パクス・ブリタニカと独立戦争
連合王国は権利の章典を発布後すぐ、ポルトガル、スペインに遅れること1世紀、17世紀初頭にオランダ共和国とともに大航海時代に乗り出した。東インド会社はインドを中心とするアジアに進出し、約1世後の1858年には英領インド帝国を設置。また北米大陸にも13植民地を設置しフレンチ・インディアン戦争の勝利により広大なルイジアナ地域を獲得するなど領土拡大を推し進め、多数の植民者を送り出していった。しかしこの戦争の影響は経済にも及び、議会は戦費によって膨らんだ国家債務の償還および植民地維持のために送られた軍隊の費用を13植民地への増税で賄う方針を採択。だがこれは植民地からの反感を買い、間もなくこの2つの税法は廃止に追い込まれることとなる。連合王国はなおも植民地に対しての課税を諦めず、1773年には茶法を制定し、植民地での東インド会社による茶の独占と課税を実施。案の定上手くは行かず、これに対し更なる不満を持った植民地人は同年にボストン茶会事件を起こし2年後の1775年にはレキシントンにて王立軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。ジョージ・ワシントンを指揮官とする植民地軍は植民地全域にまで蜂起を拡大し翌年に独立宣言を発表(アメリカ独立戦争)。さらにベンジャミン・フランクリンが妨害工作の実施を諸列挙に呼びかけたことにより連合王国は欧州にて孤立し厳しい戦いを迫られ1783年、パリ条約により独立戦争は13植民地の勝利で幕を閉じた。また、これを機に勃発したフランス革命は、連合王国史史においても次のエポックを作り出すことになる。ウォルポール以来のホイッグ党の優位がアメリカ独立運動の対応に躓いたことによって縮小し、代わりに一連の対応で国民の支持を得たトーリー党が徐々に力を伸ばす結果となった。