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喧嘩王 謁見の間 / 135

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なごむ 2020/02/08 (土) 16:05:40 修正

>> 27

時効かもしれませんが、ふと思い浮かんだのでここに置かせていただきます

わたしは、良い文章というのは、読者が上手く感じとって、理解するモノだと考えます
よみ人しらずさんのおっしゃるように、文章のよしあしは人により変わるでしょう
その界隈でしか通じない名文もあると思います

しかし、ひろく知れ渡っている文章、名言はそのイメージがすぐに伝わるとは思いませんか?

ところが、実際読んでみると、名言といわれているものは、その状況・理由などが省略されていて、真の内容がわからないことがほとんどです
それでも、言っていることがなんとなく伝わるのは、自分たちの手の取りやすい言葉、わかりやすい論理が使われているからです
これが、『1を語って10を悟らせるもの』の正体だと思います

ソクラテスの『生きるために食べよ、食べるために生きるな』という文章も、イメージがしやすいですよね
でも実は、デブに対しての苦言かもしれません…(笑

つまり、名言というのは、微妙にズレていても、書かれていることだけを見ると、それぞれ意味が通じるのです
これが、名言の名言たる所以だと、わたしは感じます

ところで、余談ですが、谷崎潤一郎の『文章読本』というのはご存知でしょうか?
文章の書き方・読み方などをわかりやすく記した随筆集です
これに、良い文章とは何か?ということについて、答えている箇所があります

文章のよしあしは「曰く云い難し」でありまして、理窟を超越したものでありますから、読者自身が感覚を以って感じ分けるより外に、他から教えようはないのであります。仮に私が、名文とはいかなるものぞの質問に強いて答えるとしましたら、

  • 長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの。
  • 何度も繰り返して読めば読むほど滋味のでるもの。

    と、まずそう申すでありましょうが、この答案は実は答案になっておりません。「深い印象を与えるもの」「滋味のでるもの」と申しましても、その印象や滋味を感得する感覚を持っていない人には、さっぱり名文の正体が明らかにならないからであります。

これは、よみ人さんと、ほとんど同じことを言っているように思えます
大きな違いは、感得する感覚の有無に対して、知性の有無としていることです
わたしも、読み手の知性に依存している…というのはわかるんですけど、どうもそれだけではたりない気がします

たとえば、ポエムというのは、音やリズムによって、余韻を持たせたりするじゃないですか?
それってべつに、詩に詳しくなくても、なんとなく、耳触りがいいとかんじること、ありますよね

これはつまり、良い文章の判断は、読者の知性の有無だけにかぎらないのではないでしょうか?

さて、

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  • 136
    なごむ 2020/02/08 (土) 16:06:15 >> 135

    --さて、話は変わりますが、書き手は、常に読み手を意識しています
    しかし、書き手には、自分のなかで、状況や理由を完結してしまう問題が付き物です
    具体例としては、説明不足・説明過多があります

    文章というのは、思想やその内容をただしく描写するモノにすぎません
    重要視する文章は強調させればいいし、不必要な文章は省けばいいのです
    逆に言えば、書かれていることがすべてです

    たとえば、ニュアンスというものがありますが、実はそれは読み取れてなくてもいいモノです
    それを重要視させる文章というのは、様々な解釈に分かれてしまうことでしょう

    したがって、文章に長い短いはあれど、それ自体の解釈に、大きな違いはないのです
    そこに違いがあるとすれば、その文章から、想起される状況や、作者の心情くらいだと思います
    (プレバトを見ていると特にそう感じさせられます)

    つまり、文章が無駄に長かったり、説明不足だったりするのは、実は読み手にそう感じさせてしまう書き手側の落ち度なのです…

    おわりになりますが、名言というのは、書かれていることが、音や記号として余韻に浸れるものです
    しかし、その内容は、実は大したことがなかったり、間違っていることさえあります
    それでも名言が名言といわれるのは、誰が読んでもそう読みとるしかないからだと、わたしは、思います


    追記

    よみ人さんのおっしゃる知性のない読み手というのは、あまりに程度の低いもののように思えます
    ところが、「こうとも解釈できる」と主張する読み手はそれとは別のようにも感じられます
    なので、全体的に見て、ぼんやりしていてイマイチわかりにくいです

    知性のない読み手で申し訳ありません

    137
    詠み人知らず 2020/02/09 (日) 00:53:59 修正 >> 136

    >> 134でも書いたんだけど、名言がどうのこうの知性がどうのこうの・・・ってのは文字喧嘩界隈で武功を挙げるにあたり求められる文章力や文才にまつわる内部要素として提示したものなんだよな。

    なので

    名言といわれているものは、その状況・理由などが省略されていて、真の内容がわからないことがほとんどです
    良い文章の判断は、読者の知性の有無だけにかぎらないのではないでしょうか?

    みたいなことを言われても困惑するというか・・・
    こちらとしては

    • "真の内容は分からない or 大した内容が見当たらない文章"に対して『文字喧嘩に必要なエッセンスが詰まった名文だ!』と賛辞を贈るヤツは喧嘩師的に言っちゃうと知性ないよね

    ってことを言っているわけなので、しょうじきネジと釘くらいの違いがあるんだよな。
    いくらドライバー回しても釘は打てんよ。

    とはいえ、わざわざ時効中断の訴訟をしてくれたからには、ザッと洗いなおしておきましょうか。


    まず気になったのは「さて、話は変わりますが」の前後でマジ大革命が起こっちゃってること。

    • 良い文章は、読者の知性だけでなく感性による意訳を前提として成り立つ

    ・・・と語っている前半に対して

    • 文章とは書かれていることがすべてであり、読み手にとって長かったり足りなかったりするのは書き手の落ち度

    ・・・と、後半では表示主義的な視点で語っている。

    とりあえず違和感ハンパないよね。
    書かれていることが全てなのであれば、何となくイメージはわくけど真の意味は分からない文章なんてのは、良い文章たり得ないのでは?
    「文章が無駄に長かったり、説明不足だったりするのは、実は読み手にそう感じさせてしまう書き手側の落ち度なのです」と言うのであればなおさらだね。

    あるいは、大して内容のあることが書かれていないにもかかわらず説明不足感を抱かせない点において名言の良さを評価している・・・みたいな感じだったりする?

    まぁ、意訳を尊重するにせよ表示主義的な読解をするにせよ、いずれにしても『良い文章の判断は読者の知性の有無だけにかぎる』なんて一言も言ってないよ。
    余韻とか耳障りとか、そういう感覚的な要素の扱いについては「予備知識」ってワードでトピック内を検索してもらえると話の流れを追えるかと思います。

    言っちまえば結局のところ文章の良し悪しなんてのは人それぞれなんだよ。
    梅沢名人が詠んだとある俳句を、良いものだと思うかどうかは人それぞれです。
    ただ、体言止めとか比喩とか倒置法とか、季語とか七五調とか、予備知識として他者と共有可能な「体系化された評価軸」ってのはしっかり存在しているわけで。
    例えば先日のプレバトでは、勢いよく吹き抜ける風というのが本来の意味である「春一番」という季語を、そよ風だと誤解して使ってしまった谷崎潤一郎が凡人の烙印を押されていました。ついでに梅沢は星3つに降格しました。
    これに関してはもう知性の領分でしょう。

    『人それぞれな感覚的評価軸』については、結果論的に良い文章と良くない文章に分かれるだけなのであんまり参考にならんよね・・・という扱いをしているだけであって、知性による判断との間に優劣関係を設けたつもりはないよ。
    谷崎サンも仰っているように、答案として機能せんのだわ。


    これが、『1を語って10を悟らせるもの』の正体だと思います

    まぁ・・・うん・・・ソクラテスの名言を読んで、本当に10まで悟れたなら別にそれでいいというか・・・大変ありがたいことだとは思うけど・・・
    参考までに、どんな内容を悟った(あるいは、悟る人がいると思う)のか聞かせてもらえませんか?

    今回は"洗いなおし"なのでもう一度説明しておくけど
    俺的にはそういう「名言から悟った!」的なやつって、冷静になってよく考えてみたら実際ほぼ何も悟れてないってケースが大半だと思うんだよなぁ。

    生きるために食べろって言われて、例えば俗に言うワープアな人たちが転職する覚悟を決めたりユーキャンの資格講座に通いはじめたりするキッカケにはなったりするかもしれないけど、別に何かを悟ったわけじゃなくね?
    人生を良くするため働いているのであって、労働するために生命を維持しているわけではない・・・なんてソクラテスの名言を読む前から本人たちも分かり切ってるでしょう。
    キッカケや啓発としての作用は大いに認めるけど、「悟る」は言い過ぎだよ。しかも「10まで」って・・・😅


    文章が無駄に長かったり、説明不足だったりするのは、実は読み手にそう感じさせてしまう書き手側の落ち度なのです

    文章の長さの「適量」はどこなのか、説明の粒度の「適量」はどこなのか、って問題になってくるね。

    • 一般的に文章ってのは特定の個人に宛てたものではなく、その文章を目にするであろう不特定多数の読者を意識して書かれていると留意する必要がある
    • 「相手がどのくらいの予備知識を持っているか」なんて書き手は把握しきれないので、読み手の層を広めに見積もっておく必要がある
    • わざわざ狭い範囲の人しか理解できない文章を書かなきゃいけない理由なんてない

    この辺をもう一度しっかり読んでほしい。

    「今から話す相手は高校生である」と事前に確定している家庭教師がわざわざ四則計算のイロハから説明し始めるのは「適量を超えている」ので無駄に長い説明と言われても仕方ないだろうけど、どの程度の予備知識を持っているか定かではない不特定多数の読者を想定して書かれた文章に「無駄に長い!」って評価を下すのめちゃくちゃ横暴じゃね?

    「今から話す相手は小学生である」と事前に確定している家庭教師が説明もなく関数のグラフを用いるのは「適量に届いていない」ので説明不足と言われても仕方ないだろうけど、どの程度の予備知識を持っているか定かではない不特定多数の読者を想定して書かれた文章に「説明が足りていない!」って評価を下すのめちゃくちゃ横暴じゃね?

    「自分にとって丁度いい分量じゃないからダメ!」みたいな横暴な審美眼を持つ知性なき読み手が、喧嘩界隈には溢れかえっていると日頃から感じている所存です。

    138
    なごむ 2020/02/10 (月) 13:32:03 >> 136

    >> 137

    すみません、わたしの誤解でした
    たしかに、どの程度の予備知識を持っているか定かではない不特定多数の読者を想定して書かれた文章に「説明不足(説明過多)」と文句をつけるのは横暴だと思いますし、そういう読み手が多いように、わたしも感じます…

    補足になりますが、真の意味が分からない文章というのは、その理由や状況が省略されているということです

    たとえば、故事成語である「温故知新」は、それだけ読めば「古きを温ねる、新しきを知る」としか読めませんよね
    それが書かれている原典、論語を読んではじめて、「古きを温ねて新しきを知る、もって師と為るべしと孔子が言った」までわかるわけです

    ところが、辞書には、

    前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすること。

    と書かれており、「師と為るべし」までの意味は、「自分のものとすること」に変わっています
    つまり、名言というのは、それを元に大成された意味が独り歩きしているのです

    したがって、前者は、名言における読解であり、後者は、原典における読解ということになるということです


    それと、あまり関係ないんですけど…
    本のタイトルだけ大賞というものがあるらしいです

    タイトルというのも、名言・名文と同じく、それだけでは真の内容というのはわからないものです
    そして、そのよしあしも人により異なるでしょう

    これと同じように、喧嘩界における良い文章とは何か?というのを語り合うのもまた、面白いとは思いませんか?

    139
    詠み人知らず 2020/02/16 (日) 10:20:20 >> 136

    これと同じように、喧嘩界における良い文章とは何か?というのを語り合うのもまた、面白いとは思いませんか?

    文法や語彙のような体系化された予備知識を評価の主軸としてしまうと、裏を返せばセオリー通りに書かれた文章はもれなく名文美文となってしまうし、良さにも体系的な上限が生じることになってしまう。
    コピーライターなんて職業もあるくらいだし、フィーリングの良し悪しってのは文章のクオリティを左右する超ウルトラ重要な要素だとは思ってるよ。

    >> 110から引っ張ってくるけど

    • 時は金なり vs 金で買えないものもある
    • 3度目の正直 vs 2度あることは3度ある

    温故知新の対戦相手は・・・そうだなぁ「吐故納新」あたりだろうか?
    意味:古いものを捨て、新しいものを取り入れること(デジタル大辞泉より)

    こんな感じの組み合わせを見つけちゃうと、あぁ名言って実はぜんぜん中身ねーんだなって思っちゃうし
    大体の人が当てはまるような内容でもって「言い当てた感」を出してくる占いとか、そういうのを連想してしまうんだよなあ。

    141
    なごむ 2020/02/16 (日) 18:54:17 >> 136

    >> 139

    大体の人が当てはまるような内容でもって「言い当てた感」を出してくる占いとか、そういうのを連想してしまう

    たしか、バーナム効果でしたっけ?
    誰にでも該当するようなことが書かれているだけなのに、あたかも自分が属するものだけに当てはまっているように錯覚してしまう心理学の現象ですよね

    ところで、世の中には派閥というものがたくさんあります
    俳句にも、自由律俳句や無季俳句を認めないと主張する派閥もあるそうです

    では、真理も、それぞれが感じ悟るものだと思いませんか?

    たとえば、「吐故納新」の出典は荘子ですけど、道教は、「道とは言葉で言い表すことはできず、仮に名付けているに過ぎない」として、「書物や言葉は道を指し示すもの」という解釈です

    つまり、「名言は空虚だ」という感じ方もまた、一つの真理なのだと思うのです

    新しい思想っていうのは、実は、読み手の誤解から生まれるのかもしれませんよ?

    143
    詠み人知らず 2020/02/17 (月) 02:09:16 >> 136

    合理を信条とする数学にさえ学派があることを考えると、文系分野で価値観の対立が出てくるのもまぁ仕方ないのかな・・・って感じはするけど
    理系分野の派閥ってのも、目線をミクロに寄せてみると、結局のところ意見が衝突してるのはどの計算法を使うべきか?どういう手順で計算するべきか?みたいな解釈や思想に関する側面が出てくるわけで
    「それぞれが感じ悟るもの」については同感です。

    ただ、もう少し補足と言うか厳密に言うならば
    「それぞれが真理を感じて悟っている」というだけであって
    「それぞれが感じて悟っている内容が真理である」とは限らないかな、と思う。

    道教の解釈については、道を歩んで前に進めば進むほど一人称視点も前進する(現在地から少し先の景色が目に入る)ってのを考慮すると、確かに真理なのかもな~とも思うけど
    仮にその道に終点があったら、道の端まで辿り着いたら、そこから見える景色は振り返ったときの軌跡だけになっちゃうわけだし、そうなると言語化も追いつき得るのかな?とも思うね。
    現代時点ではまだ知見が足りなさ過ぎてオカルトだけどな。

    174
    なごむ 2020/02/26 (水) 12:56:41 >> 136

    >> 143

    すみません、あなたの感覚を肯定するためにすこし詭弁を用いてしまいました
    たしかに、よみ人さんのおっしゃったことの方が正しいと思います

    でも、それぞれが、名言から、真理を感じて悟っていて、そして、新しい発想が飛び出すのなら…
    もはやそれは空虚ではない気がしませんか?

    たとえば、「井の中の蛙、大海を知らず」ということわざがあります
    これも荘子によって書かれたものです

    ちなみに、意味は、「狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。 狭い知識にとらわれて大局的な判断のできない」ということです

    でも、このことわざには続きがあることをご存知でしょうか?

    「されど、空の青さを知る」

    意味としては、「狭い世界で自分の道を突き詰めると、その世界の深いところまで知ることができる」ということになります

    わあ、これは名言!オタク街道まっしぐら! (17才・女性)

    …よくしらべたら、実は、誰かによって付け足しされた文章…らしいです
    しかも、どうやら、日本に伝わったあと、日本人が付け足したものらしいと言われています
    もしかしたら、案外、最近できたものなのかもしれません

    生きるために食べろって言われて、例えば俗に言うワープアな人たちが転職する覚悟を決めたりユーキャンの資格講座に通いはじめたりするキッカケにはなったりするかもしれない

    あなたは、「錯覚」と言いましたが、彼にとってはひとつの真理なのです
    彼なりに、ひとつの、とある真理を悟ったから、その行動に移すキッカケになったんです

    実際は別に稼ぎが増えたりしてないのに増えたと錯覚して、その彼が幸せになるならいいじゃないですか
    もしかしたら、もっと努力するようになるかもしれない…

    そして、彼は、後に偉人となり、名言・名文を残すのではないでしょうか?

    …おばかなわたしには、どんなものになるのか想像もつきませんけど

    177
    詠み人知らず 2020/02/26 (水) 20:07:40 修正 >> 136

    なんか「ファンタジーとリアリティをどの割合で希釈するか?」みたいな感じになってきちゃったな・・・

    そういえばこれ常々思ってたんだけど
    レンタルショップやVODで映画を探すとき、「SF・ファンタジー」みたいな感じであたかもその2つのジャンルが姉妹関係にでもあるかのような扱いされてること・・・多くない?
    あれ何なの?

    俺はSFが観たいのに、作品一覧にジュマンジとかが紛れ込んでくるのマジで勘弁してほしいんだが。
    確かにジュラシックパークとかトランスフォーマーみたいな代表例はあるけど・・・SFとファンタジーってそんなに類縁か?

    と、余談はこの辺にしておいて

    あなたは、「錯覚」と言いましたが、彼にとっては、ひとつの真理なのです
    彼なりに、ひとつの、とある真理を悟ったから、その行動に移すキッカケになったんです

    この場合の「彼にとっての真理」って例えばどういう内容?
    生きるために食べた方がイイって考え方はとっくに分かってたけど、名言に啓発されて背中を押されてアクションを起こすきっかけになりました・・・って場合に「真理」ってのをどう扱うかだよな。

    さらに付け加えるなら
    その文言が大衆から名言として扱われているという同調圧力やら何やらの影響を受けまくった結果とある発想を得た人がいたとして
    「いま悟った内容はあくまで自分にとっての真理でしかない」と本人が弁えているのであれば是非ともそのまま偉人になって後世に名言を遺してほしいところだけど、「井の外の蛙は空の青さを知らないんだよ!井の中に入ったほうがいいぜ!?」みたいに言い出すようであれば・・・真理ってのが何なのかいよいよ分からなくなるよな。

    178
    なごむ 2020/02/26 (水) 22:16:58 >> 136

    >> 177

    道教の話に戻りますが、老子の思想に「無為自然」というものがあります
    これは、「なにもせず、あるがままにまかせること」を意味します

    要は、真理というのは、人知を超越しており、それでいて、人に作用するものなのです

    そして、その正体は、ひらめきだと思うんです
    エジソンのいう、「1パーセントのインスピレーション」です

    そしてそれは、天才を生み出すキッカケにはなるでしょうが、それ自体がなんなのかは誰にもわかりません
    老子が、「言葉で言い表すことはできない」という理由はそこにあると、わたしは思います

    実際、冷静になって考えると、なんでこんな発想に至ったのか、自分でもわからなくなることがよくあります
    でも、その言葉によって、その行動に至ったのも事実です

    相手が言いたいことを察したうえで意図的に「でもお前の文章はこういう意味だとも読み取れるよ?」みたいな小賢しい立ち回りをする喧嘩師だっている

    たとえば、この文章から、「こういう立ち回りすることは正解なんだ」と思い込むことだってありますよね?
    そして、彼女はきっとこう思うはずです

    わたしと同じような人はきっといる」と


    ちなみに、SFとファンタジーは、同じ空想的小説ということで単純にまとめられているんだと思います