それを読み返していて気づくのは、少なくともぼくの場合、望みの多くは名前がつけられるような具体的な行動や成果なんかではなく、ぼんやりした「情景」の形で存在しているということだ。
「夢」や「やりたいこと」がうまく言葉にできないという人の中にも、この種の「情景」ならあるという人はいるんじゃないかと思っている。
自分に最適な「社会に貢献する方法」が見つからない状態を「夢がわからない」と思ってしまうのは、まさに私自身がそうだったが、多分ただただ不幸な苦しみなのだろうと思う。自分に何か欠陥があるかのような気持ちになった。空っぽという感じがした。
今でも所謂「夢」とか「やりたいこと」というのは別にない。ひねり出そうとしてこれかなと言うことはあるが、正直に言えば「ない」と言っていいと思う。
でも、自分がどういう人間であるかを語る力はそんなに乏しくないと思う。これだけ色々言えるのに、どうして自分が空っぽだとか欠陥があるとかいうことになるんだろう? 途中からそう思い始めた。
多分私も、Tak.さんが仰るような「『情景』ならある」タイプの人間なのだと思う。
自分の望みに名前はつけられないし、「名前がつけられないタイプの望み」という概念をピッと指し示す名前も無いような気がする。
望みに名前をつけたいわけではない。でも、名前がつかないことによって遠回りする必要に迫られたというところはあるのだと思う。
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