「神通之力」については『諸法実相抄』 に、
「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」
と、法身、報身、応身の「用の三身」であると述べられております。
「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。三身は、
法身如来
報身如来
応身如来
の三身如来のことを言うのですが、〝如来〟と〝仏〟という言葉がどちらも「仏を意味する言葉」として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。
まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。
それに対し如来とは、「悟りの境地より来た」の意味で、最初から既に悟りの境地にありますので「久遠実成」と言います。
「始成正覚」の応身のお釈迦様は、五蘊皆空で肉体を空じる事で覚りの境地に入ります。この場合未だ肉体を備えておりますのでそこでの世界観は「色界」となります。
それに対して如来は、〝実体〟(実像)は無く、実体が無いがゆえにその住する処は「無色界」となります。
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