歴史
西暦490年頃から西ローマ帝国の滅亡、9~11世紀の三圃制農法の普及などによって農業生産力大幅に強化された。
8~11世紀の間、教会の権力は強まる一方であったが、ときの東フランクの権力者(主に国王以外の重臣)が教会側に圧力をかけ、教会はこれに反発、行き過ぎた圧力は国王の目にも止まり、教会、重臣の内乱に半ば巻き込まれる形で、両者の中を仲裁するため参戦、三つ巴の大内戦となった(824~999)そんな中で教会は、信者の中から”人ならざる者”の力を持つ人間を選出、戦力転用ができるかを調査する(神の選別)を始める。
国王側や重臣側勢力は諸外国が介入しないよう、国境線に要塞線を建設、これにより、事実上の鎖国状態となった。
一方協会側も同じく国境線に要塞線を築きつつも”人外”の研究を進めた。
970年、オーセールの戦いによって重臣側が大打撃を負うと国内体制の安定化のために国王側は重臣側の勢力を取り込もうとするも、重臣側勢力の完全破壊を目指す協会側と衝突、973年のリヨンの戦いから国王側(国王軍)と教会側(教会)の本格的な戦争が始まった。
戦争自体はじりじりと国王軍が教会側を追い詰める形で推移、しかし両者共に決定打を出せないまま被害が拡大していった。983年、教会側が人外の力を持った者の力を人体の魂に干渉させることができることを発見、不老不死の兵士の研究が始まる。しかしオルレアンの戦い(991年)で国王軍、教会側両陣営が大損害を負った。これにより教会側はリーダーの跡取りがいなくなり、陣営そのものの存続が危ぶまれるようになる一方、国王軍は兵力を大きく失ったものの、体制そのものに大きな揺らぎはなかった。993年教会がrabuを開発、これを跡取りとした。両陣営共に決定打を出せなくなり、999年に休戦協定が結ばれた。しかしながら教会側は兵士として戦った多数の信者を失っており、1099年に事実上陣営が消滅した。1000年から1023年の間で国王側はワーネル=シェスティナ=ベルファストを女王としたレッドオーシャン王立帝国が成立1024年に帝国憲法が発布され、一応という形ではあるが統一国家としての形を取り戻した。1030年に王立国教会を設立生き残った少数の信者を中心に教会の再建を行い、国内からの宗教の消滅を防いだ。(宗教再生)
政治、宗教の安定化により、国内も安定化し、国内の長い平和が続いた1093年教会側の人体の魂への干渉と人外やそれに伴う研究の記録を入手、王族の人間に不老不死の当主を作る”デウカリオーン計画”を始動する。
しかし1102年から始まった大飢饉により国民の約30パーセントが餓死することになり有効な対策がとれなかったことから政府への不満がある増大、パリでの市民運動の鎮圧が引き金となり、内戦へと発達した。(1108年)しかし政府、市民ともに飢饉が原因となり次々と有力者が死亡、1113年を最後に記録が一部途絶えている。1224年、政府の公式記録が再発行されており、この期間は空白の100年と言われている。1258年、人口の回復に伴い、政府機能が回復、アーサー家がベルファスト家の中継ぎとして政治を行った。1271年領土内に計画的な農地の開発を行う(農地回復)を実施、農業生産は大きく回復した。
軍事