産業革命と連合王国の近代化
ナポレオン戦争後、今後の欧州秩序について話し合うべくウィーン会議が開催されたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、ナポレオンがエルバ島から脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。これを受け欧州諸国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束し、各国はフランスを包囲するように軍を展開。ワーテルローの戦いにてウェリントン公爵が勝利を収め、再び進撃を開始し、再びナポレオンは退位させられセントヘレナ島へ幽閉された。一方このような欧州の混乱を好機と見た国家もある。それは独立からまもなく大国へと成長を遂げた新大陸の王者、アメリカだ。アメリカはナポレオン戦争中、英領カナダに宣戦布告し米英戦争を開始、これを受け連合王国軍、カナダ軍、インディアン部族が連合して戦いを実施した。しかし欧州における戦いが進行中であったこともありアッパーカナダでのジョージ砦の戦いにて連合軍は敗退、ガン条約によって講和することとなる。旧大陸における勝利と新大陸における敗北をきした連合王国は、欧州における旧秩序の維持を目的としたウィーン体制のもと外交政策を進め、セイロン島やケープ植民地のほかマルタ島の支配も開始した。しかし一方で欧州での影響力維持のため外相ジョージ・カニングのもとも自由主義的、民族主義的運動を支持し、ウィーン体制とは一線を画そうとした動きも見られた。その中でも有名なものがギリシャ独立の支持である。連合王国は外交的な自由主義政策ばかりではなく、内政でも穀物法の緩和やカトリック解放令、奴隷制度廃止運動にともなう奴隷貿易法の制定など自由主義的な政策を実施した。さらに連合王国は世界に先駆けて18世紀ごろより蒸気機関の開発、改良を進め、工場制機械工業が発達し民族資本による産業革命が発生した。軽工業や綿織物の分野における工業化が進み工場での大量生産が可能となった。またこれにより石炭の需要が高まり構成国の一つであるウェールズの経済成長が発生、各国からの石炭輸入を行う積出港、綿布の原料となる綿花を引き受ける貿易港でも、労働力を集中させるだけの需要が生まれた。一方でこのような社会的変動は同時に社会制度にも変化の嵐を呼び都市部で新たに労働者や資本家が誕生、資本主義と呼ばれる新時代の経済体制が確立され、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスなどの思想家が1848年にロンドンで生産手段の国有化を謳う共産党宣言を行うなど共産主義の台頭も目立つようになった。