万が一俺がアルカイダのテロ組織に捕虜にされて生き地獄とも言うべき拷問を受けたら、俺はきっと糞尿垂れ流しながら「殺してくれ」と懇願するだろう。
うつ病だなんだ言っている場合ではない。
苦痛すぎて死を選ぶだろう。
そういう有事の観点からすると、たかが仕事がうまくいかないとか、失恋したとかで「死にたい(うつ病)」とか言ってる奴に「甘えんな。世の中にはもっと辛い思いしてる奴ごまんとおるわ」と言いたくなる気持ちはわからんでもない。
しかしそういうことを言うと決まって「いやいや、人の辛さは人によって違うんですよ」と反論してくる者がいる。
そうです。
本当にどれだけ辛いのかなんて実体験として感じることはできない。
その人にしかわからないかもしれない。
なので、お前たちがうつ病ではない(なった経験がない)のなら、「知ったふうな口を聞くな」とも思う。
それらを踏まえたうえで、やっぱりどうして人によってここまで「辛さ」という認識の濃度が違うのか考えてみたら、それはきっと幸福度の設定の問題だという見解に行き着く。
個人単位でもそうだけど、国単位で言えば、確かに日本は比較的裕福だ。
輸入大国として俺たちの生活は戦後から劇的に豊かなものになった。
そしてそれがあたりまえになった。
貧富の差はあれど、一応自分の生活がそれなりに送れている人たちには、等しく生きるためのありとあらゆるモノが提供されている。
タイムリープを使って、戦時中の青年を今の日本に連れてきたらどう思うだろうか。
おにぎりひとつで歓喜していた彼が、マックや一蘭などのジャンクフードにありつけるとしたら、それはもう、楽園じゃないか。
逆も然り。
現代人は、良くも悪くも不幸を感じやすくなってしまっているんだと思うよ。
あたりまえのように殺し合いが行われている戦争の前線に送り込まれたら絶望して自決するかもしれない。
幸せや不幸せを感じるのは、スタンダードになっている価値観とのギャップの大きさによって決まるというのが俺の持論だけど。
平和ボケすると有事の出来事に対する免疫がなくなるんじゃないかな?それで人によってはちょっとしたことでも絶望してしまうなんて思ってるよ。