小学校高学年時代の私は不潔で愚鈍な存在だった。
暴力的で陰湿で、無駄に図体ばかりがデカく、ろくに風呂にも入らず、歯も磨かず、靴下も吐かない汚物であった。
そこまで堕落した理由はあるわけだが、それにはあえて触れない。
結果なのだ。世の中は結果が大事なのだ。プロセスはどうでもいい。最終的な責任はそこまで堕落した自分自身にある。
周囲の大人の誰もが私の将来を不安視したことだろう。
このまま育っていくとこの子はどうなってしまうのか?
きっと誰もがそう思ったに違いない。
当時の私は”人と違ったことをする”ことで、それを自身のアイデンティティとしていた。
それは悪戯だったり、水生昆虫であったりと趣向は様々であったが、当時周囲のクラスメート達が夢中になっていたサッカーやバスケットボールには何ら関心を示さなかった。
小学校では勉強では差がつかず、スポーツでは短距離走が絶対だった。
なぜか足の速い奴がもてる。今考えれば意味のわからない価値観だが、当時はそれが子供達の価値観の絶対的指標であった。
もともとの知能は悪くないという自負はあったが、掛け算九九も危ういレベルの半知的障害者でもない限り、小学校のテストはほぼ全員が満点である。
全員が満点のテストなどテストであってテストではない。そんなものに労力を費やすだけ無意味ということを当時から私は知っていた。
だから、テストの50点満点の裏側は白紙で提出し、100点満点の表側の解答欄は自身の笑いのセンスを試す場所であると認識していた。
音楽のペーパーテストで「●●(音楽教師の名前)しね」と回答したことは当時の自分なりのささやかな反抗であった。
努力しても差がつかない小学校はまさに「小さな共産主義社会」であり、私には馴染まなかった。
そんな暗黒の小学校時代が過ぎ去り、中学になるといよいよ勉強やスポーツで差が明確に開いてくるようになる。
特に勉強面での差の広がりは顕著であり、小学校まで常に100点満点で成績上位だった者達が60点、70点といった俗に言う平均点に簡単に転げ落ち、そして上昇することはなかった。
いわば小学校のテストの点数は真面目に取り組む姿勢を見るものであって、能力差を比較するものではないのだとそこで初めて知った13歳の春。
小学校時代に調子付いてた連中が堕落していく姿を見て笑いが止まらなかった。
ここで頑張れば私は勝ちあがれるだろう。
そして勉強だけじゃない。今まで学内でサッカーがうまいとモテモテだった奴らも他の強豪校に圧倒され市内大会1回戦負けをカマしている。
私は自身の潜在能力を信じ、勉強とスポーツに励み、今まで私を見下していた連中を逆に見下すべく邁進した。
結果、勉強・スポーツにおいても私は奴等を超越することが出来た。勿論、衛生面も改善し、清潔であることを心掛けた。
しかし、小学校時代の汚物のイメージはぬぐいきれず、私以下の能力のかつての優等生の現ザコ共の方が女子ウケが良かったのは事実である。
この時の頑張りがあったから私は進学校へ進学し、それ相応の人種とのコネクションを作ることができたのだと思う。
地元の同窓会で顔をあわせれば、元々身長が高く顔面的に整っていた私はほぼ全てのステータスで地元のザコ共を超越していた。
わけのわからんFラン大学を卒業してフリーターをしている者や、デキ婚×1の小学校時代はモテたビッチなどを見るたびに私の中学時代の努力は間違っていなかったのだと確信した。
中学時代に勉強やスポーツからドロップアウトした者達は暴力・性・飲酒・喫煙をアイデンティティとするようになり、いわゆる不良と呼ばれるようになった。予想に反せずにその後の人生も堕落の一途を辿っていき、終着点はドカタや風俗嬢であった。
万引きや喧嘩などの反社会行為を平然とする俺カッケー!
友達より早くSEXした私ってイカス!
酒・タバコの味しってる俺ってマジ大人♪
5年も待てば堂々と誰もが楽しめる娯楽をこいつらは一生を犠牲にするかわりに手にしてひと時の悦に浸っていただけにすぎない。
その反社会性を成人後も保てるかといえばそうじゃない。それだけの度量は持ち合わせていない輩が大半である。
中途半端なまま社会のルールの外からは逸脱できず、最終的にドカタや風俗嬢として無様な社会人生活をするようになる。それは努力を怠ったツケであり、彼らへの同情の余地はない。自分自身で選択した道なのだ。
暴力をアイデンティティとしても警察という絶対的暴力の前には個人レベルでは太刀打ちすることは出来ない。暴力で我を通せるならば誰もがそうしていることだろう。
歴史が示すように大昔の人間社会は暴力を制したものが社会を支配していたが、二度の世界大戦を経て形式的には文民主導社会となった。最終的にはアメリカという絶対的暴力の持ち主が世界の主導権を握っているから根本は変化していないが、我々庶民レベルでは少なくとも暴力による統治はほとんど見ることはなくなった。
結局、現代では勉強やスポーツを通じて得られる社会的地位も経済力も暴力の代替手段にすぎず、自己実現を果たすための道具なのである。
腕力で得ることの出来るものが限られているということ。今何を頑張れば将来的に自分にプラスになるかを考えることができたなら、反社会行為に自我を見出したりはしない。
高校以降は学力別で振り分けられるために、そこからが本当の階層社会のスタートなる。
偏差値70の秀才から偏差値30の知的障害者レベルまでが一緒くたに混在していた中学とは異なり、一定レベルの集合となり、それまでとは全く異質のコミュニティに属することになる。
偏差値60の集団と偏差値30の集団。
この二つの集団は同じ人間であり、同じ国家に属する集団でありながら、様相を全く異にする。
どちらの集団の価値観が一般社会に馴染んだものかと言えば言うまでもなく偏差値60の集団の価値観である。
その理由は簡単だ。社会・経済の中枢を担い、それらを動かしている人々の多くが偏差値60以上の人間だからである。
そして、偏差値30の集団は”独自の価値観”を構築する動きを活発化する。
中学時代に自分達が出来損ないのゴミだと半ば自覚した彼らは独自の文化を持つことで、その傷を舐めあい、互いの絆の強さを確認しあうようになる。
我々偏差値60以上の人種からしたら到底理解できない奇抜な格好や反社会的行動は彼ら独自の文化の中では至高とされ、それを”反逆心の象徴”だと互いに自己洗脳しあう。そうすることで彼らは安心感を得る。
偏差値30の人種は人間社会において、個体として非常に脆弱な生命である。人間社会というジャングルで生き抜くための牙を持ち合わせていない生命だと言える。
だから彼らは群れ、独自の文化を築き上げ、自分達の狭い価値観の中で生きていこうとする。社会の底辺が過剰に排他的であるのはそのためだ。
彼らがしきりに「友情」や「絆」を過剰に主張するのは自分達が脆弱であるがゆえであり、群れることでお互いを守りあう原始の本能のなす術なのだ。
自然界においても肉食獣の多くは大きな群れは作らない。
逆に被食存在である草食獣は群れることでその生命危険を少なくしている。
社会の底辺達にも同様のメカニズムが作用しているのだ。
また、社会の底辺には繁殖力の高さにおいてもそのメカニズムが通用する。
魚類や昆虫などは淘汰圧が高く、成体になれる確率が低いために多くの子を産むことで種の保存を図っていく。同様に社会の底辺も多くの子を産み増やすことで種の保存を図る。
彼らの本能がそうさせているのだ。それは彼らが意図して行っていることではなく、生命が持つ神秘とも言える。
不妊に悩む夫婦が数多くいる一方で、不摂生極まりない生活を送っている社会の底辺の受精率の高さには驚愕する。
「個」として脆弱な存在であることを彼らは思考では知らずとも本能で知っていて、それが圧倒的受精率の高さを実現せしめるのだ。
受精率と底辺率の相互関係はおそらく科学的には証明できないことだが、これは真理であると断言できる。
ここで問題になるのが、福祉である。
本来淘汰されることで人間社会の秩序が保たれていたわけだが、福祉という概念の登場によって社会は一変した。
自然と数が減るはずの社会の底辺を福祉によってフォローすることで、社会の底辺の数が激増し社会のパワーバランスが崩壊した。
逆に健全な国民(以下:健常者)は福祉によって血税を搾取され、子を育てるための環境が満足に得られないことを悲観視し、子を産み増やさなくなった。
そんなことは考えもしない本能のままに子を産み増やす社会の底辺の子が増える一方で社会を支える健常者の子が産まれないという悪循環に陥っている。
福祉が台頭してきた理由はなにか?
それは傍目からは「助け合い」や「弱者擁護」といった美徳にマッチすることに加え、そこに大きな金脈が隠されていたからである。
そして福祉は人権屋の商売道具とされ、その概念は本来死ぬべきはずの老人達を無理矢理生かすことまでが福祉とされるに至った。
底辺達が子供を産み増やせば増やすほど、思考停止した半植物状態の老人達が呼吸をし続けるほどに人権屋の懐は膨らんでいく図式が形成された。
また本来”一過性の精神状態”であるはずの欝を"病"と定義しなおすことで、福祉は更に巨大産業へと成長を遂げた。
いわゆる「鬱病キャンペーン」というものだ。貴方は異常だと思わないか?
駅前の掲示板に「あなたその症状うつではありませんか?」などという広告が掲示されていることを。意図的に鬱病へと誘いこむ思惟がそこにはあった。
誰もが一度は陥るつらい時。人はそれを乗り越えることで成長し、優しくなれる。
しかし、そこへ鬱病という逃げ道が意図的に用意され、健康な人々が向精神剤の犠牲となっていった。彼らはいわば製薬会社と精神科医達へ公金を流し込む媒体として薬漬けにされたのである。
もはや福祉は助け合いという概念を超越し、いまや人権屋すなわち”福祉テロリスト”共の商売道具に成り下がった。
福祉テロに蝕まれているこの国を救済するためには3つの政策が必要なのだ。
・生活保護の廃止
・鬱病の保険適用廃止
・育児免許制度
生活保護という狂ったシステムは即刻廃止せねばならない。いまや国防費にも匹敵する公金が生活保護者共によって食い尽くされている。自業自得のゴミにかける情もカネも不要なのだ。
この日本という豊かな国で生活保護に頼らねば生きていけないゴミは早急に死ぬべきであり、それこそが公共の福祉に適う。
生活保護者ができる唯一の社会貢献は死ぬことである。勿論社会に迷惑をかける自殺以外の手法でだ。存在悪である生活保護者達はその存在をこの世から抹消することで社会貢献をする。生活保護者や鬱業者達が安心して自死できるように自殺支援制度を策定し、社会に迷惑をかけず自死するシステムを構築する。各地に自殺支援センター及び公衆自殺所を設置する。
鬱病は甘えであり、保険適用の必要などない。成長の機会を自ら逃している可哀想な奴等だ。だから鬱病を保険適用外にして彼らに”成長の機会”を与えてやるのだ。これ以上の慈悲はない。本当に死にたいのならば自殺支援制度で死なせてやる。自らの意志で死を選択するのだから、尊厳死である。
最後に育児免許制度については幼児虐待の増加からやむを得ないと感じる。
幼児虐待を行うのはいわゆる偏差値・収入共に低い社会の底辺が大半だ。
一定以上の学力と収入がなければ子を産むことはできないシステムにしないと虐待はなくならないだろう。子を育てるには教養と倫理観、そして何よりも経済力が必須なのだ。
それらを持ち合わせていない生殖機能だけが成熟した俗物に親になる資格などない。
不幸な出自の子供を減らすためにも育児免許制度は必要なのだ。
また更に革新的な手法として「劣等種駆除法」なるものがある。
低偏差値・低収入かつ反社会的思想の持ち主を劣等種認定し、軍事力・警察力をもって成敗する。
そして彼らは粛清され来世には健常者として生まれ変わるチャンスを与えられるのである。存在悪として生れ落ちた哀れなる生命を国家権力を以て浄化し、土へと還す。これ以上の慈悲はないだろう。
小賢しい福祉テロリスト共も餌となる劣等種がいなくなれば、動きようがない。
しかし、働きアリの法則が示すように劣等種はなくならないだろう。
その二次的措置として育児免許制度があるのだ。クズの子供はクズという真理に基づいて、生まれながらの遺伝子レベルでの劣等種の増殖に歯止めをかける。社会制度を以てしてだ。
突発的に発生した劣等種の繁殖もそうすることで抑止できる。
劣等種駆除法による能動的淘汰と育児免許制度による受動的淘汰により、国家レベルでの遺伝子浄化が図られることだろう。
狂い始めた社会の歯車を正常に戻すためには強行策はもはや回避できない。
福祉テロは現在進行形で進んでいるのだから・・・。
このように一歩間違えば”福祉テロリストの餌”に堕落していたかもしれない私なりの持論を展開させてもらったが、これは濁りなき真理だと断言できる。
一見豊かに見えるこの国の水面下では福祉テロリズムによる腐敗が進行しているのだ。
本当の福祉とは義務を果たす健全たる国民のために存在するもので、権利ばかりを主張するゴミのためにあるものではない。
今、日本社会に渦巻いている福祉はテロリズムに等しい。
>> 26
昔は、新規で開業医となる医師の多くが院内処方を選択していました。しかし、医療費削減の流れを受け、
公定価格である薬価は年々引き下げられています。差益は縮小の一途を辿り、今では「ほとんどない」と断言する医師もいるほど。
つまり財政的に見ると、院内処方を選んだクリニックは不利になる可能性が高いと言わざるを得ません。
私は、院内処方を辞めて処方箋を書くまでにしたのです。
なので、薬をたくさん出しても利益にならなくなったのです。
>> 30
この問題は生理現象の問題ではないですよね笑
医学が「うつ病」と定義することによって起こっている諸問題を批判しているこのテーマが、生理現象の問題ですか?笑
>> 32
話聞いてる?
俺は「うつ病は病気か否か」という点で意見してるだけで、
に対するお前の批判なんか問題視してねーわ。
結局論点すりかえてんじゃねーかw
>> 31
勉強になりました。
>> 33
だから俺はその諸問題について意見してねーっつってんだろwwwwwww
>> 34
意見してるって…笑
医学がうつを「病」と定義していることは百も承知で記事を書いてるのに、そこに意見するってどういうことだよ。
まじで頭悪いよね。
>> 37
はぁ?w
お前>> 4で
ってはっきり言ってますけど?wwww
>> 38
主張の趣旨と構図を理解してくれ頼むから。
医学がうつを「病」と定義しているということは一つの事実だとして記事を書いてるし、そのことは本文中にも書いてるよね。
と。
医学がうつを病だと定義しているのは理解しているのに、「うつは医学的に病気だ」と指摘することの頭の悪さにそろそろ気付いてくださいよ。
てか、これほど長文で主張しているところに、噛み付く内容が「うつは病気だ!」っていうところが小物臭甚だしくて可哀想になるわ。
>> 39
その定義が妥当ではないと疑問を抱いたわけですよね?
を「うつ病は病気とされるのが」と解釈すべきところを「うつ病を病気に定義されているか」とさりげなくすり替えて頑張って乗り切ろうとしてるところ申し訳ないんだけど、前者の話なんで^^;
お前が「うつ病を病気と定義されている」ことを理解しているのは分かってますし、こっちもそんな話してないのは理解してますよね?
だって>> 4の「病気ではない」ってその定義を理解していなきゃできない発言じゃないですか?
にもかかわらずそんなところに突っ込むバカっているんですかね?
俺が「うつ病が病気に定義されることの妥当性」の話をしているのは医学的根拠を求めた>> 12を見れば分かる話じゃん?
俺の主張の矛先(論点)をすり替えて錯乱させようとするの見え見えなんで止めましょうね。
俺には効きませーん^^
>> 41
残念だけど全然違います。
定義が妥当ではないなんていうそんなしょうもない話はしていません。
>> 43
いや、もう無理だってお前w
って>> 4ではっきり言っちゃってるもんw
一応言うけど「そういうことを言う」のと「そういう話をする」のは違うからね?
俺が言ってるのは前者の方。
>> 40
その小物に指摘されるようなガバガバな発言したお前が悪いよね。
>> 44
だからなんなんだよ。
今でもうつ病は病気ではないと考えています。
一方で医学が病気だと定義していることは承知しているし、その定義の妥当性に意義は呈していないことは本文を読めばわかるでしょ。
訂正
意義バツ
異議マル
お前大丈夫か?
>> 49
お前が大丈夫かよ。
私はうつ病の定義について異議を呈しているのではない。
そもそも定義化することを批判している。
この違いが分かるかな。
>> 50
話聞けよ。これ>> 34とか>> 45とかで何回も言ってんだけどさ、
に対して俺は何1つ意見なんてしてねーんだわ。
お前がうつ病を保険適用外にしたいだとか、うつ病と診断されたやつがどうなるべきか好き勝手語ればいいじゃん。別に止めたりしねーからよ?
お前がそれを主題にしてないことくらい最初から分かってんだよ。
ただお前は
と発言した。
これを主題とした話ではないにしろ、この発言をしたのは紛れもない事実だよな?
そして俺がその主題を無視して一部の発言をピックアップすることの何がおかしい?
話しかけるときは必ずしも主題に乗っかって話さなきゃならない法律でもあんのか?
結論ナチュラルが言いたいことって、「うつ病は医学的に病気である」っていうただそれだけでしょ?
その指摘についての返事をまとめると、医学的に病気と定義されていることは承知してるし、むしろその事実を織り込んで記事を書いてる。
そして、その定義について異論を唱える気はさらさらないが、そもそも一過性の精神状態に過ぎないものを病だと定義化し、金と廃人を生み出すシステムを築き上げていることを批判している。
そういう意味で、「うつは病気ではない」と書いていることを理解してほしい。
定義しているからうつ病なのであって、定義しなければうつ病ではない。
ではなぜ定義しているかというと金を生み出せるから。
この現況に対して反対の主張を繰り広げているわけです。
>> 52
のは好きにすればいいし、俺にとってはどうでもいいです。ただ、
という発言は、どう考えても、どう見ても、うつ病が病気扱いされることに対して異議を申し立てているし、俺はその異議に医学的根拠を求めたわけであります。
異議を唱える気はさらさらないとか言ってるけど唱えちゃってます。
>> 53
お前が聞いてきたのって「その定義が妥当ではないと疑問を抱いたのか?」というものじゃん。
それに対して、定義には異論はないと言っている。
例えば「うつ病とはAという症状だ」と定義されているところに、いやそれは間違っているだろなんて思わない。
つまり、定義の妥当性に疑問はない。
一方でうつ病が病気扱いされることは当然問題にしているし、そのことに異議がないなんて言ってない。
とあるけど、いつの間に私はうつ病が病気扱いされることに異議がないという立場に仕立て上げられてるんだよ笑
で、さっきも聞いたけど結論として言いたいことは「うつ病は医学的に病気である」ということだけでしょ?
そしてその点については私がどう考えているのか理解できたんじゃないの?
いつまで続けるのかな。