突然、後ろから誰かに声をかけられた。
私はビクッと飛び上がり、恐る恐る振り返る。
今度は本能も止めなかった。
「……」
後ろに立っていた少女と半分だけ目が合う。
彼女は私の欠落したもうひとつのことなんて気にもとめず、もう一度同じ質問を繰り返した。
今度はさっきよりも強い口調だったけど、全然怖くない。
私はもう既にこれが夢だと気づいているし、そもそもそんな優しい顔で怒られても迫力なんて全くといっていいほど無い。
(これで何回目だろう。)
赤く汚れてしまった借り物の繭の中で、本来の持ち主に出会った。
何度か繰り返された出会い。
これは数回目の再邂逅。
『答えてください』
(─────え?)
先程とは違う険しい表情で私を問い詰める少女に違和感を覚える。
彼女とは夢の中で何度も会ってきた。
でもこんな風に厳しい表情を見せたことはこれまでに一度たりともなかった。
彼女はあくまで写しなのだ。
だからこの責めるような目も、やけに丁寧な口調も、私には違和感でしかない。
ずっとあの子とは別人だと割り切ってきた。
夢子とかいう安直な名で呼び、差別化を図っていた。
でもこんなにもはっきりとした差を持っているのは絶対に変だ。
これはどういうことだろうかと考え込んでいると、ふと脳裏にあるものがよぎった。
思い出したのは真新しい記憶。
新しい友達(?)のササコが私に見せた敵意に満ちたあの目だった。
そういえば、ササコの口調もこんな風に丁寧な感じだった気がする。
(所詮は夢、かぁ……)
姿だけこれまで通りなのは、私がまだササコのことをちゃんと記憶できてないということだろうか。
もしそうでないとしたら、それは間違いなく未練なのだろう。
いつまでも現実を受け入れられない子供な私が、夢に希望を見出そうとしている。
もし本当にそうだとすれば、それはまあ馬鹿みたいな話。
……でも、こんなふうに考えていられるのもきっと今だけだ。
いつかはこの声や目の輝きも変わってしまうのだろう。
そう思うとなんだか急に寂しくなった。
だけど、どれだけ感傷的になろうとしても結局は夢。
だからわずかな悲しみも生まれない。
寂しいどまりだ。
『聞こえてますよね』
「……」
このまま全てが順調に進んであの子の写しと二度と会えなくなった時、私はようやく役目を終えることが出来る。
そんな気がする。
(もう十分……。早く目を覚まさなきゃ─────)
私は今度こそと、目覚めるために意識を集中させた。
薄れゆく赤色。
徐々に体の感覚が失われていく。
今度はちゃんと起きられる。
そう思った時。
『あなたが殺したんですよね』
「…………」
夢子が腕を掴んできた。
このまま逃してはくれないようだ。
さて、どうしたものか……。
試しに少し微笑んで首を傾げてみる。
すると、『しらばっくれないでください』と余計に気分を害したようだった。
しらばっくれるなと言われても、なんのことだか分からない。
そのまま彼女と見つめあっていると、だんだんと不機嫌そうな表情になってくる。
その目が不機嫌を通り越してゴミを見るような目になった時、ようやく腕を離してくれた。
もう触れていたくないということだろう。
『本当に分からないんですか…?』
「……?」
『さっきからあなたが頑なに見ようとしない、彼女のことですよ』
そう言うと視線が少し横に逸れる。
それは私の肩を抜け、その先を見ていた。
私は首だけ動かして後ろを見た。
そこには小さな火溜りが落ちていた。
パチパチと耳障りな音を立てて揺らいでいる。
(えっと……ああ、あれのことか)
火は消したと思ったんだけど、なんでまだ燃えているのだろう。
そんなことを考えるのは馬鹿げているかもしれない。
『なんですか……その表情は───っ!』
ササコモドキがまた何か言っている。
今度はなんだろう。
私の目つきが悪いとか言い出すのだろうか。
……もし本当にそう言われたらどうしよう。
(うーん……別にどうするもなにもないか。)
ここで再び目つきの悪さを指摘されたところで、私が意外と気にしいだったということが発覚するだけだ。
でもまあさすがの私も夢にまで見る程根に持ってはいないはず……。
『────ああ、そうですよね。"そんな目じゃ"、ちゃんと見えないですよね』
そう言って何か一人で納得すると、急に押し倒してくる。
私の心臓は高鳴ったりはしなかった。
その代わりかどうかは分からないけど、火が燃える音がとても近くに感じた。
(───……というか、本当に目の事だったんだ。しかもそんな目って……)
反抗的な目と見つめ合うこと二、三秒くらい。
先に動いたのは夢子の方だった。
片手で私の首を掴むと馬乗りになる。
私に触れたくないのではなかったのか。
彼女の目を見るとなんだか冷めた感じ。
首でも締められるのかと思ったけど、そうではないようだ。
私はまた見つめ合うのかとため息をついた。
その直後だった。
「……っ!?」
私の穴に何かが触れた。
ベタつく液体が縁の部分に垂れている。
(気持ち悪い……)
そこに視線を向けて何をしているのか確認しようとするも、ちょうど視界の外で起きている事態を把握することは不可能だった。
今は首を掴まれていて頭を傾けることすら出来ないのだ。
こうなってしまったらもう為す術がない。
私は右だか左だかの眼の空洞に押し当てられた物体を受け入れるしか無かった。
「……っ」
何かはゆっくりと押し込まれた。
それは音もなくはまると、ズキズキとした痛みを訴え出す。
目が、開けられない……。
痛い。……何も見たくない。
目の奥の方から溢れてくる血か涙かを必死に押し止める。
これが今の私に出来る精一杯の抵抗だった。
それなのに。
『目を開けてください』
それはお願いなんて生易しいものじゃなかった。
これは脅迫だ。
今すぐに目を開けないと恐ろしい目に遭わす。
彼女はそう言っているのだ。
このまま彼女の要求を無視し続ければ、残りの四肢を食いちぎられたりするかもしれない。
でも私は屈しない。
どうせこれは夢なんだ。
夢の中なら何があってもとりあえず死ぬことは無い。
それなら肉体よりも精神を健全に保つことの方が大切だと言える。
だから私は何をされようと絶対にこの目は開かない。
そう固く決意する。
それは勇ましさなんて欠片ほどもない、臆病者の決意だったけど……。
『そうですか……。もう、しょうがない人ですね』
目を固くつむっていると、呆れたような声で誰かが囁いた。
それは優しい声のようにも聞こえて……。
私はその声に不思議と安心感を覚えた。
首に添えられていた手にはもう少しの力も込められてはいない。
それはするりと離れると、そのままどこかへと消えてしまった。
「………………」
それから少しの時間が経って、火が燃える音がすっかり聞こえなくなった頃、私は再び目を開いた。
不自然に広く感じる視界。
目の痛みはとうに消えていた。
頭痛の種である彼女の姿も、…一緒にどこかへと消えてしまった。
……これはきっと私にとって好都合なはず。
それなのに今は、広くなった視界に誰も居ないことがどうしようもないくらい不安で……。
独りでいることは、こんなにも怖いものだっただろうか。
(……起きよう。)
もう目覚めを邪魔する者はいない。
今度こそここから出られる。
一刻も早く起きて忘れるんだ。
(心残りは……ないことも無いけど。)
私は名前も知らない虫だったものを一瞥し─────。
「────っ…………」
私はそれを見て動きを止めた。
これはなんだろう。
たった今鮮明に目に焼き付いたはずのものが、上手く認識できない。
それは燃えていた。
ごうごうと音を立てて真っ赤に揺れている。
下から上へ、川みたいに流れている。
その流れの中で、白かったはずのものが、赤く燃えている。
"あなたが殺したんですよね"
頭の中に響くのはそんな言葉。
責め立てるような声で、反響する。
……うるさい。
『あなたが』
やめて。
『あなたが』
わかってるから、もう黙ってよ……。
「…………」
浅く息を吸うと肺の中が熱い空気で満たされた。
熱に浮かされた本能が、もう認めるしかないのだと私に告げる。
「………………。」
……全部思い出した。
私は責任から逃げるために、彼女に背を向けたんだ。
燃え盛る炎を見て見ぬふりした。
助けられたかもしれないのに何もしなかった。
挙句罪の記憶ごと熱源へと放り込む。
それだけの事をした。
なのに、どうして……?
記憶回路の八割近くを焼き切ってやったのに、どうして今さら思い出したんだ。
これでは知らないフリもできない。
(う……ああ……わたしは……ッ!)
水底のように冷たい心が燃え上がる。
細胞の一つ一つを焦がしながら叫ぶ。
どれだけ本能を欺いたとしても、私はきっとこの中に飛び込むことなんてできない。
だから叫ぶ。
千切れた舌のひどく歪な音で叫ぶ。
これが夢で、全部自分の頭の中での出来事だから大丈夫だってことは知ってる。
でも私は、刻一刻と面影を失って行く彼女を前にして冷静さを保つことなんてできなかった。
一瞬誰の名を呼ぶか迷った後。
「アメちゃん────ッ!」
「ちーがい!ますー! わたしは、はれですっ!」