統べよブリタニア
イングランド及びウェールズ王国として長年ブリテン諸島に君臨してきたこの国の最も大きなの転換点は名誉革命の有無にこそあろう。イングランド国王及びスコットランド国王でありプロテスタント信仰に改宗したジェームス2世が議会とカンタベリー大司教を説得し、名誉革命を未然に防いで絶対君主制を存続させたのである。当然それでも国民からの支持はあまりなかったが、娘のメアリー2世と娘婿のウィリアム3世の力を借りクーデターが起きないよう自らの地盤を強化したジェームズ2世は1701年に崩御するまでグレートブリテン王国を建国するべく活動した。その後に登場したのはステュアート朝最後の君主であり、後にブランデー・アンと呼ばれるようになるアン女王である。1707年にイングランドとスコットランドの合同法を成立させた彼女は、両王国のそれまでの同君連合という関係からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化させるという偉業を成し遂げた。さらに国力をつけた王国はスペイン継承戦争に呼応しアン女王戦争を開始、これでもまた勝利を収め、先代と異なり大衆の支持を獲得したアン女王であったが唯一の欠点として17回も子を授かったにも関わらず20歳まで生きた子供が1人もなく後継が誰もいなかったことが挙げられる。結局状況が改善されることはなくアン女王は1714年に49歳の若さ崩御し、王国は議会による審議の下ステュアート朝と血の繋がりがあるドイツのハノーヴァー朝を向かい入れた。連合王国は議会による審議の末王位継承権を制定し同家のゲオルク・ルートヴィヒをジョージ1世として向かい入れた。しかしジョージ1世はすでに50歳を過ぎていた上、当時の国際語はフランス語であることから英語の理解に限界があると判断され、その後プリンス・オブ・ウェールズに即位した次代のジョージ2世も既に30歳をすぎていたことにより、連合王国の政治参加にあまり興味がなく既にハノーファーの軍事や政務を担っていたので徐々に国王の権限は弱まっていった。それに加えて彼らは即位後もしばしばドイツに滞在し、連合王国を留守にすることが多く、これを見た連合王国議会はホイッグ党リーダー、後の連合王国初代首相となるロバート・ウォルポールを中心に無血クーデター(自由革命)を決行。これは成功しジョージ2世を廃位に追い込んだ。その後1738年にジョージ2世の孫でありハノーファー朝で最初の連合王国出身の国王であるジョージ3世が即位するまでの間ウォルポール首相と後に2代目首相となるスペンサー・コンプトンは臨時的に議会による共和政を行い、議院内閣制民主主義の基礎を完成させ、現在の連合王国の基礎を築いた。またリバティニアという国号は改革に対する演説の際にコンプトンが発言した「自由の民の王国」という言葉に由来している。