>> 1のところで三乗の智慧を覚っている(理解している)人の話をしました。
これは正聞熏習と言いまして、正しい教えを繰り返し聴聞することで自身の阿頼耶識にその教えが知識として染み込んで行くことをいいます。
このような教えとして学ぶ「正聞熏習」は知識として蓄えられて行く種子で、これを有漏の種子と『唯識』ではいいます。
そしてこの有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけで無漏の種子とは成り得ないと『成唯識論』では説かれております。
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず」
今日では、三乗の智慧は、
蔵教=倶舎論 ---(声聞の智慧)
通教=中論 ---(縁覚の智慧)
別教=唯識論 ---(菩薩の智慧)
として我々は知識として学び得る事が出来ます。しかしそういった教えをいくら学んでも、それは有漏の種子を積み重ねているだけで無漏の種子、即ち仏性とは成り得ないというのです。
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