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喧嘩王 謁見の間 / 110

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詠み人知らず 2019/11/13 (水) 15:07:17 修正 >> 109

エロアニメの予備知識が足りないの・・・で
貼ってもらった動画の良さ・・・を
共有できないと言わざるを得・・・ない!


はあちゅうの言ってることは分かる。
ことバズらせるという能力において俺は完全にヤムチャなわけだが、喧嘩オタクの目線で言わせてもらうなら

まあこのつぶやき自体にそのギミックが仕掛けられていそうではあるんだけども。

これは正しくその通りだと思う。意図的かどうかはともかくとして、ギミックは確実に備わってる。
というか俺も似通ったビジョンを>> 27で語ったつもりでいるんだが。

念のためもう一度言っておくけど、俺が今回語る内容はあくまで喧嘩オタク目線なので悪しからず。

法則を用いることにより偶然の一致に頼らずバズった文章ってのは、いわゆる名言なんだよ。
そして名言とは何なのかというと、とどのつまり『5までを語り10を悟らせる』ってことだと俺は思うわけ。

ちなみに『5までを語り10までを悟らせる』という言葉自体も名言だ。
さらに追加でもう1つ、俺が気に入ってる名言を紹介しよう。

『名言を名言たらしめているのは、それが名言であるということだ』

・・・さて

・・・どうだろうか?

この名言を見て、何を感じた?何を考えた?
そのイメージを心に留めた状態で以下を読み進めてほしい。


というわけでさっそくカミングアウトしちゃうんだけど
さっき「これは名言です」と断言して紹介した言葉、じつは両方とも俺のオリジナルです。何の歴史的深みもないです。
適度にインパクトがあり、適度にリアリティがあり、適度にポエミーであれば、それはもう名言なんだよ。名言というのは決して真理を語った言葉ではなく、あくまで「真理を語っていると思わせるポエム」に過ぎない。

有名どころで言うと、例えば『生きるために食べよ、食べるために生きるな』という言葉が名言として現代まで伝わり今もなおバズっている。ご存知ソクラテスの言葉です。由緒正しい名言だ。

言葉の深みが1~10まであるとして、ソクラテスの言葉を機械的に解釈すると情報的な価値ってほぼ限りなく1に近いよな。だいたいの人は、ソクラテスに言われるまでもなく予備知識として5くらいまでは心得ている。
言われなくても分かるようなことをあえてボカして詩的にする。結果、その名言を聞いた人たちは『1を聞いただけなのに10まで悟らされた』と錯覚してるんだよ。

名言の実態って、すげぇ空虚だと思うんだよな。
『生きるために食べよ、食べるために生きるな』って、何なの?
食べることが大好きな食いしん坊のデブは食べるために生きてもよくね?

・・・空虚だ。

「時は金なり」と「金で買えないものもある」
「3度目の正直」と「2度あることは3度ある」
これらの間に存在する不思議な関係はどうなるんだ?

・・・がらんどうだ。

ということで、話を戻します。


まあこのつぶやき自体にそのギミックが仕掛けられていそうではあるんだけども。

前述した名言に関する考えのうち、半分はこの「ギミック」に関する考察なわけですが、残りの半分に厄介な性質が含まれておりまして。それが>> 27で指摘している「知性なき読み手」の話なんだ。
はあちゅう(の先輩)の言葉を借りると『普通のバカ』といったところだろうか。

名言を読んだとき『1を聞いただけなのに10まで悟らされた』と錯覚する
そしてその言葉が名言であると褒め称える

これについては先ほど説明した通りだけど、重要なのは「10まで」の部分なんだよ。
あえて言い切っちゃうけど、彼らは10まで理解できてない。

  • だいたいの人が5まで心得ている内容について、ポエミーな文調で1だけを伝える。
  • それを読んだ人は、もともと知っていた5までの内容をただ再確認する。
    再確認の過程で新たな発想が湧いたりするにせよ、到達点はせいぜい6や7程度だ。
  • にもかかわらず「10まで悟った(名言により悟らされた)!」という壮大な錯覚に陥ってしまう。
    恐らく「再確認の道のりを自分の足で歩いた」ことが錯覚の原因だ。
  • ものごとの心理を的確にとらえている!などの賛辞を贈る(謎の上から目線)。

分かりやすい例を挙げよう。
日本史について、第2次世界大戦で日本がアメリカと敵対した理由を理解できていない『普通のバカ』がいたとする。その人に対し、当時それぞれの国がいくつの植民地を持っていたのか等を示して「持つ者(連合軍)と持たざる者(枢軸国)の戦いだったんだよ」とシンプルに説明することは非常にたやすい。
その説明を聞いた『普通のバカ』は、「うわっ超分かりやすい!良い文章(説明)ですね!世界の総面積の25%がイギリスの植民地だったなんて、そりゃ戦争も起こるよね!完璧に理解できました!」てな感じの錯覚に陥りがちなんだよ。

しかし実際のところ「持つ者と持たざる者の~」なんてのは上辺だけすくい取った見せかけの説明に過ぎないんだよ。世界恐慌の存在に全く触れてないし。
極論だけど、第2次世界大戦時の各国の関係をもっと深く掘り下げるなら江戸時代に天草四郎ひきいるキリシタンが起こした島原の乱や、幕府が実施した鎖国政策にまで遡る余地さえあるわけで。
「10まで悟った錯覚」って傲慢さのかたまりだと思うんだよな。
140文字界隈って、その傲慢さが特に顕著に表れてると俺は感じてる。


「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」

この言葉、冷静に落ち着いて考えるとソクラテスの名言と同じで空虚じゃないか?
偏差値の平均が50になるのは自明なわけで、「ボケーッとCM見てるときは皆ワンランクアホ(偏差値40)な状態だ」ってめっちゃ普通のことだろう。

はあちゅうのツイートを読んでイイネを投げてる大勢の人たちもワンランクアホな状態でイイネ押してるんだろうし、それを見越したうえで意図的にバズらせてるなら俺も素直にスゲェと思うよ。

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  • 111
    KANAME 2019/11/19 (火) 17:55:09 修正 >> 110

    ヤムチャの一言で俺の右フック躱すとはさすが歴代のチャンプ。
    やるやないか。


    名言云々のお手製名言についてはまったくピンとこなかったけど

    『5までを語り10を悟らせる』

    なるほどこれは思い当たる節があったし、想像力を掻き立てられた。
    ただねー、喧嘩ヲタクとして腑に落ちないことがひとつある。

    たとえばまだガラケーしかなかった時代のPC喧嘩サイトと携帯喧嘩サイトの評価される文章の違い。
    前者はどちらかといえば論理性とユーモアが求められていたが、後者は露骨なまでのキャラ作りがウケていた(今でこそあまり見ることのなくなった顔文字や特定のフレーズなどを必ず文末に加える表現方法など)。

    悟らせるって技法は喧嘩サイト特有のものではなく、もっと一般的に通じるものだと思うよ。

    名言の実態って、すげぇ空虚だと思うんだよな。

    本音っぽいな。
    「空虚」って言い方が少しバカにしてそうだ。
    単に空虚な文章ならそりゃそうだが、実際に多くの人の想像力で昇華させることのできる文章ってのはすごいとは思わんか?

    はあちゅうのツイートを読んでイイネを投げてる大勢の人たちもワンランクアホな状態でイイネ押してるんだろうし、それを見越したうえで意図的にバズらせてるなら俺も素直にスゲェと思うよ。

    だよな。


    ギミックはわかる。
    異論はない。
    しかし腑に落ちない。

    「知性なき読み手」

    知性が同程度であったとしても重視するポイントが違うことで評価の仕方に差が生じることがあるのでは?
    PC喧嘩サイトと携帯喧嘩サイトの価値観の違いに通じる部分があると思ってるんだけど、もうひとつギミックとして存在しているとすれば
    読み手の「知性」ではなく「属性」だと思うんだよね。
    意図的にバズらせることのできる人ってのはどの層の人間の想像力に任せて錯覚させることができるのかよくわかっている。


    「10まで悟った錯覚」って傲慢さのかたまりだと思うんだよな。
    140文字界隈って、その傲慢さが特に顕著に表れてると俺は感じてる。

    お〜出てきた出てきた。
    やっぱり超否定的じゃん。
    それはとどのつまりTwitterで「いい文章」と錯覚するような文章は「悪い文章」だと言っているも同然だと思うんだけど。
    俺が>> 27を見て疑問に思ったのはお前のその「価値観」だよ。

    まるで錯覚は「悪」かのようなそれ。

    なんだ?それは。
    「スゲェ」と言いながらもどこかバカにしてるよね。
    「俺はわかってますアピ」とかそんな陳腐なことがしたいわけでもなかろう。

  • 112
    詠み人知らず 2019/11/20 (水) 07:27:17 修正 >> 110

    なんだか雲行きが怪しくなってきたな
    さて、どこから整理したものか・・・

    そうだな、とりあえず
    否定的に見ている / スゲェと思う それぞれの対象を明確にしておこうか。
    ※前回も念を押したけど、あくまで喧嘩オタク目線での考察だぞ?


    俺が否定的に見ている対象は
    『知性なき読み手』
    『知性なき読み手が傲慢さを遺憾なく発揮する140文字界隈』

    この2つだ。

    例に出したソクラテスの言葉然り、はあちゅうの先輩の言葉然り、よくよく見てみると1~5の範囲・・・つまりわざわざ説明されずとも大半の人が心得ている内容を語っているだけの空虚な文章にすぎない。

    「ギミックは分かる」とのことだけど、少し心配だから改めて説明を添えておく。

    • 実際に多くの人の想像力で昇華させることのできる文章ってのはすごいとは思わんか?

    実際に昇華してる、あるいは昇華したと錯覚させてるならスゴイよ。

    だいたいの人が心得ている範囲を仮に1~5として、その場合6~10に足を踏み入れてこそ昇華だろう。
    6の扉を開くキッカケづくりになるような文章は言うまでもなくスゲェと思うよ。
    『1だけを記載し、読み手の想像力を介して5までを悟らせる』
    『1を元にして2~5の道のりを自らの想像力で歩んだ読み手は、新たな気付きを得た(昇華した)かのような錯覚を抱く』

    これがギミックだな。

    しかし、その読み手は言うまでもなく「知性なき者」だろう。
    なんせ自分の天井は相変わらず5のままなのに、5までしか知らない分際で傲慢にも「この文章は核心を突いてる!真理だ!10まで理解できた!」と上から目線で世迷いごとを並べるわけだからな。
    これは属性とかそういう尺度でフォローできる領域じゃないと思うが。


    結果論とはいえバズってるからにはどこかに優れた部分は備わってるんだろうけど、「良い文章とは〇〇だ!」って結論を模索する時の参考にはならないと思う。
    例外となるのは「大体の人に備わってる予備知識だけで価値を判断できる文章」くらいだ。

    >> 108のこの部分でも言ってるんだけど、偏差値40を対象にしたような「大体の人に備わってる予備知識だけで価値を判断できる文章」ってのは、ピカソの絵画や俳句なんかと違って非オタクでも良さを共有できるからこそ前述したギミックも意図的に仕込めるわけで、『しかじかの要素を備えているため秀逸である』と結論付けることはできる。そこに異論はないんだよ。
    比喩なんかはその象徴だよな。必要な予備知識のハードルを下げてるわけだ。
    喧嘩界隈にも通ずるものがある。ありまくると思うよ。

  • 113
    KANAME 2019/11/23 (土) 01:43:48 修正 >> 110

    はいありがとう。
    俺が詠み人の言動を見て書き手に対して否定的に見ていると感じた部分は

    空虚な文章

    この文章だ。
    「空虚」ってのは言い換えれば「価値がないもの」だろ?
    それはもっと言えば

    『知性ある読み手』にとっては140文字という制限された世界において傲慢さを遺憾なく発揮する文章は価値がない

    と言っているように見えるのですが気のせいでしょうか。
    そこの確認をしたい。
    「喧嘩オタク目線」でどうぞ。


    なんせ自分の天井は相変わらず5のままなのに、5までしか知らない分際で傲慢にも「この文章は核心を突いてる!真理だ!10まで理解できた!」と上から目線で世迷いごとを並べるわけだからな。

    6~10を昇華できたら、規定値変わると思うけど。
    「なるほど!つまりこういうことか!」とアハ体験のようなものを経験すれば
    多少なりとも知性にいい影響は与えるんじゃないか?

    それが「上から目線」だとも思わんし。
    なんかTwitterの属性に偏見持ってない?w

    つぶやきにヒントをもらって
    「知性なき者」から「知性ある者」に変わることだっていくらでもあると思うし。
    そういう意味じゃ「空虚」ってのは言い過ぎじゃねーか。


    『しかじかの要素を備えているため秀逸である』

    喧嘩界隈での言語活動が「必要な予備知識がなくてもわかりやすい文章」に引っ張られることについて
    俺はある種画一化されると思ってるんだけど。

    140字界隈ってのが出てきてからネット全体を見渡してみると
    ネットにおける文章の書き方の変化をひしひしと感じてるわけ。
    ものすごく丸投げするけどこれについてどう思う?

  • 114
    詠み人知らず 2019/11/23 (土) 04:41:06 >> 110

    『知性ある読み手』にとっては140文字という制限された世界において傲慢さを遺憾なく発揮する文章は価値がないと言っているように見えるのですが気のせいでしょうか。
    そこの確認をしたい。「喧嘩オタク目線」でどうぞ。

    えっと、気のせいだね。
    俺の主張にある「傲慢さ」の持ち主はあくまで読み手だよ。文章(書き手)ではない。

    • 食べるために生きるのではなく、生きるために食べるほうがいい
    • CMはバカでも理解できる内容じゃなきゃダメ
    • 右足を出して左足出すと・・・歩ける

    これ等、内容としては当たりまえ体操だよな。
    当たりまえ体操の歌詞を読んで「この言葉は核心を突いてる!真理だ!10まで理解できた!」ってなるやつ、知性なくね?「自分が理解できていない領域がその先にまだ残ってるはず」という理知的わきまえが足りてない、非常に傲慢な姿勢だと思うんだが。

    「なるほど!つまりこういうことか!」とアハ体験のようなものを経験すれば
    多少なりとも知性にいい影響は与えるんじゃないか?
    つぶやきにヒントをもらって
    「知性なき者」から「知性ある者」に変わることだっていくらでもあると思うし。

    特別な予備知識を必要としない恩恵(再現度の高いギミック)が意図的に仕込まれている文章なら良いものだと思う。
    あるいは、偶然の一致でバズっただけの場合は「良い文章とは~」を模索する際の標本としてあまり適してないと思う。

    いずれにせよ「5→6」の昇華に対して「7まで悟らされてしまった」とか言ってるやつは上から目線で傲慢な知性なき読み手だと思うけどな。
    twitterへの偏見というよりも、俺の活動範囲内において目にする頻度がひときわ高い場所がtwitterって感じだ。ネット全域で分布取ったりしてないからその辺は何とも言えない。

    他の場所を例に出すなら、yahoo知恵袋も傲慢な読み手を見かける機会が多いかな。
    突き詰めればいくらでも掘り下げられるような専門的で高度な内容をテーマにして
    「分かりやすく説明してください」と要求したうえで「とてもわかりやすかったです」と礼を返してるシーン、よく見かけないか?

    いやいや待て、と。

    知識を与える側が、しゃがみこんで、目線をあわせて、分かりやすく説明してあげた。
    その結果、端折られてる部分は当然あるはずだろうが。
    俺が>> 110で出した第2次世界大戦について説明する話も、このパターンにかなり近い。
    「分かったつもりになれただけ」なのに「分かりやすかったです」って上から目線じゃないか?傲慢だと思わんか?
    知性ある読み手なら「理解が深まりました」とか「さらに調べてみようと思います」みたいな感じで
    自分がまだ理解できてない部分があって当然だという理知的わきまえを持っているはず。

    知恵袋関連でなんか良いモデルないかな?って探してたら解説までしてくれてるブログがあったので貼っておく。

    これは"誤った回答"に対して「ありがとうございました、助かりました」って返事しちゃってる役満的な事例だね。


    ものすごく丸投げするけどこれについてどう思う?

    丸投げすぎて何について考えればいいのか分からん・・・

  • 115
    KANAME 2019/11/29 (金) 01:07:52 修正 >> 110

    なんかめちゃくちゃ対立の構図避けられてる気がするけどまあいいや…。
    「Twitterの書き手とかも140字でちまちま目線合わせてるだけのバカっしょ(前頭葉萎縮してんじゃねえの?!)」的なことを驚くほどの説得力を持って説明してくれるんじゃないかと勝手に期待してたんだが残念だ。


    出ました、理知的わきまえ。
    あたりまえ体操の歌詞からその人の知性で読み取れる範囲の悟りができたならいいことじゃないでしょうか。
    人生は学びの連続ですからね〜。

    あとになって「気付き」とかもあると思うし、そこまで目くじら立てて傲慢だと非難することに関してはいささかスパルタすぎるんじゃないかと思うよ。
    読み手に求めすぎというか。

    もちろん喧嘩ヲタクの目線で言えば確かに「それくらい読み取ってもっとうまく昇華させてくれよ…!」って気持ちは激しくわかるけど。


    「偶然の一致」に見えるものもそこには書き手の意図にかかわらず「バズる必然性」ってのがあると思うよ。
    たとえばトレンドに適していたとか、思いのほか核心的なことを言えちゃってたとか。

    傲慢かどうかはさておき、「5〜6」を昇華することが想定できたとして、「7」まで悟れちゃったってのはこれ内容によっては読み手の知性があるからこそだと思っちゃうんだよ。
    もちろんそれがあらためて考えてみると「大きな勘違い」だった場合は詠み人の言うとおりだけど、それ以外のケースもあるんじゃないかって。


    突き詰めればいくらでも掘り下げられる話題に関して、耳障りのいい言葉でストップしたとして
    それが歌詞なのかポエムなのか格言なのかわからないけど、パンチライン的な意味では「いい文章」「いいフレーズ」だと言えるんじゃないか。

    逆に専門的で高度な内容を小難しく厳正に書いたものの、誰にも理解されず評価されないような文章は
    事実として反響がないという結果だけ見れば「悪い文章」と言えちゃうのではないか。
    もしかしたら間違ってる可能性もあるしな。


    リンク見たけど、これだと嘘情報書いてる書き手のほうが問題ありそう。
    ソーカル事件じゃないけど「知性なき読み手がわかった気になる」という現象が起こり
    それが根本的に間違ってる場合はそれを真に受ける読み手もバカだけど書き手もバカだよね。
    意図的に騙すつもりでやってるならある意味優秀と言えるけど。

    yahoo!知恵袋がTwitterと違うのは、「知性なき書き手」の文章が「知性なき読み手」に評価されるという個人間の関係で価値が判定されているという部分かな。
    ベストアンサーに決定してるのは質問者だけでしょ。

    言いたいことはわかるけど月間のアクティブユーザー2,600万人いるTwitterの環境で、どこからでも横槍食らうリスクがある場合は
    その中で一定の「いいね」をもらうのは伊達じゃない、と思いたいんだけど…

    本心としては明らかに昔に比べて読み手の知性が落ちているとは思います。
    明治、大正、昭和、平成ときて令和に突入したわけだけど、各時代に「いいね」と言われてきた書き手を見れば一目瞭然かなと。

    その時代の知性の多寡は、その時代に何がブームになっているかを顧みれば自ずとわかる

    これは俺の友人が言ってた俺が思う名言だけど、たとえば江戸川乱歩や福沢諭吉、森鴎外に太宰治、中原中也など
    かつて日本で社会的な支持を受けた文豪たちがそのハイレベルな文章を「正当に評価された」のは
    裏を返せば「知性のある読み手」が大多数だったからだと思う。


    よりよい「良さ」を享受するには予備知識以上のもの、知識や論理的思考力や豊かな感性などは必要になってくるだろうね。

  • 117
    詠み人知らず 2019/11/29 (金) 06:05:29 >> 110

    やっぱ雲行き怪しいな。
    対立の構図を作るためにわざと斜め視点を持ち出してるのか、それとも単に伝わってないだけなんだろうか?

    えぇ~っと・・・5まで知ってる人がいたとして
    その人が「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」を読んだとして

    理解度は依然として5のまま(実は昇華してない)にもかかわらず「すごい文章だ!6まで悟らされたぜ・・・!」とか上から目線で言ってるやつは傲慢なアホだし
    もともと5だった理解度が6までしか昇華してないにもかかわらず「7まで悟らされたぜ・・・!」とか言ってるやつも上から目線で傲慢なアホだよな?
    で、その究極形が「10まで悟らされた!たった140文字で真理を突いてる!名言だ!」とか言っちゃうやつなわけよ。


    パンチライン的な意味では「いい文章」「いいフレーズ」だと言えるんじゃないか。

    結果論でいいならそう導けるよ。
    ただ、前回も言ったけど「良い文章とは?」を模索する際の標本としては適してないと思う。
    あるいは、特別な予備知識を必要としないギミックが搭載されているなら、偶然バズったにせよ良い標本になるだろうね。特別な予備知識が必要ないってのはつまり再現性があるってことだからな。

    逆に専門的で高度な内容を小難しく厳正に書いたものの、誰にも理解されず評価されないような文章は
    事実として反響がないという結果だけ見れば「悪い文章」と言えちゃうのではないか。

    それが「本当に厳正に書かれている」のであれば、悪い文章だと評するのは理解できない自分を棚に上げる傲慢さの境地だと思うんだが・・・

    これについては、>> 110の第二次世界大戦の例でも触れてる。
    知性なき読み手は、上辺だけの説明で「何となく理解できたつもり」になっているだけだろう。
    「自分が理解できる文章=良い文章」
    「自分が理解できない文章=悪い文章」

    断言するけど、こんな判断を下しちゃうやつは知性ないよ。

    ただ、1つだけ例外がある。
    「特定の個人に向けて書かれた文章」がそれだ。
    誰が読むのか事前に確定しているならば、その人が理解できる内容の文章であるべきだからな。


    「知性なき読み手に合わせた文章を書くことが時代の流れとして画一的になっていくと、どんどん読み手の知性なくなっていくんじゃないか」みたいな話よ。
    喧嘩界も今後そういう影響を受けていくとこまでいっちゃうと読み手のレベルに合わせて無難な表現をする量産型喧嘩師が増えるのかな〜なんて考えちゃったわけだ。

    どうだろうなぁ。

    作家が何らかの情勢に迎合した結果、それが代を重ねるにつれて今の文学観が形成されたんだとは思うけど、明治や大正まで遡って物書きクオリティの変遷に言及するなら、合理主義や資本主義の浸透とかも影響してそうだ。
    当時は作家業でメシ食うなんて現代の何倍も険しい道だっただろうし、あえてその道選ぶのってロマンと熱意も相当だったんだろうな、とは思う。

    読み手の知性が落ちたから物書きたちがそれに迎合したのか
    それとも、作家が合理・資本主義に迎合し安易な作品を量産しはじめたことにより読み手の知性が落ちたのか
    どっちなのか俺には見当もつかない
    そもそも読書嫌いだし

    最近は文学作品と呼ぶことさえおこがましい作品(端的に言うと異世界転生モノとか)がやたら量産されてるけど、それも偏差値40の読者に迎合した結果なんじゃないっすかね。ルーツを辿れば不思議の国のアリスやナルニア国物語に行きつくわけだけど、まぁ天と地の差だわな。
    とはいえ、百人一首に収録されている大半が恋愛をテーマにした超ミーハーな和歌ばかりなのを考えると何とも言えない気持ちにもなる。

  • 118
    KANAME 2019/12/07 (土) 21:50:43 修正 >> 110

    対立の構図を作ろうと意識してるわけじゃないが。
    それが真意なら単に伝わってないだけだな。
    「空虚な文章を書くこと」って喧嘩ヲタクの観点からすると本質的ではないという意味でネガティブに捉えられないか?


    「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」から
    6~10を連想することって、内容にもよるが昇華できているケースも存在するんじゃないのか?
    一概に「知性がない読み手」と判断することは違和感を覚えるし、少し強引なんじゃないかと思うけど。

    たとえ「上から目線」でも「傲慢」でも、その態度と内容はまた別の話なのでは?
    「もともと5だった」ということへの理解の有無でアホかどうか判断してるんだろ?
    「何となく理解できたつもり」だったとしても自分の中で「昇華」できるなら
    「その文章の良さを引き出せない」奴のほうが感性の乏しいアホに見えちゃうんだが?


    再現性がある

    なら「良い文章」の一例として、「再現性のある文章」と定義してもよくないか?
    そこには「偶然」ではなく、ある種の「必然性」が見出せると思うんだけど。

    つまり俺がこの話で言いたかったのは
    「本当に厳正に書かれている文章」よりも「再現性のある文章」のほうが
    「たくさんの人にわかってもらいやすくていい文章」と言えちゃうのではないか?
    こと喧嘩サイトにおいてはそういう人たちが過去に高評価を与えられてきたのではないか?
    詠み人知らず自身も例外ではないはずだ。

    そして、読書嫌いの詠み人知らずが
    おそらく「難解な哲学書」なんかよりも「カイジ」を選択していること。
    この「価値観」は何に基づいている?

    簡単に言ってしまえば、「漫画のほうが読んでておもしれーじゃん」だろ。
    もっと言えば、「本当に厳正に書かれている文章」よりも
    「再現性」や「ユーモア」といったギミックを搭載している文章のほうが
    「価値がある」と判断しているということにならないか?
    それは「良い文章」とは言えないのか?
    漫画は「特定の個人に向けて書かれた文章」ではないが?


    「本当に厳正に書かれている」のであれば、悪い文章だと評するのは理解できない自分を棚に上げる傲慢さの境地だと思うんだが・・・

    お~出てきた出てきた。
    中島義道と同じようなこと言ってるぜw

    俺もこういう意見には同感だよ。
    ただし、ここで問題提起したいのは
    「本当に厳正に書かれている文章」は、その正しさを理由にもっと評価されるべきなのか?
    というかそれ以外の文章が「良い文章」と判断されることって、そんなにおかしいのか?
    ってことです。


    作家が何らかの情勢に迎合した結果、それが代を重ねるにつれて今の文学観が形成されたんだとは思うけど、明治や大正まで遡って物書きクオリティの変遷に言及するなら、合理主義や資本主義の浸透とかも影響してそうだ。
    当時は作家業でメシ食うなんて現代の何倍も険しい道だっただろうし、あえてその道選ぶのってロマンと熱意も相当だったんだろうな、とは思う。

    読み手の知性が落ちたから物書きたちがそれに迎合したのか
    それとも、作家が合理・資本主義に迎合し安易な作品を量産しはじめたことにより読み手の知性が落ちたのか
    どっちなのか俺には見当もつかない

    最近は文学作品と呼ぶことさえおこがましい作品(端的に言うと異世界転生モノとか)がやたら量産されてるけど、それも偏差値40の読者に迎合した結果なんじゃないっすかね。ルーツを辿れば不思議の国のアリスやナルニア国物語に行きつくわけだけど、まぁ天と地の差だわな。
    とはいえ、百人一首に収録されている大半が恋愛をテーマにした超ミーハーな和歌ばかりなのを考えると何とも言えない気持ちにもなる。

    これについては大体同意見。
    残念ながら俺もこれ以上のことを語る知識を持ち合わせていない。
    キャパオーバーじゃ。

    ただ一点だけ腑に落ちないことがある。
    「ミーハーな作品」を昇華させることってそんなに批判されるべきことなの?

    あの中島義道ですら、わかりやすさを求める大衆の傾向に嫌悪感を示しながらも
    そういった読者のおかげで自分がおまんま食えてるって自己矛盾を受け入れて
    俺も人間やし生きていかなアカンねん、しゃーないやんけ!みたいなこと言ってたけどなw


    無難な表現をする量産型喧嘩師が増えるのかな〜なんて考えちゃったわけだ。

    俺は前のレスでこう言ったけれども
    それはある種、「再現性の高い文章」みたいな万人ウケしやすいものに
    引っ張られるのかと思ったんだ。

    たとえば喧嘩で難解かつ高度なボケをかましていたとしても
    「知性なき読み手」によって「それがわからない」ってことになってくると
    最悪ただの荒らしと認識されるリスクもあったりするからね。

    でも、わからないなりに読み解こうとしたり
    ツッコミを入れることによって昇華させようとしたり
    そういう目まぐるしい姿を俺は積極的でええやんけって思うけどな。


    ここから派生テーマ出していいっすか?
    題して、「喧嘩における物語の消費」。

    これも喧嘩ヲタク的な視線で語ってみたい。
    文章力と理解力のバトルに限らず
    俺たちは内容に関して今までさんざん「似たようなやりとり」を目にしてきたと思う。
    かつては、そのたびにオリジナリティを追求した「喧嘩」をしようとした者がたくさんいた。

    お前の言う「異世界転生モノ」を見てもわかるように
    あれらは言ってしまえば「不思議の国のアリス」や「ナルニア国物語」などのパクリだ。

    そのWikiにも書いてあるが、たとえば
    「猫耳」「メイド服」「尻尾」といった視覚的な記号(萌え要素)も
    先駆者の世界観を代用しているにすぎない。

    少年週刊ジャンプにありがちなバトルものですら
    その土台は「ドラゴンボール」のようなインフレ的テーマから抜け出せていない。

    それでも、おもしろいものはおもしろい。

    パクリながらも、それ以外の部分で作品のオリジナリティを与えているからだと思う。


    これを「喧嘩」に置き換えると、バカの一つ覚えのように
    屁理屈の捏ね合いで揚げ足を取るのに猪突猛進、みたいな人が多すぎる気がするんだ。

    これは喧嘩サイトだけの話ではない。
    Twitterでレスバトルしている人たちにもよく見られる傾向だと思う。
    もちろんそういうのもありだと思うが、「そういうのばかり」だとクソつまらなくないか?

    俺は2015年くらいで一度完全に喧嘩サイトが廃れた理由のひとつとして
    代り映えしないこの構造に「飽き」がきてしまったからだと思ってるんだけど。
    これを何年かの周期で繰り返し続けているとすら思う。

    「喧嘩」という世界観は、「文学作品」や「アニメ作品」、その他「二次創作」に比べて
    まだまだ消費されていない余地が残っているはずなのに
    そこに目が向けられないってのは、こりゃどういうわけだ?

    なぜ「つまらない話」を率先して行おうとするのか。
    それしか頭にないのかどうかはわからんが…

    仮に「喧嘩」という世界観が俺の想定している通り
    客観的に見てもありとあらゆるカテゴリで有意義に行われ
    消費された場合、少なくともパクリ以上の喧嘩が生産されるのではないか
    なんて思ってるんだけど、どうでしょう。

  • 119
    詠み人知らず 2019/12/08 (日) 01:50:49 >> 110

    まだ伝わってないっぽいから部分指定してダイレクトに説明するぞ

    • 「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」から
      6~10を連想することって、内容にもよるが昇華できているケースも存在するんじゃないのか?
    • 「もともと5だった」ということへの理解の有無でアホかどうか判断してるんだろ?

    結論から言うと、俺が批判してる内容と違うよ

    「もともと5まで知ってた人」が
    「1~2しか書かれていない文章」を読んだとき
    「そこには書かれていなかった3~5の内容を」自分の想像力で補った結果
    「6まで到達できたような錯覚」に陥って、上から目線で文章の良さを評価する

    このギミックを仕掛ける側はともかくとして、陥る側は傲慢なアホだよなってのが俺の意見だよ。

    画像1

    図解するとこんな感じだ。
    『自分の想像力で歩を進めた』って体験が「元々は知らなかった部分に足を踏み入れた(悟った)」という嘘偽りの錯覚を後押ししてる・・・ってのがギミックの1つとしてあると思うわけよ。
    書かれていない部分を自分の想像力で補ったこと自体は紛れもない事実なんだけど、その『前に進んだ感覚』を都合よく「5より先の領域に進んだ感覚」に置き換えてしまってるのは非常に滑稽だと思うわけ。

    以前出したyahoo知恵袋の実例なんかはまさに顕著なモデルだ。


    「本当に厳正に書かれている文章」は、その正しさを理由にもっと評価されるべきなのか?
    というかそれ以外の文章が「良い文章」と判断されることって、そんなにおかしいのか?

    念のため確認しておくけど、これってある程度の予備知識が必要となる内容を扱う文章の話だよな?
    そのつもりで話を進めるけど「もっと評価されるべき」とまでは言わない。
    本当に厳正に書かれている文章があったとして、その良し悪しをレビューするのは十分な予備知識を備えている人の役目だと思ってる。

    で、予備知識が不足している人に対しては「分かりやすく簡略化した文章」が必要になってくるわけだけど、簡化の文字が示す通り、その過程で厳正さは少なからず損なわれ、厳正ではない内容の文章になってしまうわけだ。
    そして簡略化に簡略化を重ねて辿り着くのが『生きるために食べよ、食べるために生きるな』みたいな、俗に名言と呼ばれてるフレーズだと思うんだよな。

    求められる予備知識のハードルを低下(簡略化)させた文章のことを良い文章だと高評価すること自体は別に構わないんだけど、その場合の「良さ」の対象になるのは「良い感じの簡略化」つまり「元々あった厳正さの損傷率の低さ」であるべきだよな。

    それに加えて
    簡略化された文章を「分かりやすい!良い文章!」と判断するかたわらで
    厳正な文章を「分かりにくい、良くない文章だ」と批評する知性なき読み手はかなり多いぞ。

    そうなってくると、同じ内容の文章であっても読み手の予備知識の多寡によって良し悪しが変わってくる・・・なんてことになっちゃうけど、つまりそれって「ぼくにとって分かりやすい文章は良い文章なんだ!」って言ってるのと同じじゃないっすかね?


    簡単に言ってしまえば、「漫画のほうが読んでておもしれーじゃん」だろ。
    もっと言えば、「本当に厳正に書かれている文章」よりも
    「再現性」や「ユーモア」といったギミックを搭載している文章のほうが
    「価値がある」と判断しているということにならないか?

    価値と需要はワンセットだから確かにその通りだな。
    俺のニーズを満たすアイテムは俺にとって価値がある。

    難解な哲学書を読む予備知識を持っていない
    読むべき理由や読まなければならない必要性も持ち合わせていない
    読みたいという興味もそれほど持っていない

    ・・・ので、難解な哲学書は俺にとってニーズの低いアイテムってことだ。

    ただ、俺はこの場合、哲学書の内容や著者について「良いものではない」なんて批評はしないぞ。
    仮に批評するのであれば、自分の予備知識のなさや興味の低さだ。


    ここから派生テーマ出していいっすか?

    嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい・・・ってのもあたりまえ体操風な名言の1つではあるけど
    「嘘を嘘と見抜く奴は増えたが、嘘を嘘と楽しむ奴はほぼ消えた」ってのも名言だよな。
    喧嘩界隈に限らず、時代の流れってのは広範囲を巻き込んでうねりながら移ろうものなんだな~としみじみ感じる今日この頃。

    データベース消費って単語は初見だけど

    マンガの構成やらなんやらは、何ていうかもうパクリというより様式美と化してるよな。
    敵をぶん殴るときいちいち技名を叫ぶのなんて普通に考えりゃどうかしてるわけだが、それも様式美だ。

    で、データベース消費的な目線で次に来る波は「アニメ化」だと俺は思ってる。
    ジャンプを筆頭に何でもかんでもアニメ化する流れが出てきてるし、KANAMEが好きな進撃の巨人や鬼滅の刃にしても「マンガ版は絵が汚いからアニメのほうがいいw」とか言ってる消費者けっこういるぞ。
    マンガを描く段階でアニメ化しやすいプロットを意識しなきゃいけない時代がそのうち来るんだろうな。

    昨今では音楽チャートの上位にアイドルグループの楽曲が食い込んだりして
    握手券すげぇなって感じだけど、もはやそれも様式美となりつつあるよな。


    話が逸れたので目線を喧嘩オタクに戻すけど
    パクリやパターン化が蔓延しても、俺はあんまり気にしないかな?

    ベートーヴェンやバッハの楽曲に対して「時代遅れ」なんて言うやつ、そう居ないだろ
    ツイッターのレスバとか言われてもよく分からんけど、古参はクラシック演奏してればそれで良くね?
    後続文化のジャズとは当初ずいぶん仲が悪かったみたいだけど、時代が転化しすぎて今となっては肩組みながら「最近の音楽つまんなくね?」って言ってるよ。そんなもんなんじゃね?

    マンガや二次創作の消費市場を切り開いた先人の努力と機転を舐めたらいかんよ。
    喧嘩という世界観に未消費な部分が残ってるとしたら、単純にそれは努力不足か機が熟していないか
    あるいは、マンガ界隈にも実はまだまだ未消費な領域が残ってるけどそれに気付いてない(喧嘩界隈と同じ状況)だけか、このいずれかだと思う。

    クラシックが似合うカフェを経営したいのに参加者がファンモンばっかり歌って場末のバーみたいになっちゃうのが(管理人の目線で)嫌だ・・・って話なら、単に間口広げすぎかと。