ユニオンジャックとナポレオンの台頭
アメリカ独立戦争の影響は連合王国の従属国であったアイルランドにも波及し、アイルランドにおける連合王国の影響力が弱体化。アイルランド議会が徐々に力を伸ばし、続くフランス革命では、これに呼応することによってアイルランドの地位を向上させようとする政治運動が活発になった。これに危機感を覚えた連合王国議会はカトリック解放とバーターで1800年に合同法を成立させ、アイルランド議会をウェストミンスター議会に統合しアイルランド王国を併合した。これによりブリテン諸島は連合王国により統一されグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立する。そんな中、ドーバー海峡の向こう側に位置するフランスは転換点を迎えることとなる、フランス革命とナポレオン・ボナパルトの登場である。後に欧州におけるフランスの時代を築く立役者となるナポレオンはイタリアやオーストリアなどの近隣諸国を瞬く間に蹂躙、さらに連合王国と植民地インドとの連絡を断つ為エジプト遠征を行った。しかしフランスの目論み通りにはいかずアッカの戦いで連合王国とオスマン帝国の連合軍に敗北、さらにナイルの海戦でフランス艦隊がホレーショ・ネルソン提督率いる艦隊に大敗し、さらに欧州における劣勢に立たされたフランスはエジプト遠征を中止した。これを機に連合王国とフランス間で講和が進みアミアンの和約が締結されたが、双方の対立が理由ですぐさま破棄され、さらに翌1804年にナポレオンが皇帝宣言したことにより連合王国は欧州諸国と対仏大同盟を結成した。その後再びオーストリアとロシアに侵略を開始したナポレオンは次に連合王国を下す為海軍を出したがネルソン提督率いる艦隊に再度敗北。本土への攻撃は不可能と判断し大陸封鎖令を出して連合王国を経済的に攻撃しようとした。しかし、これは全くの逆効果で、かえって連合王国との経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方連合王国は反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、ポルトガルとスペインの対仏ゲリラを支援する結果となった。こうした中で1812年にロシア遠征が失敗に終わると欧州諸国はフランスに対する反抗作戦を実施しイベリア半島戦争においても王立陸軍がヴィットーリアの戦いにて勝利を収め、1814年、連合軍はパリに入城した。