法介の『ゆゆしき世界』

法介のほ~『法華経』--- その①

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わたくし、法介が『法華経』を解りやすく、そして染み入る様に明日のジョーの如く「語るべし!語るべし!語るべし!」^^

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法介
作成: 2023/08/14 (月) 05:46:07
最終更新: 2023/09/28 (木) 12:25:12
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法介 2023/08/14 (月) 05:51:07 修正

ほ~『法華経』の第一回目は、法華経が説かれた意味について、まずお話したいと思います。

と、その前に

「法華経って釈迦が説いた経典じゃないってネットで聞きましたよー!」

って言う方が必ずおられますので、yahooの『知恵袋』で次のような質問を立ててみました。

yahooの『知恵袋』~

『法華経』についてお尋ねします。

『法華経』は仏説ですか?

それとも仏説ではありませんか?

皆さんのご意見をお聞かせください。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284418203

6
法介 2023/08/16 (水) 10:50:16

ここはyahooの『知恵袋』での質問の総括として質問終了後に書かせて頂きます。

7
法介 2023/08/16 (水) 11:22:24 修正

では早速、法華経が説かれた意味についてお話を始めて参ります。

仏教では正法・像法・末法と言ういわゆる「三時」という三つの時代区分が説かれているのをご存知でしょうか。

お釈尊様が入滅されて時代が移り変わって行くうちに、次第に仏教が衰退し末法に至っては『大集経』に「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と記されておりまして、お釈迦さまが説かれた教えはこの世から姿を消してしまうであろうと言われております。

伝教大師の『末法灯明記』にその事が次のように書かれております。

わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。(ここでは初果を得ることをさとりという) 次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう。(現代語訳)

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法介 2023/08/19 (土) 04:49:06

さらに『末法灯明記』には次のような事がかかれております。

『摩訶摩耶経』によれば、

 「仏の入滅後、はじめの五百年は、摩訶迦葉などの七人の聖者が次々に仏の教えをたもち、失われることはないが、五百年の後には、正しい仏の教えがなくなってしまうであろう。六百年になると、仏教以外の九十五種の教えがはびこるが、馬鳴菩薩が世に現れて、それらの誤った教えを打ち破るであろう。七百年には、龍樹菩薩が世に現れてよこしまな考えを打ち砕くであろう。八百年には、比丘がほしいままに振る舞い、わずかに一人二人し覚りを得るものがいなくなるであろう。九百年には、比丘や比丘尼を召使いのように見て軽んじるであろう。千年には、不浄観が説かれると、怒って聞こうとしないであろう。千百年には、僧侶も妻や夫を持ち、戒律を謗るであろう。千二百年には、僧侶の多くは子供を持つであろう。千三百年には、僧侶の袈裟が在家のものの衣服のように白くなるであろう。千四百年には、出家のものも在家のものも、仏弟子でありながら殺生をするようになり、三宝の財物さえ売り払うであろう。千五百年には、拘セン弥国にいる二人の僧が互いの是非を争い、ついには殺し合うであろう。このため仏の教えはこの世から消え去り、竜宮の宮殿に隠れてしまうのである」

と説かれている。これらによれば、千五百年の後には戒律も禅定も智慧もなくなってしまっているのである。だから『大集経』の第五十一巻に、

「わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めて覚りを得ることが確かであろう。次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう」

と説かれているのである。これは、はじめの三つの五百年間は、時の経過にしたがいながら、戒律と禅定と智慧の三つが確かにたもたれるということである。すなわち先に引いた説の、正法五百年像法千年という二つの時代にあたる。次の、寺をつくることが盛んな時代から後は、すべて末法である。だから窺基の『金剛般若会釈』に、

正法の時代は五百年間、像法の時代は千年であって、この千五百年の後には仏の教えはなくなってしまう

といっているのである。これにより、釈尊の入滅から千五百年を経た後は、末法の時代であることがわかる。

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法介 2023/08/19 (土) 04:50:06

さらに『末法灯明記』で伝教大師は問者に対し次のように答えます。

 問うていう。そうであれば、今はどの時代にあたるか。

 答えていう。釈尊の入滅された年代には多くの説があるけれども、とりあえず二つの説をあげる。一つには法上師などの説であるり、『周書異記』によって、釈尊は周の第五代穆王満の五十三年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年(※西暦801年)に至るまで千七百五十年を経ている。二つには費長房などの説であり、魯の『春秋』によって、釈尊は周の第二十代匡王班四年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年に至るまで千四百十年を経ているから、今は像法の時代の最後にあたる。

そして最澄(伝教大師)さんは、ここから衝撃的な事を語りだします

像法の最後の時の僧侶のあり方はすでに末法と同じである。すなわち末法の時代であれば、ただ仏の説かれた言葉が残っているだけで、行もなくさとりもない。もし戒律があるのならその戒律を破るということもあり得る。しかし末法の時代にはすでにたもつべき戒律がないのに、いったいどの戒律を破ることで戒律を破ったといえるものであろうか。戒律を破ることすらないのに、まして戒律をたもつことなどあるはずもない。だから『大集経』には、

「仏の入滅後、たもつべき戒律を持たない無戒のものが世の中に満ちあふれるであろう」

と説かれているのである。

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法介 2023/08/19 (土) 04:51:06

それに対し問者が「末法の時代」についてこのように鋭く問い返す。

 問うていう。さまざまな経や律では、戒律を破るものをきびしく制し、教団に入ることを許していない。戒律を破るものでさえこの通りであり、まして無戒のものはいうまでもないことである。ところが今あらためて末法の時代について論じ、末法には戒律がないという。しかし教団の中にもとより無戒のものはいないのだから、それについて論じるのは、傷もないのに傷ついているというようなものではないか