帝国主義と民主主義の近代化
産業革命の到来は政界にも影響を及ぼした。その中でもチャーティズム運動と保守党、自由党や労働党などの近代的な政党の誕生は代表格と言えるだろう。ナポレオン戦争での勝利は、国内のフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。それにより腐敗選挙区などの前近代的な制度が存続し続け、これに対し労働者らが立ち上がったことにより始まったのがチャーティズム運動だ。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消などを目的にはじまり、近代的な民主化運動の一つであったが、トーリー党とホイッグ党は1832年の改正でほぼ満足した資産家、中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試み、遂に1848年革命に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。この騒動の後トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対して最初の政権公約であるタムワース・マニフェストを示した。これは同年にトーリーの綱領として採択され、トーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ進化した。ピールはその後首相に就任し、穀物法を廃止。その後就いたジョン・ラッセルのもとで航海法もが廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が発足した。この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にして連合王国議会政治が発展した。有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念と男子普選を充実させた。しかしこの陰で自由党や保守党以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。これにより1884年に誕生したフェビアン協会から発足する形で1906年に労働党が誕生。彼らは同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙では自由党と連立し政権入りを果たすこととなる。