私がササコを突き飛ばした一瞬後、目の前をセルリアンのナイフが横切った。
間一髪だった。
すぐそこまで迫っていた風切り音に気がついて咄嗟に身を引き、しりもちをつくことでなんとか致命傷は避けられた。
この攻撃で受けた被害といえば、右手の袖が犠牲になったくらいだ。
ササコは……大丈夫、ちゃんと生きてる。
突き飛ばした時に強く頭を打ったりしてないといいけど。
今はそんな心配をしている余裕はない。
早く二人でここから逃げなければならない。
左手を地面につき、立ち上がる。
その時、妙に右手が重い感じがした。
私は気にせずにササコに駆け寄ろうとしたが、動こうとすればするほど重力が強くなってしまう。
そこには、確かに真下に引っ張られるような強力な重力があった。
そして、それはいつしか体全体に広がっていって。
私はとうとう膝を折ってしまった。
こんなことをしている場合じゃないのに……!
突然の重力の発生源と思われる右手の辺りに目をやる。
そこには、別段変わったものは無かった。
あるのはさっきセルリアンに切り裂かれた服の袖だけだ。
首の皮一枚でなんとか繋がっている袖口だけ。
真っ赤に染まる袖口。それだけしかない。
あれ?
「なん…で……?」
本当ならそこにあるはずのものが、無いことに気づいてしまった。
なんで? いつから?
私の右手がどこにも見当たらない。
「あ……あ……」
まるでいつか見た悪夢のような出来事に、非現実感を覚える。
これが夢なら、このまま覚めるだけ。
夢じゃなかったら……?
ササコ……。ササコをたすけないといけない。
今すぐ立ち上がって、私がササコの手を引いて逃げるんだ。
これはきっと夢なんかじゃないから。
だから、早く立たないと。
もう一度左手を地面について、自立を試みる。
「ふっ……、ん、ぐぅぅ……!!」
でも、どれだけ頑張っても、力なんか入らない。
早く、まだ動けるうちに足を立てないと。
じゃないと、すぐに間に合わなくなる。
私は気づいてしまったから。
これは、酷い怪我。
下手したら今度こそ死んじゃうかもしれない。
それくらいの大怪我だ。
怪我にはその度合いに見合った、当然の痛みが伴うはず。
痛いのがどれだけ痛いのか、私は知っている。
これからだんだんと痛くなっていって、きっとすぐに動けなくなるだろう。
だからその前に……。
私がもう一度左手を地面に這わせた時、目に映ったものを見て、一気に血の気が引いた。
ああ……だめだ。
そこら一体に拡がった、赤色、紅色。
私の内側をひたすらに彩る、本物の赤。
その色はとめどなく拡がっていた。
一度引いてしまった血の気は、二度と戻ってはこないのだろう。
一気に冷めてしまった断面の熱が、次第に痛みを訴え始める。
私はこれ以上熱が逃げてしまわないように、左手で傷口の上あたりを押さえつけた。
でも、上手く力が入らない。
こうしているうちにも、痛みは強くなっていく。
泣きたいくらいに、強くなっていく。
呼吸も、段々と荒くなってくる。
そろそろ……このくらいで、止まったりしないかな……?
私のそんな諦め半分の期待は、すぐに裏切られた。
まだ、もっと痛くなる。
一回脈動する度に、断面に激痛が走り、無いはずの右手が疼いた。
身体中が痛い。
両目から冷たいものが零れ落ちた。
泣いたって、許してなんかくれない。
私はもうどうしようもなくなって、地面にうずくまってしまった。
これは、きっと痛みに耐える体勢。
少しでも早く体勢を立て直して、ササコを連れて逃げる。
そのための体勢なんだ。
そうやって、無力な自分に言い訳をする。
本当は怖かっただけなのに……。
他の誰かが傷つくのを見るのが怖かった。
他でもないササコが、目の前で二目と見れない姿になるのが怖かった。
大切な友達の最期を看取るのが嫌だった。
だから目を背けた。
私は本当に、私は……。
ふいに、声が聞こえた。
それは喉が捻れて裏返ったような、酷く耳障りな音だった。
呻くような声は、歪すぎて何を言っているのか全然分からない。
これが私のものなんだと気づいた時、それとは別の声が頭に響いてきた。
『立って 』
声は言った。一言、私に立てと。
優しい声で、無理難題を押し付けてくる。
こんなにたくさん血を流したら、もう立ち上がるどころじゃないなんてことは、私にだって分かる。
誰だか知らないけど、いい加減な事を言わないでほしい。
私は痛みを理由に、攻撃的な感情をぶつける。
声はそんなのお構い無しに続けた。
『顔を上げて、ちゃんと見て』
見るって、何?
私に何を見せようっていうの?
私はとうとう一人で会話を始めてしまった。
これも現実逃避の手段のひとつだったのかもしれない。
『ササコちゃん。……今も一人で、戦ってる』
ササコが……?
戦ってるって、無事なの……?
『今はね。でも、このままじゃ危ないの』
自分に嘘を吐いてまで逃避させるつもりなら、どうしてここで現実を見せようとするのかが分からない。
でも、だからといって、この声が本当のことを言っているということにもならない。なるはずがない。
だからこれは、きっと私の願望なんだと思う。
僅かに残された可能性に縋り、希望を見出そうとしている。
私はこんな状況に陥ってもまだ、諦めきれていないようだった。
『大丈夫だから、わたしを信じて』
信じるよ。あなたを信じる。
裏切られた時のことなんか絶対に考えたくないから。
私は歯を食いしばり、軋む首を持ち上げた。
目を開き焦点を合わせる。
「─────っ!」
揺らぐ視界の中で、一番に見えたものは、たった一人で強大な敵に立ち向かうフレンズの姿だった。
ササコはまだ生きてる……!
未だ五体満足な彼女の姿を認めた瞬間、私の脈は加速した。
より効率的に、全身に痛覚が伝達されていくのを感じる。
甚大な痛みと焦燥に駆られて、今すぐにでも擦り殺されてしまいそう。
そんな時、私の頭にまた声が響いた。
彼女は落ち着いた口調で問いかける。
『あの子を助けたいんでしょ?』
答えるまでもなかった。
ササコを無事にここから逃がせるのなら、この身がどうなったって構わない。
だけど、そのために自分に何が出来るのだろうか?
一人で立つことすらままならない、今の私に……。
『わたしはあなたを助けたい。だからそのために、あの子を助ける手伝いをするのよ』
次に響いたのは突拍子のない言葉。
声が何を言っているのか、よくわからなかった。
彼女が何者なのかも分からない。
それを私の一部分とするならば、きっと誰でもないのだろう。
ぼんやりと、私の中にいる何か。
それが『自分を犠牲にするようなことは絶対に許さないからね』と一言付け加えた時、私は何となくその正体がわかった気がした。
それは、本能だった。
極限まで追い詰められた主を守るために、外側まで這い出てきたのだ。
彼女が私の本能の一端を担うような存在であるのなら、自分の命を蔑ろにするようなことを許すはずがない。
でもそれなら、どうしてササコを助ける手伝いをしてくれるのだろう。
私みたいな臆病者の本能なんか、きっと自分本位に決まってるのに。
『あの子と一緒にいる時のあなたが好きだから』
本能(?)はそう言った。
どうやら思ったことは口に出さなくても(そもそも今は言葉を話せる余裕はない)伝わるらしい。
にもかかわらず、否定を一切しないところを見ると、彼女は本当に私の本能なのだろう。
『それでね、わたしにひとつ作戦があるの。あなたにはちょっと頑張ってもらうことになるけど、できる?』
本能が言う。
作戦とは、ササコを助けるための作戦だろうか。
自分の中の本能に『できるか?』とか訊かれるなんて、だいぶおかしい気がするけど、私はササコのためならなんだってするつもりだ。
『そっか…じゃあ話すわね。あなた、"わたしのナイフ"はまだ持ってるよね?』
……?
そんなものは持ってない。
自分の持っていたナイフは、とうの昔に何処かに落っことしてしまった。
『無いの…?! ええと、じゃあ……あそこに刺さってる看板でいいか。あれを引っこ抜いて、セルリアンの後ろにこっそり回るの』
看板……さっき転びかけた時に、そんな感じのものがちらっと見えた気がする。
あれのことだろうか。
『そう、それよ。それで、後ろに回ったら看板を叩きつけて、やつの頭をかち割るっ!』
あまりにシンプルな作戦。
看板で頭を……?
そんなこと、本当にできるの?
『ねえ……あいつの頭、けっこう脆そうじゃない? ヒビまで入っちゃって、まるでガラスみたいね』
確かに言われた通り、セルリアンの頭(?)には何本にも枝分かれした大きなヒビが入っている。
そんなこと、言われるまで全然気が付かなかった。
『どう? できそう?』
……できない。
さっきから何度も立ち上がろうとしてるけど、体が全然言うことを聞かない。
『まだ痛いの? それも、立てないくらいに』
痛、い……?
……ああ、そうだ、痛いんだ。身体中が痛くてたまらない。
だからずっと、私はこんなにも耳障りな声で唸っていたのか。
いつの間にか忘れてしまっていたみたい。
そして、忘れたままならなお良かった。
だけどもう遅い……。
『今から私の言う通りにして。そうすれば、少しは楽になるはずよ』
もう、思考をする余裕も無い。
呻き声で返事をする。
『よし! じゃあまず、声を抑えて。できる?』
首を横に振る。
『いいえ、やるのよ。それくらいできてもらわないと、……ササコちゃんを助けたいんでしょ?』
「グゥ……ぅ……」
『そう、その調子。……大丈夫? まだできるかしら』
今度は、縦に……
『いい子ね。次は、ゆっくり息を吸って、吐く。深く深呼吸をするの。ほら、吸って……吐く』
「ゔぅ……ッ……え゙ぇ……」
『辛いわよね……。けど頑張って、ほらもう一度、吸って……』
「ふッ……うぉえぇ…! ゲホッ!」
むせかえるような血の匂いに、吐きそうになりながらも呼吸を続ける。
促されるまま、一回、もう一回と繰り返す。
そうしている内に、最初は呻き混じりだった呼吸は段々と安定していった。
声だったものは熱になって蒸発していき……。
『どう? もう痛くないんじゃない?』
少し良くなったけど……でも、まだ痛い。
『ちょっと血を流しすぎたのかもね。今はもう止まっているけど……動けそう?』
本当に、本当に少しだけ全身の痛みが引いていた。
その差は微々たるものだったけど、今ではかろうじて思考ができる程度にまで落ち着いている。
これなら何とかなるかもしれない。
左の膝を立てる。続いて、右足も。
これだけではまだ足りない。
私は左の手のひらを、ちょうど足と足の真ん中辺りで地に付ける。
そこまでしたところで、今の自分の体勢がどこかおかしいことに気がついた。
これでは足に上手く力が入らない。
いつもはどのようにして立っていたのだろう。
意識すればするほど、正しい体勢がわからなくなる。
少し考えて、私は左足だけを崩すことにした。
そして、左手は足の間ではなく、左手やや前方に置く。
私は各部位が定位置に着いたことを確認し、足と腕に一斉に力を入れた!
視界が少し高くなり、その直後に急降下。
私は右足を前に出して、前に倒れ込みそうになるのを何とか踏みとどまった。
立てた……!
両の足がぷるぷると震えるけれど、私はなんとか自立することに成功した。
『生まれたてのフレンズって感じね……』
それまで黙って私の一挙一動を見守っていた本能が、突然口を挟んできた。
何やらよく分からない喩えをされたが、今はそんなことはどうでもいい。
私は看板が突き刺さっている方を見た。
ほんの数メートルが、とても遠く感じられた。
「くッ……!」
立っているだけで体のあちこちが軋む。痛い。
こんなにも足が重たいのに、体幹は安定せずに視界がふらつく。すごく気持ちが悪い。
戦う前から満身創痍だ。
それでも私はやらなくてはいけない。
人生における数え切れないほどの内の一歩を、今ここで成し遂げるのだ。
私は大岩のように重たい足を、その意思ひとつで持ち上げた。
下へ、強く引っ張られる。
それを一歩分前へ運び、落とす。すると、ガクンと。
耳には聞こえないけど、そんな音がした。
それと同時に全身から力が一気に抜けていく。
一度視界が大きくぶれて、そのまま地面に激突した。
『ちょっと、大丈夫!? どうしたの?!』
──お腹がすいた。
『お腹がって……こんな時に何言ってるの……?』
歩けない。立っていられない。
本当に、辛いの。
『……』
冗談とかじゃなくて、もう、本当に……
『そう……そうよね……』
何かを悟った気がした。
無意識に、心の奥深くに刻まれてしまった定型文を指でなぞっていた。
これでずっと、一緒に……。
「おねが…い、……ササコ……わたし、を──」
『待ってッ!!』
「──っ!」
本能が叫び、我に返った。
私は今、一体何を……。
『お腹がすいたんだよね?』
本能が私の思考を遮るように訊いてきた。
そんなこと、今更答えなきゃいけないの?
空腹のせいかまた攻撃的になってしまう。
『ササコちゃんを助けたいんだよね?』
更に問い続ける。
次から次へと何?
いちいち声に出さなきゃ分からないの? あなたは私の一部なのに。
これらは全部、自分に向けた言葉、自虐のつもりだった。
それなのに罪悪感を感じてしまうのはどうしてだろう。
『だったら──』
本能はそこで一度言葉を区切り、少しの沈黙の後、短く言った。
『それを食べて』
──え……?
「食べる、って……」
目の前に差し出されたそれは、とても見慣れたもので。
私は無意識のうちにそれを握りしめていた。
指を絡めて、手を繋いでいた。
自らの欠損した断片と。
「──ッ!」
そんな、どうして…… なに、これ……!?
私は左手を振り回した。
力いっぱいに、かつての自分自身を拒絶する。
だけど離れてくれない。
手に指に力が入ってしまって離れないのだ。
それを理解していながら、私にはどうすることも出来なかった。
固く結ばれた手は、必要以上にグロテスクに見えてしまったから。
怖い。気持ち悪い。
冷たい手の感触が、消えてくれない。
『……ごめんね』
諦めたような、悲しいような声だった。
その声を聴いた瞬間から、急速に肩の力が抜けて行った。
そして、繋がれていた手が、今再び解かれる。
冷たいものが指の間をするりと抜けると、そのまま地面に落ちて、ぴしゃんと音を立てた。
『そんなこと、……できるわけ、ないわよね……』
そう言ったきり本能は口を閉ざしてしまったけれど、まだ彼女の息づかいだけは聴こえているような気がした。
苦しそうなのに安らかな、聞いていると泣きたくなるような弱々しい息吹を、私は心で感じていた。
「…………」
なんだか彼女の"お願い"を聞いてあげなきゃいけないような気がして。
私はすっかり赤くなってしまったそれを、もう一度、今度は意識的に拾い上げていた。
やっとの思いで手放せたのにな……。
震える手を口元まで持っていくと、胸が締め付けられるような感じがした。
これを食べれば、ひとまず空腹はおさまるだろう。
でも、もしそれをしたとして、私はササコとこれまで通りに過ごすことが出来るのだろうか。
不安だった。
なにか大切なものを失ってしまうような気がして、食べるのを躊躇ってしまう。
私は、たった今も無謀な戦いに身を投じているフレンズを見上げた。
「……」
──ここで大切なあなたを失うくらいなら、私は……。
まだ迷いは消えない。
だけど独りになるのはやっぱり怖いから。
私は目を瞑り、息を飲み込んだ。
指先達が唇に触れる。
今からこれを、噛み砕くんだ……。
固い口を何とかこじ開けて、何れかの一本を押し込む。
口内に入ってきたそれに恐る恐る舌を這わせると、想像通りの血の味がした。
その味や異質な舌触りに一瞬吐き気を感じたが、何とか我慢する。
吐いてはだめ、食べなくてはいけないのだから。
「ゔぅ……」
私は一旦、指を口から引き抜いた。
悠長になんかしていられない。
だけど、これが自分の一部分だったものであるという認識を、どうにか改めないことには、噛み砕くこともままならない気がした。
それならと、すぐさま解決策を考え始める。
……もし、自分のがダメなら、別の誰かだったら。
例えばこれは、ササコの右手首。
そう思い込んでみるのはどうだろう。
『ねえ……』
私はササコのだったら、きっと拒むことなく受け入れられるから。
口に含んだら最後、歯に少しの抵抗も感じさせないまま、噛みちぎれて、そのまま舌の上で溶けていくだろう。
そうなれば咀嚼する手間も省ける。
『何を考えてるの……?』
しかし、一見合理的に思えなくもないこの案には、ひとつの問題点がある。
これら全てが妄想上のことであると前提したとして、その妄想の中では私がササコを食べているのだ。
脅しなんかじゃなく、本当に。
それは彼女を殺すということに他ならない。
死ねば形を完全に失うから。
誰かを食べようとするなら、その時とどめを刺すのは他でもない私ということになる。
…………
……だけどこれは、あくまで気持ちの問題。
別に、実際にするわけじゃない。
想像上の出来事なんて、夢の中で起きる事と大して変わらない。
だから大丈夫。
私は今からササコの血でこの手を汚すことになるけど、本当のササコは絶対に助けるから。
だからどうか許して欲しい。
私は一方的に捲し立てると、物言わぬ幻影を手にかけようとした。
その時だった。
『イシちゃん……』
「──……え?」
殺意を持った手が止まる。
不意に聞こえたそれは、どこか聞き覚えのある響きだった。
知ってるような、本当は知らないような、掠れていて思い出せない記憶の底。
あれ……? どうして……
だって私は、あなたが……あなた、に……。
大切だったはずなのに。
今だって、まだ大切に思ってるはずなのに、彼女のことが思い出せない。
あなたは……誰?
本当の名前すらも分からない。
私は、思っていたよりもずっとたくさんのことが思い出せなくなっていた。
不意に視界がぼやける。
泣いているのだろうか?
それももう分からない。
鼻がつんとする感じも、まつげに水滴が乗る感覚も、何も無い。
ただ、驚くほど頭が軽くて。
身体も、軽くて。
なんだか意識が朦朧としているなあ、と思った。
『わた……が……違ってたみたい……。やっ……り、あな……には……が重かった』
「な…に……?」
部分的には聴こえていたはずだ。
だけどもう、途切れた断片の声を繋げるだけの気力も残されていない。
『あとは、わたしにまかせてね』
遠のく意識の中で、唯一完成された文字列。
その言葉の意味を理解する間もなく、私は深い眠りに落ちた。
まだ続きます