小学校高学年時代の私は不潔で愚鈍な存在だった。
暴力的で陰湿で、無駄に図体ばかりがデカく、ろくに風呂にも入らず、歯も磨かず、靴下も吐かない汚物であった。
そこまで堕落した理由はあるわけだが、それにはあえて触れない。
結果なのだ。世の中は結果が大事なのだ。プロセスはどうでもいい。最終的な責任はそこまで堕落した自分自身にある。
周囲の大人の誰もが私の将来を不安視したことだろう。
このまま育っていくとこの子はどうなってしまうのか?
きっと誰もがそう思ったに違いない。
当時の私は”人と違ったことをする”ことで、それを自身のアイデンティティとしていた。
それは悪戯だったり、水生昆虫であったりと趣向は様々であったが、当時周囲のクラスメート達が夢中になっていたサッカーやバスケットボールには何ら関心を示さなかった。
小学校では勉強では差がつかず、スポーツでは短距離走が絶対だった。
なぜか足の速い奴がもてる。今考えれば意味のわからない価値観だが、当時はそれが子供達の価値観の絶対的指標であった。
もともとの知能は悪くないという自負はあったが、掛け算九九も危ういレベルの半知的障害者でもない限り、小学校のテストはほぼ全員が満点である。
全員が満点のテストなどテストであってテストではない。そんなものに労力を費やすだけ無意味ということを当時から私は知っていた。
だから、テストの50点満点の裏側は白紙で提出し、100点満点の表側の解答欄は自身の笑いのセンスを試す場所であると認識していた。
音楽のペーパーテストで「●●(音楽教師の名前)しね」と回答したことは当時の自分なりのささやかな反抗であった。
努力しても差がつかない小学校はまさに「小さな共産主義社会」であり、私には馴染まなかった。
そんな暗黒の小学校時代が過ぎ去り、中学になるといよいよ勉強やスポーツで差が明確に開いてくるようになる。
特に勉強面での差の広がりは顕著であり、小学校まで常に100点満点で成績上位だった者達が60点、70点といった俗に言う平均点に簡単に転げ落ち、そして上昇することはなかった。
いわば小学校のテストの点数は真面目に取り組む姿勢を見るものであって、能力差を比較するものではないのだとそこで初めて知った13歳の春。
小学校時代に調子付いてた連中が堕落していく姿を見て笑いが止まらなかった。
ここで頑張れば私は勝ちあがれるだろう。
そして勉強だけじゃない。今まで学内でサッカーがうまいとモテモテだった奴らも他の強豪校に圧倒され市内大会1回戦負けをカマしている。
私は自身の潜在能力を信じ、勉強とスポーツに励み、今まで私を見下していた連中を逆に見下すべく邁進した。
結果、勉強・スポーツにおいても私は奴等を超越することが出来た。勿論、衛生面も改善し、清潔であることを心掛けた。
しかし、小学校時代の汚物のイメージはぬぐいきれず、私以下の能力のかつての優等生の現ザコ共の方が女子ウケが良かったのは事実である。
この時の頑張りがあったから私は進学校へ進学し、それ相応の人種とのコネクションを作ることができたのだと思う。
地元の同窓会で顔をあわせれば、元々身長が高く顔面的に整っていた私はほぼ全てのステータスで地元のザコ共を超越していた。
わけのわからんFラン大学を卒業してフリーターをしている者や、デキ婚×1の小学校時代はモテたビッチなどを見るたびに私の中学時代の努力は間違っていなかったのだと確信した。
中学時代に勉強やスポーツからドロップアウトした者達は暴力・性・飲酒・喫煙をアイデンティティとするようになり、いわゆる不良と呼ばれるようになった。予想に反せずにその後の人生も堕落の一途を辿っていき、終着点はドカタや風俗嬢であった。
万引きや喧嘩などの反社会行為を平然とする俺カッケー!
友達より早くSEXした私ってイカス!
酒・タバコの味しってる俺ってマジ大人♪
5年も待てば堂々と誰もが楽しめる娯楽をこいつらは一生を犠牲にするかわりに手にしてひと時の悦に浸っていただけにすぎない。
その反社会性を成人後も保てるかといえばそうじゃない。それだけの度量は持ち合わせていない輩が大半である。
中途半端なまま社会のルールの外からは逸脱できず、最終的にドカタや風俗嬢として無様な社会人生活をするようになる。それは努力を怠ったツケであり、彼らへの同情の余地はない。自分自身で選択した道なのだ。
暴力をアイデンティティとしても警察という絶対的暴力の前には個人レベルでは太刀打ちすることは出来ない。暴力で我を通せるならば誰もがそうしていることだろう。
歴史が示すように大昔の人間社会は暴力を制したものが社会を支配していたが、二度の世界大戦を経て形式的には文民主導社会となった。最終的にはアメリカという絶対的暴力の持ち主が世界の主導権を握っているから根本は変化していないが、我々庶民レベルでは少なくとも暴力による統治はほとんど見ることはなくなった。
結局、現代では勉強やスポーツを通じて得られる社会的地位も経済力も暴力の代替手段にすぎず、自己実現を果たすための道具なのである。
腕力で得ることの出来るものが限られているということ。今何を頑張れば将来的に自分にプラスになるかを考えることができたなら、反社会行為に自我を見出したりはしない。
高校以降は学力別で振り分けられるために、そこからが本当の階層社会のスタートなる。
偏差値70の秀才から偏差値30の知的障害者レベルまでが一緒くたに混在していた中学とは異なり、一定レベルの集合となり、それまでとは全く異質のコミュニティに属することになる。
偏差値60の集団と偏差値30の集団。
この二つの集団は同じ人間であり、同じ国家に属する集団でありながら、様相を全く異にする。
どちらの集団の価値観が一般社会に馴染んだものかと言えば言うまでもなく偏差値60の集団の価値観である。
その理由は簡単だ。社会・経済の中枢を担い、それらを動かしている人々の多くが偏差値60以上の人間だからである。
そして、偏差値30の集団は”独自の価値観”を構築する動きを活発化する。
中学時代に自分達が出来損ないのゴミだと半ば自覚した彼らは独自の文化を持つことで、その傷を舐めあい、互いの絆の強さを確認しあうようになる。
我々偏差値60以上の人種からしたら到底理解できない奇抜な格好や反社会的行動は彼ら独自の文化の中では至高とされ、それを”反逆心の象徴”だと互いに自己洗脳しあう。そうすることで彼らは安心感を得る。
偏差値30の人種は人間社会において、個体として非常に脆弱な生命である。人間社会というジャングルで生き抜くための牙を持ち合わせていない生命だと言える。
だから彼らは群れ、独自の文化を築き上げ、自分達の狭い価値観の中で生きていこうとする。社会の底辺が過剰に排他的であるのはそのためだ。
彼らがしきりに「友情」や「絆」を過剰に主張するのは自分達が脆弱であるがゆえであり、群れることでお互いを守りあう原始の本能のなす術なのだ。
自然界においても肉食獣の多くは大きな群れは作らない。
逆に被食存在である草食獣は群れることでその生命危険を少なくしている。
社会の底辺達にも同様のメカニズムが作用しているのだ。
また、社会の底辺には繁殖力の高さにおいてもそのメカニズムが通用する。
魚類や昆虫などは淘汰圧が高く、成体になれる確率が低いために多くの子を産むことで種の保存を図っていく。同様に社会の底辺も多くの子を産み増やすことで種の保存を図る。
彼らの本能がそうさせているのだ。それは彼らが意図して行っていることではなく、生命が持つ神秘とも言える。
不妊に悩む夫婦が数多くいる一方で、不摂生極まりない生活を送っている社会の底辺の受精率の高さには驚愕する。
「個」として脆弱な存在であることを彼らは思考では知らずとも本能で知っていて、それが圧倒的受精率の高さを実現せしめるのだ。
受精率と底辺率の相互関係はおそらく科学的には証明できないことだが、これは真理であると断言できる。
ここで問題になるのが、福祉である。
本来淘汰されることで人間社会の秩序が保たれていたわけだが、福祉という概念の登場によって社会は一変した。
自然と数が減るはずの社会の底辺を福祉によってフォローすることで、社会の底辺の数が激増し社会のパワーバランスが崩壊した。
逆に健全な国民(以下:健常者)は福祉によって血税を搾取され、子を育てるための環境が満足に得られないことを悲観視し、子を産み増やさなくなった。
そんなことは考えもしない本能のままに子を産み増やす社会の底辺の子が増える一方で社会を支える健常者の子が産まれないという悪循環に陥っている。
福祉が台頭してきた理由はなにか?
それは傍目からは「助け合い」や「弱者擁護」といった美徳にマッチすることに加え、そこに大きな金脈が隠されていたからである。
そして福祉は人権屋の商売道具とされ、その概念は本来死ぬべきはずの老人達を無理矢理生かすことまでが福祉とされるに至った。
底辺達が子供を産み増やせば増やすほど、思考停止した半植物状態の老人達が呼吸をし続けるほどに人権屋の懐は膨らんでいく図式が形成された。
また本来”一過性の精神状態”であるはずの欝を"病"と定義しなおすことで、福祉は更に巨大産業へと成長を遂げた。
いわゆる「鬱病キャンペーン」というものだ。貴方は異常だと思わないか?
駅前の掲示板に「あなたその症状うつではありませんか?」などという広告が掲示されていることを。意図的に鬱病へと誘いこむ思惟がそこにはあった。
誰もが一度は陥るつらい時。人はそれを乗り越えることで成長し、優しくなれる。
しかし、そこへ鬱病という逃げ道が意図的に用意され、健康な人々が向精神剤の犠牲となっていった。彼らはいわば製薬会社と精神科医達へ公金を流し込む媒体として薬漬けにされたのである。
もはや福祉は助け合いという概念を超越し、いまや人権屋すなわち”福祉テロリスト”共の商売道具に成り下がった。
福祉テロに蝕まれているこの国を救済するためには3つの政策が必要なのだ。
・生活保護の廃止
・鬱病の保険適用廃止
・育児免許制度
生活保護という狂ったシステムは即刻廃止せねばならない。いまや国防費にも匹敵する公金が生活保護者共によって食い尽くされている。自業自得のゴミにかける情もカネも不要なのだ。
この日本という豊かな国で生活保護に頼らねば生きていけないゴミは早急に死ぬべきであり、それこそが公共の福祉に適う。
生活保護者ができる唯一の社会貢献は死ぬことである。勿論社会に迷惑をかける自殺以外の手法でだ。存在悪である生活保護者達はその存在をこの世から抹消することで社会貢献をする。生活保護者や鬱業者達が安心して自死できるように自殺支援制度を策定し、社会に迷惑をかけず自死するシステムを構築する。各地に自殺支援センター及び公衆自殺所を設置する。
鬱病は甘えであり、保険適用の必要などない。成長の機会を自ら逃している可哀想な奴等だ。だから鬱病を保険適用外にして彼らに”成長の機会”を与えてやるのだ。これ以上の慈悲はない。本当に死にたいのならば自殺支援制度で死なせてやる。自らの意志で死を選択するのだから、尊厳死である。
最後に育児免許制度については幼児虐待の増加からやむを得ないと感じる。
幼児虐待を行うのはいわゆる偏差値・収入共に低い社会の底辺が大半だ。
一定以上の学力と収入がなければ子を産むことはできないシステムにしないと虐待はなくならないだろう。子を育てるには教養と倫理観、そして何よりも経済力が必須なのだ。
それらを持ち合わせていない生殖機能だけが成熟した俗物に親になる資格などない。
不幸な出自の子供を減らすためにも育児免許制度は必要なのだ。
また更に革新的な手法として「劣等種駆除法」なるものがある。
低偏差値・低収入かつ反社会的思想の持ち主を劣等種認定し、軍事力・警察力をもって成敗する。
そして彼らは粛清され来世には健常者として生まれ変わるチャンスを与えられるのである。存在悪として生れ落ちた哀れなる生命を国家権力を以て浄化し、土へと還す。これ以上の慈悲はないだろう。
小賢しい福祉テロリスト共も餌となる劣等種がいなくなれば、動きようがない。
しかし、働きアリの法則が示すように劣等種はなくならないだろう。
その二次的措置として育児免許制度があるのだ。クズの子供はクズという真理に基づいて、生まれながらの遺伝子レベルでの劣等種の増殖に歯止めをかける。社会制度を以てしてだ。
突発的に発生した劣等種の繁殖もそうすることで抑止できる。
劣等種駆除法による能動的淘汰と育児免許制度による受動的淘汰により、国家レベルでの遺伝子浄化が図られることだろう。
狂い始めた社会の歯車を正常に戻すためには強行策はもはや回避できない。
福祉テロは現在進行形で進んでいるのだから・・・。
このように一歩間違えば”福祉テロリストの餌”に堕落していたかもしれない私なりの持論を展開させてもらったが、これは濁りなき真理だと断言できる。
一見豊かに見えるこの国の水面下では福祉テロリズムによる腐敗が進行しているのだ。
本当の福祉とは義務を果たす健全たる国民のために存在するもので、権利ばかりを主張するゴミのためにあるものではない。
今、日本社会に渦巻いている福祉はテロリズムに等しい。
定義に異論があるのではなく、
定義することに異論がある。
ここがポイントであり勝利の起点ね。
お疲れ様でした。
>> 54
ナチュラル「天使はうつ病が病気扱いされることに対して異議を申し立てている」
↓
天使「いつの間に私はうつ病が病気扱いされることに異議がないという立場に仕立て上げられてるんだよ笑」
なぜ「天使は意義を申し立てている」が「天使は意義がない」と逆の意味にすり替えられているのですか?
>> 55
いえ、「天使が意義を申し立てている」根拠をずっと聞いているのではないですか?
なかなか前衛的な意見で、読んでいて楽しかったです。
1⃣鬱病の保険適用廃止 について
各業界の本心はさておき、本来なら一過性で済むはずだった人の症状がうつキャンペーンにより慢性化しているケースは大いにあるでしょうね。
自殺件数の増加にも一役買ってるんじゃないかと思います。
とはいえ、キャンペーンの影響如何によらず重篤な症状を抱えている人も中にはいらっしゃいます。
という考えを持っているのでれば、保険を全廃するのはちょっと意味が分かりません。
うつを乗り越えて人は成長するといえば聞こえは良いですが、一体どのような手法で「促す」のでしょうか。
「促す」のプロセスに医療行為を介入させないのであれば、それはもはや精霊に祈りを捧げるブードゥーと同じ次元かと。
2⃣生活保護の廃止 について
これも同じく、受給条件や額を見直すという話であれば検討の余地はありますが、廃止は暴論かと。
偏差値60や30というワードが単なる例示にすぎないということは十分に理解していますが
教育水準にせよ所得水準にせよ、あくまで相対的なものでしょう。
その自殺支援制度とやらを導入し、ピラミッドの最下層をダルマ落としよろしく現世から除外したところで
かつて2段目にいた人々が最下層にずり落ちてくるだけなのでは?
そのプランには構造的な欠陥があると思います。
🔸あなたの意に沿うであろう代替案
①心身ともに就労可能な状態である
②一定の期間(別途審議)にわたり納税額が一定の値(別途審議)を下回っている
③国内における求人の総数は、就労可能な人口の総数を上回っている
上3項を満たす者に関しては、職業選択の自由をある程度制限したうえで、客観的に測定した職業適正に見合う職に就かせるものとし、①に該当しない者には生活保護を給付する。
3⃣育児免許制度 について
「免許は原則として全員に与えられるが、特定の項目に違反した者からは剥奪する」という方向性なら検討の余地は十分あると思います。
ただ、これに関しても偏差値や所得水準などの相対的な値を指標にしてしまうとダルマ落とし現象が起きてしまうため、入念に吟味したうえ別の指標を規定する必要があるでしょう。
それと同時に、育児適性の高い家庭および個人においては最低限の出生数を義務付ける必要も出てくるでしょう。
は?
知らねんだけど、何の話してんだ?
「うつ病は病気か否か(うつ病は病気として扱っていいのか)」の話しかしてしてないが?
定義とは言ったが「うつ病」そのものの定義ではなくうつ病が「病気」に定義されるかどうかの話な?
>> 55
うん、医学的根拠はないけどなんとなく病気ではないと思ってるんだよね。
負けてんのお前じゃん?
天使は鬱病で間違いありません。
早く私が経営している過失川クリニックへ来てください。
>> 59
どうもこんばんわ。
過激な主張ゆえ反論があることは当然と理解していたが、「うつは病気だ」という反論しかきていなかったところに、このような意見は書き手としてもありがたく思うところである。
ではまず1点目の「うつ病保険適用廃止」における指摘について反論を行う。
現在日本において、うつ病は医学的に病気とされており、治療には一部保険適用がなされている。
うつ病の治療としては主に薬物療法、運動療法、栄養療法、心理療法の4つがあるが、薬物療法のみが保険適用の対象である。
そのことから患者側としても医療側としても薬物療法に比重が傾くわけだが、薬物療法一辺倒では治癒しないという問題がある。
要するにうつ病の保険適用は何ら人助けになっておらず、むしろ薬なしでは生きていけない廃人を製造する諸悪の根源をなしている。
ならば保険適用を撤廃することで、第一に薬漬け廃人を減らし、第二に適切な療法が行われる環境となり、結果的にうつ病を克服し、人の成長を促す契機となるのである。
2点目の生活保護廃止について。
こちらの意見は、単に最下層や劣等種を駆除すべきというものではない。
働きアリの法則よろしく、新たな最下層、新たな劣等種が生まれるだけの周回ゲームとなるだけだからだ。
駆除すべき対象は”本来淘汰されるべき人間”であり、本文中では福祉によって生きながらえている人間を指している。
なぜ彼らの駆除が必要かについては本文どおりであり。
3点目については反論はない。
免許取得性なのか剥奪性なのかの違いはあれど、岩盤にあるものは通底しているといえる。
>> 60
本文中に書いているよね。
「本来”一過性の精神状態”であるはずの欝を"病"と定義しなおすことで、福祉は更に巨大産業へと成長を遂げた」と。
なぜはっきりと書いてあることの話しをしてんの?馬鹿なの?読めばわかるよね。
>> 61
医学的に病気だと定義されているだけであって、本来は一過性の精神状態に過ぎず病気ではない。
って言ってるのよこっちは。
それに対して「医学的に病気だが?」ってチンパンすぎるだろ。
はい。
それじゃあ精神分析していきますね。
天使の批判対象から抽出した結果、上記のような存在に何らかのコンプレックスを抱いているのではないか、と思いました。
例の文章からは、結局のところ、「きちんと大人の言いつけを守り、自分を殺し、着実に歩を進めてきたはずの自分の生き方は正解なはずであるから、それ以外を選択した者たちは、きっと間違っているし不幸であるべきだ。そうでなければ、私は報われない」というなんとも強烈なパッションを感じました。はい。
それには「天使」というハンドルネームにも如実に表れているような気がします。
確かに天使の言うように、しっかりと勉学に励み、大学を卒業して、大手企業に勤めることは比較的「安定した社会生活が送れる」という意味で間違いないでしょう。
しかし、世の中には本当にさまざまな経験を積んでいる人がいらっしゃいます。
たとえば
天使は結局、「好き勝手生きてきたけど、結果幸せになりました」という人たちが許せないだけでは?
そんな印象を真っ先に受けました。
「うつ病が甘え」という意見も、「自由に生きられなかった過去の自分」の嫉妬心に基づき、「自由に生きてきた者たち」を職業差別などで批判したいだけのような気がしています。
当然、触れないでしょう。
自分が批判する存在にある種の「負い目を感じている」など認めたくはない。
しかしながら
と言うのなら、どんな生き方をしようと、結果として「幸せ」になった者たちを批判する道理はない。
それに天使の声は、彼らには響かないでしょう。
モテるビッチが彼氏と楽しそうに振舞っている姿を見て、いくら「ビッチが!」と悪態をついたところで、「なんか変な女が妬んでてウケるんだけど😄」としか思われないのではないでしょうかw
自分の胸に手を当てて聞いてみてほしい。
実は前置きの文章が本題だったりしませんか?
大体、現状に満足していない人というのは、どうでもいい昔話ばかりする「過去に生きている人」というイメージが強いです。
自分の経験則を過信し、固定観念が生まれ、それに囚われたものの見方しかできない可哀想で不幸せな人。
そういう人は、いつも「不満だらけ」です。
他人のやることなすことにいちいち目くじらを立て、その都度批判する。
これ、幸せそうに見えますか?
俺は悲しい生き物だと思います。
「うつ病」というレッテルを張られて搾取されるような社会にしないためには
まず自分がそういう人物にならないことが重要ではないでしょうか。
前向きに、楽しいことに目を向ける。
それが結果的に周囲の人たちにもいい影響を与えることだってある。
もしかしたら苦しい思いをしている誰かの「救い」になるかもしれない。
というわけで、天使の演説は0点です。
うん。だから何も根拠はないんだよね。
読んでるし分かってるよ?
うん。だから何も根拠はないんだよねパート2。
そもそも「医学的な病気」に定義されるんならそれは立派な「病気」だろうがよw
医学的に見て病気なのに病気と言うことがおかしいのだと言うなら医学的根拠を出すべきだってこの単純なロジックがなんで分かんねえんだよw
それとも何か?
医学的に病気だけど病気じゃないってか?w
何その謎の日本語ww勉強してこいよww
まずはここからだろ?
はっきり言うけど、答えはNOだよ。ただの精神状態でもばければ一過性でもない。
うつ病とは脳や自律神経系の一種のエラーのことで、肉体的異常がデータとしてはっきり読み取られるれっきとした病気だバカ。
その症状は心理的症状のみならず肉体的な症状もあり、それらは日常生活に支障を来すから「病気」なんだぞ。
ゆえにただの「精神状態」でもなければましてや「一過性」でもない。根本的な治療が必要なんだよ。
お前はどうせ何の知識もなくただなんとな~く「うつ病って落ち込んでる人のことを言うんだろうな~」とか思ってるんだろうけど、それは違いますから(笑)
薬なしでは生きていけないって何だ?
完治するまで薬の服用を続けるのはうつ病に限った話ではないよな?
それともタイガーウッズみたいなの想像してんの?
だとしたらフィクションの見すぎじゃね(笑)
それ以外も保険適用の対象にすればよくね?
金銭的な問題で唯一保険適用の対象になってるものに比重が傾くって要するにそれが頼みの綱なんだろ?
最後の砦ぶっ壊したら治療のハードル爆上がりじゃねーか。
それこそ社会からはみ出して生活保護受けるのがオチじゃねーの。
成長できないどころか底辺の人間増やしちゃいそうだけど大丈夫か?
保険の意味が分かってねえんなら勉強してこいよ(笑)
うつ病の診断書って割と簡単にもらえるんだよね。傷病手当目当てで申請してその間転職の準備をしたり、遊んだり、あるいはパワハラを訴える材料に使って会社から慰謝料巻き上げる人も中にはいると思う。
心療内科に行って、医者と簡単な問答を行なってうつっぽいこと言っとけば診断書を出してくれたりはするんだよ。
「軽いうつかもしれませんね〜」とか言いながら。
そういう意味じゃ脳の機能障害(うつ病)を判断する指標がザル状態というか、一概に病気ではないケースも存在するだろうし、精神病そのものが眉唾物だったりする見解はよく聞くよ。
俺は専門家じゃないからアレだけど、天使が言ってるのって要するにそういう適当な診断でカモにされてる人たちもいるってことでしょう。
普通に読解できるレベルだと思うけど重箱の隅をつつくようなことをして何がしたいんだ。
だとして、それが現実的にどこまで真実なのかは不明だよね。
自律神経系の一種のエラーとやらの判断材料が患者との会話だし。
心療内科って古典的な手法から全然変わってないと思う。
それもそのはず。
心の解明なんてまだ誰もできてないからな。
天使が言うように、単なる気分の上がり下がりのある部分を適当に切り取って「病気」と呼んでる可能性は大いにあるわけだ。
数百年後、医学や科学が発達して、人の心の問題に新たなスポットライトが当てられたとき、俺たちが「うつ病」と呼んでいたものが別の何かに変わっていたり、そもそもそんなものは存在していなかった、となる未来もなくはない。
というテーマについて、もちろん天使も推測の域を出ないだろうけど、ナチュラルも説明できないだろ?
ただネットに書いてある情報のコピー&ペーストなら誰でもできるぞ。
自律神経系の一種のエラーって具体的にどういうこと?それが精神と何の関係が?どのように連関してるの?なんて疑問は尽きないわけよ。
世間一般で病気と呼ばれてるから病気なんだ!みたいな思考停止の意見ってこの場合何の意味があるのか全然わからねえ指摘だなって思いました。
たとえばうつ病が悪化して自殺する人がいるとします。
こういう人を見て、「異常だ」と思うかもしれないけど、考え方によっては自然現象のひとつなんじゃないかとすら思ってるよ。
苦しさに耐えかねて、いち個体が自らの死を選択するのは、防衛本能的なものが正常に働いた結果なんじゃないかなと。
細胞だって新陳代謝を繰り返すし、それと似たようなもんじゃね。知らんけど。
人間社会では「快く生きることが正常」とされてるから、便宜上病気ってことにしたほうが「正常ではない理由」を与えられて救われる人もいるかもしれないし。
これはどっちが良いとか悪いとかどの視点で見るかで全然変わってくる問題だと思うけどな。
仮に「うつ病」だったとしても、たとえば社会現象を巻き起こしたエヴァンゲリオンの監督として有名な庵野秀明氏は、「うつ病じゃなかったらあの作品はできなかった」とまで言ってるわけだし。
ネガティブな精神状態であることが、さまざまなアートや創作物を生み出してきたという歴史もあるよね。
俺たちは消費者として、自覚してなくても「人の心の闇の恩恵」を授かっている可能性すらあるわけだよ。
万が一俺がアルカイダのテロ組織に捕虜にされて生き地獄とも言うべき拷問を受けたら、俺はきっと糞尿垂れ流しながら「殺してくれ」と懇願するだろう。
うつ病だなんだ言っている場合ではない。
苦痛すぎて死を選ぶだろう。
そういう有事の観点からすると、たかが仕事がうまくいかないとか、失恋したとかで「死にたい(うつ病)」とか言ってる奴に「甘えんな。世の中にはもっと辛い思いしてる奴ごまんとおるわ」と言いたくなる気持ちはわからんでもない。
しかしそういうことを言うと決まって「いやいや、人の辛さは人によって違うんですよ」と反論してくる者がいる。
そうです。
本当にどれだけ辛いのかなんて実体験として感じることはできない。
その人にしかわからないかもしれない。
なので、お前たちがうつ病ではない(なった経験がない)のなら、「知ったふうな口を聞くな」とも思う。
それらを踏まえたうえで、やっぱりどうして人によってここまで「辛さ」という認識の濃度が違うのか考えてみたら、それはきっと幸福度の設定の問題だという見解に行き着く。
個人単位でもそうだけど、国単位で言えば、確かに日本は比較的裕福だ。
輸入大国として俺たちの生活は戦後から劇的に豊かなものになった。
そしてそれがあたりまえになった。
貧富の差はあれど、一応自分の生活がそれなりに送れている人たちには、等しく生きるためのありとあらゆるモノが提供されている。
タイムリープを使って、戦時中の青年を今の日本に連れてきたらどう思うだろうか。
おにぎりひとつで歓喜していた彼が、マックや一蘭などのジャンクフードにありつけるとしたら、それはもう、楽園じゃないか。
逆も然り。
現代人は、良くも悪くも不幸を感じやすくなってしまっているんだと思うよ。
あたりまえのように殺し合いが行われている戦争の前線に送り込まれたら絶望して自決するかもしれない。
幸せや不幸せを感じるのは、スタンダードになっている価値観とのギャップの大きさによって決まるというのが俺の持論だけど。
平和ボケすると有事の出来事に対する免疫がなくなるんじゃないかな?それで人によってはちょっとしたことでも絶望してしまうなんて思ってるよ。
何が言いたいかというとだね。
うつ病になってしまうのは、そういう社会の仕組みがひとつの原因の可能性も大いにあるのではないか、ということだよ。
ここでナチュラルが天使に噛みつくのも、そういう社会が及ぼした一端の例で、もしかしたらナチュラルは「うつ病」であり、この国の「被害者」なのかもしれない。
「いやいや。何言ってるんですか。俺はただ、こういうサイトだからマウント取りに行ってるだけなんですよ」と言うかもしれないけど、その行動に行き着くこと自体がすでに平和ボケした社会の影響を受けていることも十二分に考えられてしまうわけだ。
うつ病かどうか、どこで線引きするんだ?
自律神経系の乱れから好戦的になってしまうことは「心の病気ではない」と言い切れるか?
ぜひ自問自答してもらいたいですね〜。
これはなかなかユニークな発想だよね。
もし、「人間は生きなければならない」という倫理観が、近い将来ぶっ壊れて、「簡単に楽に死ねる」という福祉施設が普及したら、自殺というのは一般的に選択の余地のある手段として社会に組み込まれる日がくるかもしれないよね。
「俺さ、明日死ぬんだけど」
「マジで?結構早いな。今いくつだっけ」
「21歳だよ。あの世いっても頑張るわ。拳で」
みたいなラフな会話が繰り広げられるかもしれない。
ポジティブに人生に終止符を打つという文化があたりまえになるかもしれない。
その頃には「自殺」って言葉のイメージもだいぶ変わってるかな。
「自殺キャンペーン」なんてのも流行ってさ。
未成年で死ぬと学割が適応されて安くで逝けたりすんのかね。
言ってることはわかるが、ただでさえ少子高齢化なのに労働力なくなっちゃうんじゃない?
社会を回すには歯車が必要だからさ。
もしくは機械化が進みすぎて、じいちゃんばあちゃんだけの国になって経済力や国力を失った日本はどっかに飲み込まれて消滅しちゃうかもね。
あと一定以上の学力と収入があるからといって虐待しないわけではないでしょう。
もしかしたら社会的ステータスと虐待してしまう人たちに何らかの関連性はあるかもしれないけど、根本はそこじゃない気がするよ。
教養と倫理観、経済力を養うための環境整備をしないといけないと思う。
今の教育は見直しの余地があると思うし。
そもそも人にものを教えるのは親であれ先生であれすこぶる難しいわけで、なおかつ能力あって賢い人ほど「面倒臭いことはやりたがらない」もんじゃん。
今の政治見てりゃわかるっしょ。
腐った大人の影響を俺も天使も少なからず受けてるんだよ。
既存の社会を正しいものとして扱う天使のスタンスがその証拠。
既存の倫理観からすると簡単に死ねとか言ってる時点で反社会的思想を持った危険因子と判断されて排除される側じゃないお前は。
どういう状態が「狂ってない」と言えると思ってるんだ。
常識ってのは社会の変化に比例して変わるぞ。
ダイエットキャンペーンにも似たようなものを感じるよな。
統計的に最も病気になりにくい体重はBMI22であるにもかかわらず
美容体重なんていうキャッチーな名前までつけてBMI20(より不健康な状態)を目標にダイエットさせるのは
まさに作為的な洗脳行為でしょう。
健康的な体系であるにもかかわらず太ってるという自覚を植え付けられてしまっている人も数多く見かけます。
本件の「うつ病キャンペーン」にきわめて近いものを感じざるを得ない。
さて、果たして肥満は病気(疾患)なのだろうか?
言うまでもなく、答えはNOです。
仮にその人が死亡したとしても、医学的な死因として診断書に載るのは心筋梗塞や高血圧などであり、肥満により死亡したとは見なされない。
肥満はただの予備軍に過ぎず、他の何をも併発していない「健康なデブ」の死亡率は平均的なBMIの人と同等です。
WHOなどの医療機関がその気になれば肥満を病気だと定義することも出来るが現状ではされていない、というだけであり
「医学的に病気と定義されている、症状に一致している」ってのはあまり重要じゃないと思う。
うつ病も、それと同じなのでは?
肥満が原因となって糖尿や高血圧を併発しやすい(肥満は病気ではないが予備軍ではある)のと同じように
うつ病もあくまで他の症状が合併するリスクのある予備軍にすぎず、重要なのはそのうつ状態が外因性なのか内因性なのか、という点ではないだろうか。
内因性による抑うつ状態は本来ならば>> 1が言うように一過性のもので、いわば思春期はちょっと太りやすいよね、みたいなものにすぎない。
なんせ、内因性の抑うつ状態なんて日本人の大半が経験することだからな。
「うつ病キャンペーン」に言わせれば思春期の児童は大半が要治療の病人ということになってしまう。
そんなバカな話はあるまい。
片思いの相手と良い関係を築けず悩んでいる少年少女に対して、駅前の看板は「今きみは自殺する人と似たような心理状態にあるんだよ」と教唆しているわけだ。けしからん。
そんな少年少女に対して、悩みを感じづらい状態に精神を変容させるため投薬する必要なんて皆無だろう。
それに対し、外因性による抑うつ状態は内因性の原因(悩みごとなど)とは違い自力で解決することがきわめて困難なため
投薬によりうつ症状を緩和する選択もやむを得ないと思う。
先天的・後天的を問わずそういう体質の人ってのは存在しているし
別の病気を治すためにステロイドとかインターフェロンを投与したら副作用でうつになったりもするわけで
「乗り越えて成長しろ」とかそういう次元じゃないよな。
うつ病キャンペーンがクソってのには同意だけど
保険適用を廃止するのはあまりにも非文明的だと思います。
>> 78
うつ病キャンペーンもそうだけど、日本って基本的に誇大広告だらけじゃん。
電車の中もそうだし、街もそう。
俺たちは見慣れてるからその風景があたりまえだと思ってるけど、フランスとか街並みが綺麗な海外と比較すると明らかに歪なんだよね。
形骸化した資本主義の成れの果てって感じがする。
保険適用反対ってのは俺も同意。
いやむしろもっと普通に生きている人たちの福祉のために使うべき。
それくらい俺たちは税金払ってるはず。
と言っても今はコロナウイルスが波及して恐慌きそうだけど、この状態自体、台本通りらしいけどね。
専門家でもないくせにただの怠けだとか一昔前に沙汰された精神論を振りかざしてる様がアホらしいと言うことが重箱の隅をつつくようなことなんでしょうか。俺にはちょっと解りません。
確実に病気と言えるかどうかはっきりとしたことは言えないけど本人が何らかの症状を治したいと言ってくる場合って、そりゃあるでしょう。
第一「話を聞いても診断しても何も見つからないけど、本人がそう言ってるんだしとりあえず処置してみるか....」っていうのは心療内科に限らずどこでもやってることだよ。
例えば整形外科で腰痛を訴えてもレントゲンに何も写らなかったら、とりあえず幹部を温めたて血流を促進したり体幹トレーニングなどのリハビリはやってくれる。腰痛自体メカニズムが解明されてないから、むしろ原因が見つかることの方が少ないけどね。
例えば内科で風邪を訴えても喉が炎症してるわけでも熱があるわけでも血液検査でも何もないのに、悪寒や倦怠感があると言えば薬は出してくれるよ。だって悪寒とか倦怠感って確かめようがないもの。
それと同じように「本当のうつ病」ではなく治療する名目で診断書に書かれているだけの「便宜上のうつ病」もあって、それを問題視しているって話だよね。
問題かと言われれば俺も問題だとは思う。でもそれ俺に言われても困る。
だって俺が注目してるのは
ってとこだもの。
だって日常生活に支障をきたすレベルの症状を抱えた患者を「うつ病」というれっきとした病気として見れないのは危険な思想だと思わない?
疾患を抱えてる人間を精神論という素っ頓狂な武器振り回して迫害しようとする差別にしか俺は見えない。
お年寄りや妊婦、ひいては知的障碍者の人は健常者の助けがいることは分かっている(分かってないのかもしれないけど)のに、こと「うつ病」に限ってひどく冷たくあしらうのはなぜなのか。
それはひとえに知識がないから。でしょ?
何度も言うけどうつ病はあらゆる医学的根拠に基づいたれっきとした病気なの。
うつ病とは何なのか。その線引きは何なのか。
天使が無知でいるのは構やしないけど、知りもしないで「病気じゃない!」なんてやめろ。疑問なのにいきなり病気じゃないなんて飛躍も甚だしいわ。
じゃあその根拠は何なんだよ?さぞ医学的根拠にも勝る立派なモノをお持ち.....なわけないよな。
なら黙ってろ。大した知識もないくせに偉そうに語るなよ。
「便宜上のうつ病」を問題視したいなら好きにすればいいが、だったらせめて「本物のうつ病」とは分けて考えろ。
それらを一緒くたにして差別と何ら変わらない発言をしているお前はおかしい。
>> 79
福祉の存在意義からして、普通に生きてる人は福祉あんまり必要なくね?
税金って自分のために払うものじゃなくて相互扶助のための制度だと思うんだが。