2画面はあり得ると思う)、パソコン画面なんて明らかに横長なのだから左右に2画面にして作業するのは普通の発想なんじゃないかと思う。 ちなみに今WebブラウザはEdgeを使っていますが、Edgeは左右の画面分割が簡単にできるようになっていて作業効率が非常に高まりました。2窓より自然なのでやりやすい。
18:30 ロータスオーガナイザーについて(システム手帳の画面をそのまま再現したアプリケーション)
Tak.: 僕ね、ちょっと反省したのは、その当時すごい僕それを馬鹿にしてたんですよ。(中略)アナログをある部分までシミュレートするってことはやっぱり決して意味のないことじゃないっていうのは最近すごく強く感じていることで、やっぱりアナログっぽい見た目をしているから馬鹿にするっていうのはすごく浅はかな考えだったということを、のらてつさんのあれを見て改めて思いましたね。
ロータスオーガナイザー、非常に興味深いですね。 多分今新登場したなら「逆にいいよね、実際使えるのって結局こういうのだよね」と思うけれど、やっぱり当時見ていたらTak.さんと同じように感じたと思う。 アナログ回帰はデジタルを追究して限界を悟ってからのことだからこそ成り立つのだろう。デジタルの可能性を知るにはやはりアナログのメタファーから完全に離れてみる必要がある。で、自分の中でデジタル神話を崩壊させてからアナログの道具を見てみるとそこで初めて感動を覚えるということがあるんでしょうね。
21:07 デジタルツールだと縦のリスト系表示が多いよねという話
倉下: でもやっぱりこうテーブル表記というか、横を使うことの意味ってね、僕結構高いと思うんですね。(中略)表形式の表現っていうものの価値はやっぱりちょっとね、僕は再検討した方がいいなと思いますね。
本当にそうなんですよね。ずーーーーっと思っている。MicrosoftのOfficeアプリケーションはやっぱりその点優秀で、横長の「面」で考えたい時は本来の用途を無視してでもOffice系ソフトを使ってあれこれやりたくなる。
26:10 筆記具の話
Tak.: 体調が悪いといつも気に入っているものが使えなくなったりとか。
これはありますね…。字の上手い下手も日々違ってしまう。自分の状態に合わせて色々選択肢を持っておくのは大事ですよね。
最近のマイブームは極細水性ペン(プロッキーなどの細い側)。さらさら書けるのが良い。筆圧をかけて書きたい期と筆圧無しで書きたい期が時々入れ替わる感じがある。 あと「あかあおえんぴつ」を使っている。教育現場で使われているだけあって、今更ながらなかなかの優れものだなと思う。
(ひとまず前半部分まで)
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2023/04/20
第百二十五回:Tak.さんと二冊の本について - 知的生産の技術
第百二十五回:Tak.さんと二冊の本について - LISTEN
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8:06
HTML上ではアウトライナーとして使えてデータの実体はMarkdownの箇条書き形式(mdファイル)、というのを以前私も頑張って自作しました😎
(その前にLogseqを使っていて、Journal機能の感じはいいけどアプリケーションとして自分にとって過剰、と思って代替が欲しくて作った)
属性をごりごりに使うリッチなアウトライナーも面白いし、そういうものを必要としないシンプルなアウトライナーもあった方がよくて、アウトライナーとしては一見似た見た目で似た機能に思えても、そういうデータの形式で使い分けするというのもありですよね。
31:10
そう…なんですよね。今まで読んで響いたのはその人の歴史をちゃんと書いてくれた本だったと思います。
ただこれって、著者を「すごい人」と認識しているからその人の歴史まで知りたいとか、その歴史が論の支えになるということもあるような。
例えば「東大卒で○○の専門家」みたいな肩書がある人が失敗の歴史を語れば「そうかー」と割とみんなが思うけれど、そういう「保証」的なものがはっきりしていない著者の歴史はあんまり真剣に読まれないかも、とちょっと思う。
個人的には素直に読みたいとは思うけれど、悪書溢れる世の中なのでよく知らない著者の本には余計なフィルターをかけてしまうところがある。別に東大卒で○○の専門家なら信用できるという話にはならないとわかっていつつ。
昔に流行った本というのは、経歴の強さが支えになった面がどうしてもあると思うし、一方今はたとえ東大卒と言っても昔と比べれば肩書として重みを失ってしまったので、本当に余程存在感がしっかりした人(千葉雅也氏のような)じゃないとあの頃のようには真剣に読まれないのかもしれない…。どうなんでしょうね…。
40:22
そうですよね。そう。ノウハウと言っても領域によっては自分が何かを「できない」とか何かが「うまくいかない」とかを割とさらっと流せるのに、タスク管理とか情報整理はなぜか「人間としての基本的な能力」を問われているかのような気に勝手になってしまう。
多分仮に料理の本なら料理というものにものすごい価値を置く環境で育ってしまうとまた違ってくるのだと思いますが、でもタスク管理とかほどダメージを受けるというのはよくあることではない。
45:43
これ本当そうだと思いますね…。
なんというか、ネット上でそういうテンションで悪口的なことを誰かが言ったとすると、正直「どうしてわざわざ面倒くさい事態を招くの?」という気持ちが先に立ってしまうのですが(自分のその反応が正解と思っているわけではないです)、でも本でそれをやるのが許されない、出版させてもらえない、となるとそれはちょっと違うんじゃないかなとも思います。
多少過激なことを言って、反対派を怒らせたりして、でもそれでいいと思う。もちろんエセなんとかを流布させているとか歴史的事実の解釈が大幅に間違っているとかは別ですが、人それぞれの美学をちょっと強力に押し出してみる、というのはあって然るべきと思っています。
その意味で、ネットの空間と本の空間は別の次元であってほしいのですが、昨今はその境界が曖昧だなと思います。ポリコレの時代になって特別区的なものが失われたということなのかもしれない。
55:16
そう思います。
1:00:03
ブログで発表されていると、読む側としても「そもそもそこに体系はない」みたいな感じで読んでしまう。
体系というのは「時間の流れとは関係なくどっしり存在している」ものであるという意識があって、「時系列」というだけでもう「体系的ではないな」と判定してしまうところがある。書き手としてもそういう意識が働いてしまうように思う。
やっぱり時間の流れとは別の構造によって整理する必要があるのだなあ。
1:04:27
おお、ありがとうございます!
1:05:52
そうだと思うんですよね。
ただ難しいのは、そういう存在というのはググっても見つけにくいし、そもそも「全く知らない人」だと「わざわざ未熟な人の語りを読む意味とは?」みたいなことにもなってしまう。
例えばTak.さん・倉下さんが私の記事をシェアしてくれたとすれば、Tak.さん・倉下さんのことを知っている人からすると、のらてつという存在がその人にとって「知っている人が知っている人」に位置づけられるので、ちょいと読んでみようかと思ってくれる可能性が生まれる。価値あるものとして扱おうという選択肢が出てくるというか。
そう考えると、記事の質・方向性をどうするかもさることながら、空間づくり的なものが重要になってしまうところはあるのだと思います。多分、ライフハックブームの時のブロガー同士のネットワークというのはそういう空間を作っていたということでもあるんでしょうね。
1:06:11
「誰でもできますよ」問題
❌
「誰でもできますよ、なぜなら私ができたからです」
⭕
「私はこうやりました」
「結果的には私はできたんで、同じやり方でできる人もいるかもしれませんよ」
「俺は誰でもできると思ってますよ」
ここのくだり、聴いていてなんだか面白くて笑ってしまいました。
なんというか、やっぱり正確なことを言った方がいいですよね。
ある程度以上の複雑さがあるものだと、「誰でもできます」というのはぶっちゃけそんなはずはないので「誇張してるな」とわかってしまう。
「盛ってるからその分差し引いて読む」みたいな回りくどいことを起こさずに、普通にその通りに書いてその通りに読んでもらえば話はシンプルになるのになあ。
1:12:24
作家という存在であることの覚悟みたいなものを感じました。
やっぱり、あまりに「良き先生像」のようなものを目指し過ぎても駄目なところもあるんだろうなと思いました。会って話す存在と本の著者とはまたあるべき姿が違うような気がします。
「傷ついた人の心に寄り添うための本」ならまた話は違ってくるでしょうが、普通の硬度(?)の読者が相手ならむしろ「かかってこいや」くらいの強さでもいいくらいなのかもと思ったりなんだり。自分がやるとなったら難しいですが…。
面白かったです!
それにしてもLISTENのおかげで超がつくほど捗った。
Podcastの利用が自分の中でやっと「現実的なもの」になったと感じる。
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - LISTEN
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - 知的生産の技術
面白かったです。
Podcastそのものとは関係ありませんが、LISTENの文字起こしが結構暴れていてちょっと可笑しい。途中で突然話者の名前に「おだしょー」とか「知事」とか表示されていたり。でも目次はすごい。
23:47
26:18
今回最も興味深かったのがこの部分です。
自分の文章がつまらないと感じた結果そういう工夫に繋がるということにかなり仰天しました。
同時に、あの飛躍はそうやって生まれるからああなるのか、ということに納得しました。その飛躍のミステリアスさに憧れを抱いてきたのですが、多分自分がやろうとしていた努力ではこれは実現しなかったなと思いました。でも手法として真似し得ることだというのがわかったので、逆に自分に取り入れられる可能性は見えてなんだか気持ちが軽く自由になった感じがします。
素朴な疑問ですが、Tak.さんの喋りはずっと面白いと思っているのですがご本人の感覚としては話すのと書くのとで大きく違っていたりするのでしょうか。
24:23
28:43
私もそうですね。リニア型の書き方というのはつまりそういうことなんでしょうか。流れで書くということは結局流れを生むと決めて流すということで、書くというテンションで臨むのは大前提というか。
多分流れで書いてしまうことができない人からするとこの「書くと決めて書くんだよね」というスタンスは羨望の対象になるのではと思いますが、「流れで書ける」イコール「書くことが流れに依存してしまう」ということで、任意のタイミングで取り扱うのが難しいとか編集が難しいとかいうことになるのだと思っています。
あらゆるものを流れにできる超能力を持っているか、流れをコントロールする術を自分で開発するかしない限り、「たまたま巡り合った流れに乗る」という博打性から逃れられないと感じています。
34:30
そうそう、そうですよね。いつも「枷を外す」というイメージを持っています。ノウハウは界王拳でもバイキルトでもヘイストでもなく、つまりバフではなく、デバフ解除の助けなんだと思います。
だから、誰でもすごい人になれるみたいなのは信用できませんし、どちらかというと「本来の自分になることそのもの」を喜ぶ気持ちが必要だろうなと思います。その結果すごいかどうかではなく。
41:05
「書かねばならぬ」が先にあって、そのために方法というのが見いだされるものだろうなと私も思います。ツールやノウハウというのは「どう実現するか」の助けになるもので、「何を実現するか」がなければ使いようがないですよね。
で、私は「ブログの書き方ド下手問題」で本当に真剣に考えたのですが(Noratetsu Lab: ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~)、「書かざるを得ない」「書かずにはいられない」という思いは確かにあっても、そのエネルギーをどう出していくべきかというのはすんなり定まるとは限らないのですよね。
①「何か書かねばならぬ」→②「○○を書かねばならぬ」→③「これを使って○○を書くべし」という過程の、②からスタートする人もたくさんいるわけですが、①からスタートしている人間が、②からスタートしている人の話を聞いて③に行ってしまおうとしても、②を飛ばしているわけなのでどうにもならないということがあると思います。
自分は「書かざるを得ない」タイプの人間であるはずと思いながら、具体的に書かずにいられないことはないという時、やはり自分の欲望に深く潜っていく必要があると感じています。
45:07
これは大事ですよね。本当に大事だと感じます。
私も物事がうまくいっていた時というのは「やれと言われたんならやれるんだろうからやる」という風にやれていたなと思います。でも人生が下り調子になった頃からこれができなくなっていきました。
53:54
これって本当にそうですよね。そうだから、賢明で慎重ならいいのかっていうとそうでもないという。
ある種愚かじゃないと前に進めない。
57:46~ 脱線について
あー、脱線の感じに関しては私はTak.さん寄りなのかもしれない。
私は前の文に依存して次の文を生み出すタイプですが、ひとつの文に依存して複数の文を作ってしまうことがたくさんあるので、それはとりあえず全部書いてしまって、今必要ではないものは取り除くことになります。
その取り除いたものは何らかの形でどこかに使うことを目指しますが、手前の文に依存していることは変わらないので、それを別な場所で使うにはかなり苦労を感じます。でもそうすることがないわけではありません。
あと自分のブログなら、脱線してもまあ接続詞を駆使して本筋に戻して、何が本筋かを強調し直せばいいやと思うので、そのまま書いてしまうことがあります。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、自分にとってその方が面白いので、そうしてしまっています。
1:04:00あたり~ 欲望について
あー、私はもう自分の深淵を探るのが当たり前になっているけど、まあ確かに危ないことでもあるのか…。
私自身、自己を知らなければ遅かれ早かれ死ぬ、という極限状態を経たのでそれが習慣になっているだけで、もしのほほんと生きていけたならそんなことやってないんだろうなあ。
だから「自己に問うべし」ということを本当に毎度のように、あらゆる記事で書いているかのように繰り返し書いているけど、その意味が通じるかっていうと、多分私が思うようにはすんなり通じないんですよね。
こんまりについて
私はかなり感銘を受けた…というか、まあやましたひでこさんとか辰巳渚さんの著書を読んでいたので核にある価値観は前から知っていたことだったんですが、やはり「ときめき」という表現のパワーに心底感嘆しましたね。
私自身が「ときめき」で開眼したというのではなく、「ときめき」という言葉によって「自分の物と対話する」という観念を世界に一撃で叩き込んだということにただただ圧倒されています。
面白かったです!
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - LISTEN
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
とても面白かったです。
いつもお二方の間で共通の文脈があるからこその鋭い考察を興味深く聴いていますが、ゲストが新しい風を吹き込んだ時に生まれる「盲点だった」感にはまた別の面白さがあるなと思います。
30:23
そういえば、自分が文章を書いた時には、自分なりに文章の出来を点検する尺度があるわけですが、自分が自分の文章に当てるべきその物差しがいかなるものかを考えるというのも必要なことかもしれないですね。
問題があるとかないとかいうのを判定する基準がないと、見直してもどこにもいけないので、「こういう文章は嫌だ」チェックリストみたいなものを持っておくとか。明文化しないとしてもイメージとして持っておくというか。
42:38
なるほど。
48:27
なるほどなるほど。まあやっぱりそうですよね、流れ派としては。だから村上春樹さんの書き方には信じられない気持ちになる。
50:19
「ドライブする気持ちと筆が乗る気持ちとのタイミング、リズムを合わせていって」というのが重要なポイントだなと思いました。努力すべきところは、他の何でもなく、この「合わせていく」ことだということ。
1:01:33
これはわかる気がします。
なので、「一度Twitterに呟いたもの」は再利用しやすいんですよね。矢印ができているので。
で、再利用しやすいものをTwitterにどんどん放流できているからと、非公開のメモも充実するに違いないと思っていると、ところがどっこいうまくいかない。矢印の力が弱いのでしょう。
1:11:01
これ、もし「未使用」が視覚的に下ではなく上とか横にあったらどうなんだろう?
「落とす」って言うともうそこから這い上がってくるのは大変な感は確かにあるんですよね。
私は「使うかもしれないもの」は上に、明らかな「没」(別の書き方で言い換えたのでもう要らなくなったもの、矛盾が発生してしまったので書けなくなったものなど)は下に置くことが多いです。
1:23:02
そうそうそう。まさに「なんかすごい技法が後ろに働いているように見える」んですよね。
この件について前に書いた記事→Noratetsu Lab: 飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ
1:27:53
厳しい現実…笑
1:29:30
お互いに棚に上げてアドバイスし合うというのは本当に重要というか、倉下さんが仰る通り「大変良いこと」だなと思いますね!
やっぱり批判的な目を向け合うみたいなのは辛くて、「お互い棚に上げる」ことが許される、つまり「仲間」的な間柄でお互いに言及し合うのは大事だと思います。(not「容赦なく言う」)
面白かったです!
第百三十七回:Tak.さんとるうさんとメモやタスク管理とその道具についての四方山話 - LISTEN
第百三十七回:Tak.さんとるうさんとメモやタスク管理とその道具についての四方山話 - 知的生産の技術
29:40
そうなんですよね。そのうまくいかなさ本当によくわかります。
やっぱり手帳というのは無限に広がっているわけではなくて「1冊」というコンパクトな世界だからいいんですよね。
デジタルはどこからどこまでが1冊とかなくて、無限に広がってしまう。仮にここからここまでを1冊と解釈するということを試みたとしても、やっぱり物としてあるのとは全く違っていて、身体的にそれを1冊と認識できないから紙の手帳のようにはうまくいかない感じがしますね。
30:29
そう、更新日順っていうのが曲者なんですよね…。カード的に書き溜めている情報なら、色々と順番を変えて見るのが刺激になったり取り出しやすさに貢献したりとメリットが多いですが、そうふらふらされると困る情報というのがあって、それはちゃんと「留める」ように考えて場所を選ばないといけないですよね。
33:17
あ~そうそう、スケジュール的なものを書き始めるとまずいのとてもわかります。結局全貌の把握に貢献しないというか。
「危険」という表現が面白いと感じましたが、確かに「危険」なんですよね。事故が起こる。
51:28
わ、わかる~~~。こういう頻度で掃除したらいいだろうなと思ってセットすると本当駄目ですね。
掃除は自分の中でやりたさの波が上がった時に勢いでやるべきだと思い直し、もう全く「予定」としては立てなくなりました。放っておくとやらないだろうという自分への信用のなさによって、予め思い出させてやろうとセットしたりするわけですけど、自分を信じて、そろそろやるかと腰を上げるタイミングが必ず来るはずだからと思うようにしました(実際適当なタイミングで掃除をやっている)。
55:36
なるほど。ベルトコンベアで流れてくるものを、流れている間に如何に捌くかみたいな感じですよね。捌けないと働く権利を失うから頑張って捌く。
でも自分に裁量があるというのはベルトコンベアじゃなくてまな板が目の前にどんとあるみたいな感じで、同じ「捌く」でも「捌く」の意味が違うというか。
1:01:47
そう~~~なんですよね~~~~~。私も宣言系はうまくいったためしがないですね。どんどん虚しくなっていく。
でも、この後にあった「作業記録を公開している」という話を踏まえると、まあ確かにブログにやるって書いちゃったらやるよなというのはあるので、やっぱりたとえ「自分に言い聞かせる」ということ自体の効力が薄くても、見えるところに書いちゃうと「なんとなくやらないままになる」というのを防ぐ効果はいくらかあるなと思いました。
あーでも、私は自分を二つに分けて本当に会話するように自己対話するということを時々やるんですが、そこで自分Aと自分Bの間で「じゃあこうしようと思う」「それがいいと思う」と納得したようなことは(本当にこういう台詞で書きます)、普通にやれている感じがあります。何らかの理由で実現できなかったとしても、「言葉が空虚になった」ということはなくて、実現に向けて真剣に再考するところからスタートできる。明確に対話形式にするというのが私には有効のようです。
多分それはこの後Tak.さんが語られていた「欲望と現実を接続する」ということに繋がっているんだと思います。
1:31:13 Microsoftは偉い、のくだり
Microsoftは本当に偉い。
1:33:42
あー、そうか。なるほど。
1:36:18
うんうん。
以前は本当、全てのものを一箇所に集約できたら最強だとか思ってましたが(Evernoteのせいだと思う)、なんか最近は全然そんな感じじゃなくなりました。
日記なら日記は一箇所に集約したいけど、日記と日記じゃないものが一緒にあってほしいとは今は全然思わない。でも前はそう思ってたんですよね。
面白かったです😃
第百四十四回:Tak.さんと2023年の振り返りと2024年の目標について - 知的生産の技術
第百四十四回:Tak.さんと2023年の振り返りと2024年の目標について - うちあわせCast - LISTEN
16:03
Noratetsu Lab: デジタルなノートを作った
ツールを取り上げていただきありがとうございます!
デジタルツールでいつも気になっていたのがこの問題で、やっぱり何かする時は「参照する」ことが必要なので二つの画面を扱えるようであってほしい。
でもなぜか大抵のアプリケーションがそのようにはなっていない。技術的にそんなに難しいこととは思えないけれど、なぜかそのようになっていない。スマホは仕方ないとしても(それでも上下半分ずつの2画面はあり得ると思う)、パソコン画面なんて明らかに横長なのだから左右に2画面にして作業するのは普通の発想なんじゃないかと思う。
ちなみに今WebブラウザはEdgeを使っていますが、Edgeは左右の画面分割が簡単にできるようになっていて作業効率が非常に高まりました。2窓より自然なのでやりやすい。
18:30
ロータスオーガナイザーについて(システム手帳の画面をそのまま再現したアプリケーション)
ロータスオーガナイザー、非常に興味深いですね。
多分今新登場したなら「逆にいいよね、実際使えるのって結局こういうのだよね」と思うけれど、やっぱり当時見ていたらTak.さんと同じように感じたと思う。
アナログ回帰はデジタルを追究して限界を悟ってからのことだからこそ成り立つのだろう。デジタルの可能性を知るにはやはりアナログのメタファーから完全に離れてみる必要がある。で、自分の中でデジタル神話を崩壊させてからアナログの道具を見てみるとそこで初めて感動を覚えるということがあるんでしょうね。
21:07
デジタルツールだと縦のリスト系表示が多いよねという話
本当にそうなんですよね。ずーーーーっと思っている。MicrosoftのOfficeアプリケーションはやっぱりその点優秀で、横長の「面」で考えたい時は本来の用途を無視してでもOffice系ソフトを使ってあれこれやりたくなる。
26:10
筆記具の話
これはありますね…。字の上手い下手も日々違ってしまう。自分の状態に合わせて色々選択肢を持っておくのは大事ですよね。
最近のマイブームは極細水性ペン(プロッキーなどの細い側)。さらさら書けるのが良い。筆圧をかけて書きたい期と筆圧無しで書きたい期が時々入れ替わる感じがある。
あと「あかあおえんぴつ」を使っている。教育現場で使われているだけあって、今更ながらなかなかの優れものだなと思う。
(ひとまず前半部分まで)