さて。 私は今、南極にいる。
大多数の人はこのことを聞いて羨ましがるかもしれないが、
残念ながら状況はかなり悲惨だ。
周りの景色は何もかもが平等公平に青く白く凍り付いているだけで、
せいぜいたまに水平線のかなたに氷山や流氷が見えるだけだ。
しかも、そんな訳で気温も真冬のシベリアに匹敵し
景色を眺めようとして凍り付いている手すりを掴みでもしたら最後
当然しもやけになるので、もはやそんな事すら困難だ。
楽しめることと言えば、料理か他のクルーとの会話ぐらいしかない。
正直言って、もうシンガポールの我が家に帰りたくなっている。
今日はクリスマスだというのに、いったいこんなところで何をやっているんだろうか?
給料は多いけど使い道がないし、寒さは厳しいし、物事は全く起こらないし、
危険は多いし、正直なところ生還できるかすら疑問だし…
「だが、成功の暁には栄誉と報酬が得られるさ。
それだけあれば十分だろ?」
横から急に話しかけられる。
この言葉の内容を見るに、
どうやら考えていることを無意識に喋っていたらしい。
ああ、恥ずかしい…
そんなことを考えながら横を向くと、
ロベルト・マチェイーチェク少将… 今回の作戦の最高指揮官がいた。
手には火のついていない煙草を持ち、もう片方の手はポケットを探っている。
「うわぁ!?
…あ、ロ、ロベルト少将! お疲れ様です!」
「ああ、驚かせてすまなかった。
…安心してくれ、景色を見に来ただけだよ。
別に緊張しなくていい」
あまりの驚きもとい衝撃に、すこし足がのけぞった。
が、なるべく平静を保たなければならない。
それはなんでか? 正直に言うと、私は… 少将に恋をしている。
最初に会った時、私は彼に目を奪われた。
何というか、人を引き付ける雰囲気を持っているのである。
えーと、一言で表すなら… 伯爵?
うん、余計分かりづらくなった。
見た目は… まず、軍人のくせに金髪でぼさぼさ頭で
それを隠すために士官用帽子を深くかぶってごまかしている。
それに服も毎日任務に追われているからか至る所しわだらけで、
何も知らない人が見れば相当だらしない男だと思われるだろう。
だが、意外なことにそれほど服装が乱れているような感じはしない。
腕には銀色の腕時計を付け、服はしわだらけでもネクタイだけは真っすぐだ。
それに、胸についているチェコ国旗のバッジだってぴかぴかに磨き上げられている。
私はそんな彼の雰囲気に引かれ、段々と彼の不思議な見た目について考える事が多くなった。
そして… いつの間にやら、それは恋心に変わっていた。
いつ変わったのか、なぜそうなったのかは分からない。
とにかく、私は少将に恋をしているのである。
でも、悲しきかなそんな恋が叶うはずがない。
なにせ相手は海軍士官、こちらはただの船員だから。
こんな下っ端、名前すら憶えられてー
「なあ、エミーリエ・ドナートヴァー二等海士。ライター持ってないか?
あいにく、自分のはオイルが凍り付いててね」
…エミーリエ・ドナートヴァー。まごうこと無き自分の本名だった。
どうして、総司令官がこんな一船員の名前を憶えているんだろうか?
その驚きかあるいは別の理由で、心臓の鼓動が早くなってくる。
でも、その質問は後回しだ。とにかく今は、ロベルト少将の期待に答えなければならない。
「あ、はい!
えーと、ライターってどこに入れてたっけ…」
そう言って時間を稼ぎながら、ポケットの中からライターを探す。
何処にしまってたっけ? ああ、思い出せない…
そこまで考えて、ようやく思い出した。
よくよく考えたら、今私はライターなんて持っていない。
気が動転しすぎてそんな単純なことも忘れていたようだ。
どうしようどうしよう。
「おい、手伝うか?
相当手間取ってるように見えるが…」
この時ばかりは、ロベルト少将の部下を思っての親切心が仇となった。
非常にまずいし、しかも撤退は許されない。
ああ、何と言う試練。しかも、乗り越えたら一体何が与えられるのかもわからない。
「あ、別に、いえ、そんな、こんなー」
考えながら発言したせいで、言葉がおかしくなった。
喋れば喋るほどぼろが出る。
えーい、もうこうなったら正直に言ってやる。
ボロが出すぎてきっと破り捨てた後の紙切れのようにボロボロになると思うが、
この際こんなことは一切合切関係ない。
「えーと、すみません…」
「ん? 何だ?」
「あー、えと… 私、ライター持ってないこと忘れてました…」
「ああ、そんなことか… 何? 何だって?」
終わった。
今この瞬間、私は確実に少将に嫌われてしまっただろう。
お先は南極の吹雪吹きすさぶ夜と同じぐらい真っ暗になった。
ああ、いったいこれからどうすれば…
「…そりゃ傑作だ!」
そう言って、急に少将は大笑いし始めた。
しかも、とても幸せそうな笑い方で。
「…ぇ」
あまりの唐突さに、思わず呆然とする。
馬鹿にされているのだろうか?
「えーと… 何で笑ってるんですか?」
「ああ… すまなかった。
だが、こうでもしなきゃ悲惨な雰囲気になるだろう?
私が引き気味で行った質問に対して、
少将は笑顔で回答した。
何故だかこちらも、不思議と笑顔になってくる。
「何ですか、それ… あははは」
「ほら、明るい雰囲気になっただろ。はは」
「あははは」
二人でしばらく笑った後、
私は勇気を出して気になっていた質問を投げかけることにした。
「そういえば… どうして私の名前を?」
意外なことに、少将はその質問に即答した。
「…あいにく、この船は狭いんでね。
船員の名前なんてすぐに覚えられる」
「そんな理由ですか?」
「そんな理由だ。 何か悪いことでも?」
けむを巻くように、質問を質問で返される。
「あ、いえ、そんな…」
「なに、別にまた緊張しなくてもいいよ。
さっきまであんなに楽しそうだったのに、
元に戻ったらまた悲惨な雰囲気になっちまう」
それを聞いて、思わず動きが止まった。
どうして少将は、私の為にこんなに気を使ってくれるんだろうか?
ひょっとすると、もしかしてー
「なあ」
考えている途中で、また話しかけられた。
思考をいったん止めて、再び会話に戻る。
「…? 何ですか?」
「もうディナータイムだ、早く食堂に言った方がいい。
ただでさえ冷えてるんだ、冷めた料理なんて食ったら凍っちまうよ」
「あ、はい、少将! 今行きます!」
「おいおい、だからといってそんなに急がなくてもいいぞ。
転んだりして、美人の顔に傷がついたりしたら大変だろ?」
そう言うと、少将はドアを開けて食堂への道を歩いていった。
…さて。 さっき少将は確かに「美人の顔に傷がついたりしたら大変だろ」と言っていた。
ここで重要なのは少将が私の心配をしてくれている事ではなく、
明確に「美人」と言ってくれたことだ。
もしかしたら、ただの紳士的な言動かもしれないし
ただからかっただけかもしれない。
…でも、もし私への好意で言っていたら?
子供っぽい妄想だけど、それでもなんとなく信じずにはいられなかった。
幸いなことに、今夜はクリスマスもとい南極到着を祝うパーティーで
船員のほぼ全員が食堂に集まっているので
まだ少将と二人きりになれるチャンスはある。
考えながらふと上を見てみると、あることに気づいた。
結局のところ… 周りがどれだけ暗闇に包まれていても、
この場所では至る所で光が点っている。
艦橋に、マストの上に、遠くの別の船に。
このタイミングで気づいたのもあるのかもしれないが、
まるで私を応援してくれているみたいだ。
もしも、この明かりがずーっと点いていてくれたら。
あの人を引き付ける雰囲気を持った、
だらしないのか小綺麗なのかよくわからない男に…
「あの、えーと… 付き合ってくれない?」
とでも、言ってみようかな?