21:00~ 「運頼み」問題
脱「運頼み」の道のり - by のらてつ@Foam_Crab- トンネルChannel のらてつさんの『脱「運頼み」の道のり』という文章には救いがありそう - 思考遊戯の森
言及とご感想ありがとうございます! 多分「書ける時はすいすい書ける」ということがかえって「運頼み」の苦しみを生むのだろうなと思います。 書く能力がないわけではないのに、例えば「これについて書いて」と言われたら書ける保証が全然ないということで生じる無能感。自分の能力に縋れそうで縋れない苦しみ。
8:12~ るうさんのメモ環境の話 るうさんのメモ環境 - 知的生産の技術
私も色々興味深く思ったのでどこかにメモを書きたいところ。 まずVivaldiをScrapbox専用ブラウザにしているということに「そういう手もあるのか」という驚きがありました。
3:12~ Workflowyにプレゼンテーション機能が追加された スライドは演出できる機能があるからそれを頑張るために時間が取られるんだ、そもそもそんな機能がなければいいんだ、のくだり
本当にそう。 なんというか、そういうのはテレビ番組がやればいいのであって、日常のプレゼンテーションには要らないですよね。プレゼンはエンタメじゃないのだ。
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - LISTEN 第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
とても面白かったです。 いつもお二方の間で共通の文脈があるからこその鋭い考察を興味深く聴いていますが、ゲストが新しい風を吹き込んだ時に生まれる「盲点だった」感にはまた別の面白さがあるなと思います。
テーマパークで楽しむ能力が僅かも無いのだが、或る「テーマ」の中に自分を入れ込むこと、というのが多分無理なんだと思う(Dランドについての評論を読んでふと思ったこと)。 同様にライブが無理だし、スポ根的感性も持ち合わせていない。 俯瞰が許されていない世界観の中のキャラクターになることができない。
#26 のらてつの雑記帳への感想 - 公開練習場 お返事をいただきました。ありがとうございます!
「最初はいい印象だったとして、だんだんと印象が悪くなるのに耐えられない」がすごくわかるんですが、そういう目に遭ったことがあるのかというと、実際には遭ってない(あったとしても繰り返し思い出して気に病むほどのトラウマにはなっていない)気がして、謎の悩みだなと思いますね…。どうしたらいいんでしょうね…。後でもうちょっと考えたいところ。
言及していただきありがとうございます。嬉しさと共感のあまり、文単位で感想を書いてしまいました😊
tksさんのSubstack活動が自由で豊かになるよう応援しております🙌 自分が読んで「なかなか面白いじゃないか」と思えたら勝ちだと思っています!
だいたい1回の投稿で言いたいことを1つ決め、それを他人に伝えるために書いていく。そのために、「作文」をしている感覚が強い。その結果、「もしかしたらこの部分は冗長だったり、無駄かしら」という部分を削ることが多くて、文章としては綺麗に書けるようになってきたと思う反面、自分自身しかない固有の部分が薄れている気もしている。
わかる! noteに書こうとしていた時にこれに陥って、私の場合は自分にとって「悪いこと」と言える程にマイナスに働いてしまったので(マイナスになるかどうかは人それぞれと思います)、反動で今の文体になったという感じです。 私がtksさんと違って致命的に失敗していたのは、「言いたいこと」の部分自体が自分由来ではなく「自分以外の誰かにとって有意義かもしれないこと」という想像上の何か由来だったことですね…。自己が薄れているどころか何もない…。
のらてつさんの文章については、毎回楽しませて読ませてもらっているが、内容とは以外にも文体や書き方にも注目している。
おお、なんと。ありがとうございます!
のらてつさんの文章を読むと、自分だったらここは削るだろうとか、書かないだろうと思うところがある(念のため、悪い意味ではない)。 結果、書いていることに嘘を感じないというか、ちゃんと本当に思っていることを書いているのだという印象を受ける。そこが面白さであり、良さであり、羨ましさを感じる。
のらてつさんの文章を読むと、自分だったらここは削るだろうとか、書かないだろうと思うところがある(念のため、悪い意味ではない)。
結果、書いていることに嘘を感じないというか、ちゃんと本当に思っていることを書いているのだという印象を受ける。そこが面白さであり、良さであり、羨ましさを感じる。
とても嬉しいです。「自分だったら~」というのもよくわかります。私も昔の私だったらこうは書いていないなと自分で思う部分が結構あります。 昔とは「演出」をするベクトルが全然違っているんですよね。昔は演出というか演技の部分が結構多かったのですが(こういうキャラに思われたい的なものも含めて)、今は「私はこう感じているんです」というのがなるべく誤解なく伝わるように導くための演出という感じがあります。
自分の文体が良いのかどうかは自分にはわからないので、本当に嬉しく思います。 こうするしかないと思ってなるべく堂々とした顔でやろうと心がけていても、「でも全然面白くないかも~~~!」という恐れはいつも抱いています…笑
どうしたものかと思っていたが、最近、のらてつさんがたくさん書いているのを見て、私も書かねば(?)と思った。
いいぞいいぞ。 見た人読んだ人が「何か自分もやりたい」と思うというのは私の理想のひとつなので、大変嬉しいです。
ただその結果、自分のために書くと決めたのに、せっかく読んでもらえるなら、その人たちにも面白いと思ってもらいたいという欲が生まれてしまい、結果何を書いていいのかわからなくなってしまった(本来、それを防ぐためにSubstackを始めたのに!)。
あるある。 読まれないのはちょっと悲しいから読まれた方が良いと感じるのに、読まれていると思うと急に自由を失ってしまうという。 私の場合、「なんか、読み続けるほどじゃなかったかな」とか思われるのが怖いと思ったりしてしまいますね…。「期待外れ」という評価に対する恐怖というか。
カッコつけない文章を書きたい - tks’s Substack
面白かったです!
こんまりについて
私はかなり感銘を受けた…というか、まあやましたひでこさんとか辰巳渚さんの著書を読んでいたので核にある価値観は前から知っていたことだったんですが、やはり「ときめき」という表現のパワーに心底感嘆しましたね。 私自身が「ときめき」で開眼したというのではなく、「ときめき」という言葉によって「自分の物と対話する」という観念を世界に一撃で叩き込んだということにただただ圧倒されています。
1:04:00あたり~ 欲望について
あー、私はもう自分の深淵を探るのが当たり前になっているけど、まあ確かに危ないことでもあるのか…。 私自身、自己を知らなければ遅かれ早かれ死ぬ、という極限状態を経たのでそれが習慣になっているだけで、もしのほほんと生きていけたならそんなことやってないんだろうなあ。 だから「自己に問うべし」ということを本当に毎度のように、あらゆる記事で書いているかのように繰り返し書いているけど、その意味が通じるかっていうと、多分私が思うようにはすんなり通じないんですよね。
57:46~ 脱線について あー、脱線の感じに関しては私はTak.さん寄りなのかもしれない。 私は前の文に依存して次の文を生み出すタイプですが、ひとつの文に依存して複数の文を作ってしまうことがたくさんあるので、それはとりあえず全部書いてしまって、今必要ではないものは取り除くことになります。 その取り除いたものは何らかの形でどこかに使うことを目指しますが、手前の文に依存していることは変わらないので、それを別な場所で使うにはかなり苦労を感じます。でもそうすることがないわけではありません。
あと自分のブログなら、脱線してもまあ接続詞を駆使して本筋に戻して、何が本筋かを強調し直せばいいやと思うので、そのまま書いてしまうことがあります。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、自分にとってその方が面白いので、そうしてしまっています。
53:54
Tak.:舐めてるから始められる。 倉下:そうそうそうそう。舐めてるから始められて、後の自分が苦労するという、そういう構図で人って前に進んでいくところがあるので。
これって本当にそうですよね。そうだから、賢明で慎重ならいいのかっていうとそうでもないという。 ある種愚かじゃないと前に進めない。
45:07
倉下:僕の一つのポリシーとして、オファーされたら、オファーした人を信用するっていうのがありまして、こいつは書けると思われたんやったら、俺は書けるんだろうと。
これは大事ですよね。本当に大事だと感じます。 私も物事がうまくいっていた時というのは「やれと言われたんならやれるんだろうからやる」という風にやれていたなと思います。でも人生が下り調子になった頃からこれができなくなっていきました。
41:05
倉下:書かざるを得なくなったら人は書くものであるし、そのために新しい方法が必要だったらおそらくそこで輸入されるものなので。 だから非常に泥縄式なんですけど、ニーズがあったら初めてノウハウが引き継がれて生きてくるというか、使えるようになるので、困ってないことってやっぱりどうしたって使えないんで。
「書かねばならぬ」が先にあって、そのために方法というのが見いだされるものだろうなと私も思います。ツールやノウハウというのは「どう実現するか」の助けになるもので、「何を実現するか」がなければ使いようがないですよね。
で、私は「ブログの書き方ド下手問題」で本当に真剣に考えたのですが(Noratetsu Lab: ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~)、「書かざるを得ない」「書かずにはいられない」という思いは確かにあっても、そのエネルギーをどう出していくべきかというのはすんなり定まるとは限らないのですよね。 ①「何か書かねばならぬ」→②「○○を書かねばならぬ」→③「これを使って○○を書くべし」という過程の、②からスタートする人もたくさんいるわけですが、①からスタートしている人間が、②からスタートしている人の話を聞いて③に行ってしまおうとしても、②を飛ばしているわけなのでどうにもならないということがあると思います。 自分は「書かざるを得ない」タイプの人間であるはずと思いながら、具体的に書かずにいられないことはないという時、やはり自分の欲望に深く潜っていく必要があると感じています。
34:30
倉下:だから何に困ってるのかっていうことに対する解決でしかない、ノウハウっていうのは。で、その解決したことによってその人が本来持ってた生産性っていうものがもしかしたら発揮されるから、ビフォーアフターを見た時に生産性が上がっているように見えるけど、それはただ単に元の状態に戻ったというか、本来的なスペックが発揮されただけであって、過剰に底上げしたわけではないというノウハウの捉え方の方が健全というか、真っ当ではないかなというのを最近思いますね。
そうそう、そうですよね。いつも「枷を外す」というイメージを持っています。ノウハウは界王拳でもバイキルトでもヘイストでもなく、つまりバフではなく、デバフ解除の助けなんだと思います。 だから、誰でもすごい人になれるみたいなのは信用できませんし、どちらかというと「本来の自分になることそのもの」を喜ぶ気持ちが必要だろうなと思います。その結果すごいかどうかではなく。
24:23
倉下:僕は明らかに記事を書くっていうテンションで臨みますし、多分おそらくコウさんもそうでしょうね。
28:43
倉下:僕は文章の断片がなんとなく並べ替えて文章になるということはほぼないですね、やっぱり。書くとなってからもう書く、それ記事かどうかわからないけど、これをちゃんと文章にする、この考えを文章にすると思って文章にして出すみたいな感じですね。
私もそうですね。リニア型の書き方というのはつまりそういうことなんでしょうか。流れで書くということは結局流れを生むと決めて流すということで、書くというテンションで臨むのは大前提というか。 多分流れで書いてしまうことができない人からするとこの「書くと決めて書くんだよね」というスタンスは羨望の対象になるのではと思いますが、「流れで書ける」イコール「書くことが流れに依存してしまう」ということで、任意のタイミングで取り扱うのが難しいとか編集が難しいとかいうことになるのだと思っています。 あらゆるものを流れにできる超能力を持っているか、流れをコントロールする術を自分で開発するかしない限り、「たまたま巡り合った流れに乗る」という博打性から逃れられないと感じています。
23:47
Tak.:(自分の)ブログってそれこそ二千字もないのが多いんですよ。しかも、こう、パーツが三つくらい組み合わさったりするのが多いんですけど。そうですね、あれは多分ブログのアウトラインの中で、あっちやったりこっちやったりしてる、全然関係ないときに書いたものが組み合わさってできてたりすることが結構多いので、ある記事を書き始めるっていう感覚自体があんまりなかったです。
26:18
自分の頭から出てきた文章のつまらなさを直視しないために、それを切断して違うものとくっつけるみたいな。そうすると、切断して繋ぎ換えると飛躍が生まれるわけじゃないですか。その飛躍っていうのは、普通に僕の中では普通に流れるように書いていくと生まれないものなんですよね。 だから場合によってその、自分でも思いつかなかった、書けなかったはずのを書けるみたいな。書けるわけじゃないんですけど、単に繋いでるだけなんですけど。そうすると自分で読み返したときに、ああ、自分が自然に書いたものよりも面白いかもしれないってちょっと自分で思えることがあって、結局そういう欲求に突き動かされるようになる。
今回最も興味深かったのがこの部分です。 自分の文章がつまらないと感じた結果そういう工夫に繋がるということにかなり仰天しました。 同時に、あの飛躍はそうやって生まれるからああなるのか、ということに納得しました。その飛躍のミステリアスさに憧れを抱いてきたのですが、多分自分がやろうとしていた努力ではこれは実現しなかったなと思いました。でも手法として真似し得ることだというのがわかったので、逆に自分に取り入れられる可能性は見えてなんだか気持ちが軽く自由になった感じがします。
素朴な疑問ですが、Tak.さんの喋りはずっと面白いと思っているのですがご本人の感覚としては話すのと書くのとで大きく違っていたりするのでしょうか。
21:56
リニアで書く人間って基本的に文章が塊というよりも流れでできてるので、なんかもう崩れないんですね。変えるとしたらもう大きな塊ごと、セクションやったらセクションごと動かすことが多いんですけど。だから僕にとって細かい行の移動はそこまで必要ではない。
これは私もまさにそうです。なので、何度か言及していますが、Tak.さんがアウトライナーでやっている、文節単位で項目を改めておいて操作して納得するまで入れ替えるみたいな発想は全くありませんでした。最小単位は単語でも行でもない…というか、最小単位というのがないのかも。 文と文が有機的に繋がっているので、一箇所変えると周辺全部見直して変えなきゃいけなくなる感じがあります。書き直した方が速いと感じることもままあります。 たまに文と文を入れ替えることはありますが、それはその都度コピペすればいい程度の頻度なので、ショートカットキーでパパッとやれたらいいのにと思うほどではない感じです。
20:57
倉下:でもそれは多分アウトライナーを使ってても、書けない時は書けないんじゃないですかね笑 Tak.:書けない時は書けないです。
ちょっと笑ってしまいましたが、作家が「書けない時は書けない」と言ってくれることには安心感がありますね笑 「ムラがある」ということには別に向き合うべきことが多分あって、ツールや方法論の問題じゃないような感じがします。それが後半の欲望の話に繋がりますね。
14:28~ フリーライティングではなくフローライティングでは、のくだり 私も「アウトラインを使わずに書く」ということは日常的にしていますが、それはフリーライティングとは考えてないですね。 文が文を生むという反応に依存しているということなので、「依存」ですからフリーじゃないというか。 その中でも書く時の頭の働きをフリーライティングに「寄せて」、脱線を増やすということはあります。生成AIでランダム度を調節するみたいなことです。そうしてみると、脱線が増えるとともに、核心への気づきも増えるように感じます。枝分かれもしますが幹も太くなるというイメージです。
コウさんのご投稿とアウトライナーについて。 コウさんと同じ気持ちかどうかは全然わかりませんが、私の経験では、「アウトライン」というのは書けない時に憧れとして頭に浮かぶ概念でした。要は「魔法の杖」を「アウトライン」と呼んでいるみたいな心境です。こう、ビシッとスパパパッとやれたらいいのに!みたいな。(私の場合はです。コウさんもそうということではないです。) 「ムラがある」とは如何なる状態かということの方がアンテナに引っかかったので、私はそちらに注目してトンネルChannelに書いてみました。
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - LISTEN 第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - 知的生産の技術
面白かったです。 Podcastそのものとは関係ありませんが、LISTENの文字起こしが結構暴れていてちょっと可笑しい。途中で突然話者の名前に「おだしょー」とか「知事」とか表示されていたり。でも目次はすごい。
直った!
Blueskyがタイムライン取得できない…
offset類の計算がどうも苦手で頭がこんがらがったが、テストをちょこちょこやって正しいっぽい挙動を作れた。 結構複雑な処理になった…。
textarea内でショートカットキーを使った時に色々便利なことが起こるように機能を作っているんだけど、Markdownのtable記法の処理ができるようになって我ながらすごいものを作ったという気分。 行追加、列追加、列の入れ替えができるようになった。
これをクロージャというわけだ。
ソシャゲ、超高難度マップを攻略して喜びを表現しているプレイヤーがいたとしても、その人を含めてプレイヤーたちが「超高難度マップに挑みたい」と思っているとは限らないんだよね…。
せっかくここを用意したのに、これこそここに書くべきというような内容をついBlueskyに投稿してしまっている。 TwitterやMastodonより一歩引っ込んだ場所としてBlueskyをイメージしていて、「Twitterじゃない方がいいからBlueskyに」となっている。「SNSじゃない方がいいからひとり掲示板に」と考えないと。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
>> 41
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。 視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。 SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
やっぱり自分でサイトを作ってRSSフィードを出力するようにすべきか…。
と言っても、結局どうするのがベストなのかはまだ悩みどころ…。 「掲示板」や「タイムライン」のような、他人と共有する「場」への投稿での自分の言葉の軽さと、自分に責任がある場での自分の言葉の重さがイコールじゃないのが難問。
21:00~ 「運頼み」問題
脱「運頼み」の道のり - by のらてつ@Foam_Crab- トンネルChannel
のらてつさんの『脱「運頼み」の道のり』という文章には救いがありそう - 思考遊戯の森
言及とご感想ありがとうございます!
多分「書ける時はすいすい書ける」ということがかえって「運頼み」の苦しみを生むのだろうなと思います。
書く能力がないわけではないのに、例えば「これについて書いて」と言われたら書ける保証が全然ないということで生じる無能感。自分の能力に縋れそうで縋れない苦しみ。
8:12~
るうさんのメモ環境の話
るうさんのメモ環境 - 知的生産の技術
私も色々興味深く思ったのでどこかにメモを書きたいところ。
まずVivaldiをScrapbox専用ブラウザにしているということに「そういう手もあるのか」という驚きがありました。
3:12~ Workflowyにプレゼンテーション機能が追加された
スライドは演出できる機能があるからそれを頑張るために時間が取られるんだ、そもそもそんな機能がなければいいんだ、のくだり
本当にそう。
なんというか、そういうのはテレビ番組がやればいいのであって、日常のプレゼンテーションには要らないですよね。プレゼンはエンタメじゃないのだ。
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - LISTEN
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
とても面白かったです。
いつもお二方の間で共通の文脈があるからこその鋭い考察を興味深く聴いていますが、ゲストが新しい風を吹き込んだ時に生まれる「盲点だった」感にはまた別の面白さがあるなと思います。
テーマパークで楽しむ能力が僅かも無いのだが、或る「テーマ」の中に自分を入れ込むこと、というのが多分無理なんだと思う(Dランドについての評論を読んでふと思ったこと)。
同様にライブが無理だし、スポ根的感性も持ち合わせていない。
俯瞰が許されていない世界観の中のキャラクターになることができない。
#26 のらてつの雑記帳への感想 - 公開練習場
お返事をいただきました。ありがとうございます!
「最初はいい印象だったとして、だんだんと印象が悪くなるのに耐えられない」がすごくわかるんですが、そういう目に遭ったことがあるのかというと、実際には遭ってない(あったとしても繰り返し思い出して気に病むほどのトラウマにはなっていない)気がして、謎の悩みだなと思いますね…。どうしたらいいんでしょうね…。後でもうちょっと考えたいところ。
言及していただきありがとうございます。嬉しさと共感のあまり、文単位で感想を書いてしまいました😊
tksさんのSubstack活動が自由で豊かになるよう応援しております🙌
自分が読んで「なかなか面白いじゃないか」と思えたら勝ちだと思っています!
わかる!
noteに書こうとしていた時にこれに陥って、私の場合は自分にとって「悪いこと」と言える程にマイナスに働いてしまったので(マイナスになるかどうかは人それぞれと思います)、反動で今の文体になったという感じです。
私がtksさんと違って致命的に失敗していたのは、「言いたいこと」の部分自体が自分由来ではなく「自分以外の誰かにとって有意義かもしれないこと」という想像上の何か由来だったことですね…。自己が薄れているどころか何もない…。
おお、なんと。ありがとうございます!
とても嬉しいです。「自分だったら~」というのもよくわかります。私も昔の私だったらこうは書いていないなと自分で思う部分が結構あります。
昔とは「演出」をするベクトルが全然違っているんですよね。昔は演出というか演技の部分が結構多かったのですが(こういうキャラに思われたい的なものも含めて)、今は「私はこう感じているんです」というのがなるべく誤解なく伝わるように導くための演出という感じがあります。
自分の文体が良いのかどうかは自分にはわからないので、本当に嬉しく思います。
こうするしかないと思ってなるべく堂々とした顔でやろうと心がけていても、「でも全然面白くないかも~~~!」という恐れはいつも抱いています…笑
いいぞいいぞ。
見た人読んだ人が「何か自分もやりたい」と思うというのは私の理想のひとつなので、大変嬉しいです。
あるある。
読まれないのはちょっと悲しいから読まれた方が良いと感じるのに、読まれていると思うと急に自由を失ってしまうという。
私の場合、「なんか、読み続けるほどじゃなかったかな」とか思われるのが怖いと思ったりしてしまいますね…。「期待外れ」という評価に対する恐怖というか。
カッコつけない文章を書きたい - tks’s Substack
面白かったです!
こんまりについて
私はかなり感銘を受けた…というか、まあやましたひでこさんとか辰巳渚さんの著書を読んでいたので核にある価値観は前から知っていたことだったんですが、やはり「ときめき」という表現のパワーに心底感嘆しましたね。
私自身が「ときめき」で開眼したというのではなく、「ときめき」という言葉によって「自分の物と対話する」という観念を世界に一撃で叩き込んだということにただただ圧倒されています。
1:04:00あたり~ 欲望について
あー、私はもう自分の深淵を探るのが当たり前になっているけど、まあ確かに危ないことでもあるのか…。
私自身、自己を知らなければ遅かれ早かれ死ぬ、という極限状態を経たのでそれが習慣になっているだけで、もしのほほんと生きていけたならそんなことやってないんだろうなあ。
だから「自己に問うべし」ということを本当に毎度のように、あらゆる記事で書いているかのように繰り返し書いているけど、その意味が通じるかっていうと、多分私が思うようにはすんなり通じないんですよね。
57:46~ 脱線について
あー、脱線の感じに関しては私はTak.さん寄りなのかもしれない。
私は前の文に依存して次の文を生み出すタイプですが、ひとつの文に依存して複数の文を作ってしまうことがたくさんあるので、それはとりあえず全部書いてしまって、今必要ではないものは取り除くことになります。
その取り除いたものは何らかの形でどこかに使うことを目指しますが、手前の文に依存していることは変わらないので、それを別な場所で使うにはかなり苦労を感じます。でもそうすることがないわけではありません。
あと自分のブログなら、脱線してもまあ接続詞を駆使して本筋に戻して、何が本筋かを強調し直せばいいやと思うので、そのまま書いてしまうことがあります。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、自分にとってその方が面白いので、そうしてしまっています。
53:54
これって本当にそうですよね。そうだから、賢明で慎重ならいいのかっていうとそうでもないという。
ある種愚かじゃないと前に進めない。
45:07
これは大事ですよね。本当に大事だと感じます。
私も物事がうまくいっていた時というのは「やれと言われたんならやれるんだろうからやる」という風にやれていたなと思います。でも人生が下り調子になった頃からこれができなくなっていきました。
41:05
「書かねばならぬ」が先にあって、そのために方法というのが見いだされるものだろうなと私も思います。ツールやノウハウというのは「どう実現するか」の助けになるもので、「何を実現するか」がなければ使いようがないですよね。
で、私は「ブログの書き方ド下手問題」で本当に真剣に考えたのですが(Noratetsu Lab: ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~)、「書かざるを得ない」「書かずにはいられない」という思いは確かにあっても、そのエネルギーをどう出していくべきかというのはすんなり定まるとは限らないのですよね。
①「何か書かねばならぬ」→②「○○を書かねばならぬ」→③「これを使って○○を書くべし」という過程の、②からスタートする人もたくさんいるわけですが、①からスタートしている人間が、②からスタートしている人の話を聞いて③に行ってしまおうとしても、②を飛ばしているわけなのでどうにもならないということがあると思います。
自分は「書かざるを得ない」タイプの人間であるはずと思いながら、具体的に書かずにいられないことはないという時、やはり自分の欲望に深く潜っていく必要があると感じています。
34:30
そうそう、そうですよね。いつも「枷を外す」というイメージを持っています。ノウハウは界王拳でもバイキルトでもヘイストでもなく、つまりバフではなく、デバフ解除の助けなんだと思います。
だから、誰でもすごい人になれるみたいなのは信用できませんし、どちらかというと「本来の自分になることそのもの」を喜ぶ気持ちが必要だろうなと思います。その結果すごいかどうかではなく。
24:23
28:43
私もそうですね。リニア型の書き方というのはつまりそういうことなんでしょうか。流れで書くということは結局流れを生むと決めて流すということで、書くというテンションで臨むのは大前提というか。
多分流れで書いてしまうことができない人からするとこの「書くと決めて書くんだよね」というスタンスは羨望の対象になるのではと思いますが、「流れで書ける」イコール「書くことが流れに依存してしまう」ということで、任意のタイミングで取り扱うのが難しいとか編集が難しいとかいうことになるのだと思っています。
あらゆるものを流れにできる超能力を持っているか、流れをコントロールする術を自分で開発するかしない限り、「たまたま巡り合った流れに乗る」という博打性から逃れられないと感じています。
23:47
26:18
今回最も興味深かったのがこの部分です。
自分の文章がつまらないと感じた結果そういう工夫に繋がるということにかなり仰天しました。
同時に、あの飛躍はそうやって生まれるからああなるのか、ということに納得しました。その飛躍のミステリアスさに憧れを抱いてきたのですが、多分自分がやろうとしていた努力ではこれは実現しなかったなと思いました。でも手法として真似し得ることだというのがわかったので、逆に自分に取り入れられる可能性は見えてなんだか気持ちが軽く自由になった感じがします。
素朴な疑問ですが、Tak.さんの喋りはずっと面白いと思っているのですがご本人の感覚としては話すのと書くのとで大きく違っていたりするのでしょうか。
21:56
これは私もまさにそうです。なので、何度か言及していますが、Tak.さんがアウトライナーでやっている、文節単位で項目を改めておいて操作して納得するまで入れ替えるみたいな発想は全くありませんでした。最小単位は単語でも行でもない…というか、最小単位というのがないのかも。
文と文が有機的に繋がっているので、一箇所変えると周辺全部見直して変えなきゃいけなくなる感じがあります。書き直した方が速いと感じることもままあります。
たまに文と文を入れ替えることはありますが、それはその都度コピペすればいい程度の頻度なので、ショートカットキーでパパッとやれたらいいのにと思うほどではない感じです。
20:57
ちょっと笑ってしまいましたが、作家が「書けない時は書けない」と言ってくれることには安心感がありますね笑
「ムラがある」ということには別に向き合うべきことが多分あって、ツールや方法論の問題じゃないような感じがします。それが後半の欲望の話に繋がりますね。
14:28~ フリーライティングではなくフローライティングでは、のくだり
私も「アウトラインを使わずに書く」ということは日常的にしていますが、それはフリーライティングとは考えてないですね。
文が文を生むという反応に依存しているということなので、「依存」ですからフリーじゃないというか。
その中でも書く時の頭の働きをフリーライティングに「寄せて」、脱線を増やすということはあります。生成AIでランダム度を調節するみたいなことです。そうしてみると、脱線が増えるとともに、核心への気づきも増えるように感じます。枝分かれもしますが幹も太くなるというイメージです。
コウさんのご投稿とアウトライナーについて。
コウさんと同じ気持ちかどうかは全然わかりませんが、私の経験では、「アウトライン」というのは書けない時に憧れとして頭に浮かぶ概念でした。要は「魔法の杖」を「アウトライン」と呼んでいるみたいな心境です。こう、ビシッとスパパパッとやれたらいいのに!みたいな。(私の場合はです。コウさんもそうということではないです。)
「ムラがある」とは如何なる状態かということの方がアンテナに引っかかったので、私はそちらに注目してトンネルChannelに書いてみました。
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - LISTEN
第百三十三回:Tak.さんと文章の書き方について - 知的生産の技術
面白かったです。
Podcastそのものとは関係ありませんが、LISTENの文字起こしが結構暴れていてちょっと可笑しい。途中で突然話者の名前に「おだしょー」とか「知事」とか表示されていたり。でも目次はすごい。
直った!
Blueskyがタイムライン取得できない…
offset類の計算がどうも苦手で頭がこんがらがったが、テストをちょこちょこやって正しいっぽい挙動を作れた。
結構複雑な処理になった…。
textarea内でショートカットキーを使った時に色々便利なことが起こるように機能を作っているんだけど、Markdownのtable記法の処理ができるようになって我ながらすごいものを作ったという気分。
行追加、列追加、列の入れ替えができるようになった。
これをクロージャというわけだ。
ソシャゲ、超高難度マップを攻略して喜びを表現しているプレイヤーがいたとしても、その人を含めてプレイヤーたちが「超高難度マップに挑みたい」と思っているとは限らないんだよね…。
せっかくここを用意したのに、これこそここに書くべきというような内容をついBlueskyに投稿してしまっている。
TwitterやMastodonより一歩引っ込んだ場所としてBlueskyをイメージしていて、「Twitterじゃない方がいいからBlueskyに」となっている。「SNSじゃない方がいいからひとり掲示板に」と考えないと。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
>> 41
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。
視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。
SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
やっぱり自分でサイトを作ってRSSフィードを出力するようにすべきか…。
と言っても、結局どうするのがベストなのかはまだ悩みどころ…。
「掲示板」や「タイムライン」のような、他人と共有する「場」への投稿での自分の言葉の軽さと、自分に責任がある場での自分の言葉の重さがイコールじゃないのが難問。