私は今日も夢を見る。
いつものように、また、悪夢を見ている。
それを自覚しているのに、目を覚ますことが出来ない。
起きようと意識を集中させても、舌を噛み切ってみても、目の前の景色が変わることはなかった。
「……」
私は途方に暮れて辺りを見回した。
…………。
……仄暗くてよく見えないけど、ここが閉鎖空間ということだけはなんとなく分かる。
「…………」
真っ暗ではないということは、どこかから光が入り込んでいるのかもしれない。
私は光の源を探して見ることにした。
ぽふ
「……?」
一歩足を踏み出してみると、足が地面に沈みこんだ。
妙な感覚だった。
靴越しにふわふわとした感触が伝わってくる。
なんだろう、と思った。
こんな寝心地の良さそうな地面には心当たりがない。
それなのに、ここがどこなのかは今の一歩で理解出来てしまった。
ここは……繭の中なんだ。
誰かがヒトリで眠りにつく為の、特別な空間。
とても私がいていい場所なんかじゃない。
それなら一刻も早くここから出なければいけない……はず…?、。
なんだかぼんやりとした焦燥感を胸に、私はさらに歩を進めていく。
もふ、もふ……
もふもふもふもふ、
もふ…………もふ……
…………もふ。
私の足取りは足元から伝わるこの感触ほど軽くはなかった。
ただでさえ眠くて体が重いのに、一歩進む度に耐え難いほどに眠気が増幅されていくのだ。
もふもふに足を数もふcm沈めるだけで、意識が融けてしまいそうになる。
この眠たくて仕方ないのを何とかするべく、頬をつねってみる……。
が、あんまり痛くない。
こんなので眠気をどうこうしようなんて言うのは夢のまた夢だ。
仕方ないので、私は自分の舌を噛み切ることにした。
口を開けてめいっぱい舌を伸ばす。
目を瞑り、喉を鳴らす。
そうしてようやく覚悟が決まったら、一気に歯を食いしばる。
一気に!
「──ッ!………………?」
……痛みを感じない。
頬を指で摘んだ程度の痛みすらないのだ。
私は舌を思い切り噛めば、重く鋭い痛みがすぐにやって来るだろうと予想していた。
でも実際には違った。
重たいどころか私の舌はとても軽かった。
それも少しの質量も感じさせないほどに。
これはどういうことかと不思議に思った私は、客観的に自分を見て確認することにした。
私は妙になれた手つきで左の目玉を取り出す。
そして、少しべたつくそれを親指といずれかの指とでころがし、自分の方へと視線を合わせた。
私の左目に上下逆さまの自分が映る。
恐る恐る口を開けて中を覗き込む……。
────ない。
咄嗟にしまった、と思った。
さっき一度舌を噛んだ時に、勢い余って噛みちぎってしまったのを忘れていた。
これでは目を覚ませない。
「……」
(……とりあえず、眼は元の位置に戻しておこうかな……)
私は手に持っていたそれを右の窪みに押し込み、ぱちぱちと瞬きをした。
「……?」
なんだか視点が微妙に…右にズレている気がする。
私はそのズレを修正するべく、左目へと手を伸ばした。
………………。
しかし、指先が触れたものは、さっきまで私の手の中にあったものとは違った感触をしていた。
眼よりもずっと柔らかい何か。
私はそれを引っ張り出してみた。
(これは……石?)
所々角張ったそれは、……石のようだった。
それを理解した瞬間、
「……っ!」
空を切りながら薄闇に溶けて行く石ころ。
私は、何食わぬ顔で自分の体に紛れ込んでいたそいつにひどく腹が立った。
だから思い切り遠くへと投げ捨ててやったのだ。
「…………」
なんとも言えない、喪失感のようなものが私の心を満たしている。
そうだ、そういえば舌を無くしたんだった。
とても残念……。
噛み切るための舌をどこかへやってしまった。
(……あれ?)
そもそも、舌はどうして必要なんだっけ。
なんで無くなったら『残念』なんだろう。
別になくてもそんなに困らない気がする。
むしろ、味覚を感じなくて済むなら、無い方がいいに決まってる。
それなのに私は、そんなものにいつまでも執着している……。
どうしてだろう?
噛み切るための舌。
噛み切って、……痛みに身を縮こませるための────。
そうだ、思い出した。
今の私に必要なのは不味い味を感じさせる舌でも、つらい現実を映し出す目玉でもない。
目を覚ますための痛みが必要なんだ。
ここは夢だから。
私が大嫌いな痛みを許容しているのも、自らのおぞましい行動に目を瞑っているのも、全部、ここが夢の中であるからこそだ。
(これだけ理解できてれば、……十分だよ。)
右腕を顔の前まで持ってくる。
そして、彼女が逃げられないように、残されたもう一本の手で拘束した。
これでもう逃げられない。
肘の内側辺りに歯を突き立てると、そのまま右腕を力任せに引きちぎった。
断面に耐え難い痛みを感じる。
……いや、実際には耐えられる程度の痛みしか感じてはいないのだろう。
まともに思考できているのがその証拠だ。
この程度、私があの子に与えたものには遠く及ばない……。
私はいつの間にか手段が目的に成り代わっているのに気づいた。
元々は眠気に耐えるための行いだったはずだ。
なら、本来の目的は達成出来ただろうか?
その答えは考えずとも分かる。
痛みによる意識の鮮明化はあまり効果が無かった。
でも、私は間違いなく目的を果たせたのだと実感している。
今は血の気が引いて、眠いどころではない。
取り返しのつかない事をしてしまったと青ざめているのだ。
断面から溢れ出す血なまぐさい液体は、繭の色を真っ赤に染め上げてしまった。
最初のうちは私の足元だけに留まっていた色は、今では全体に広がってしまっている。
もう取り返しがつかない。
「っ!?、っ?!っ──……………?」
半ばパニック状態になりながら、何とか流れる血を止めようとする中で、ふと、私は不思議なことに気づいた。
あんなに暗かったのに、血の赤色だけはやけにはっきりと目に映るのだ。
私は少し考えて、そして理解した。
この身体に流れる液体、私の血液は発光していたのだ。
なるほど、道理で気分が落ち込むはずだ。
私は悪態をつきたくなるのをぐっとこらえた。
血が光るからと言って、悪いことばかりではないはずだ。
目がチカチカして安眠出来ないかもしれない。
偶然誰かに見られて不気味がられるかもしれない。
でも、今はどうだろう。
ここには私しかいないし、ここでぐっすり眠るつもりもない。
それに、ほら─────。
俯いた視線を遠くへと向ける。
さっきまでは暗くてほとんど何も見えなかったのに、今では空間全体が赤く照らし出されていて、遠くまで見渡せた。
思いの外広かった繭の内側には、目印になるものが何も無く、ひどく殺風景だ。
何も見えなかったのはそういう事か、と納得する。
(えっと、出口は…………あそこかな?)
周囲を注意深く見渡していると、遠くの方に一際強い光を見つけた。
しかし、そこは私が向かっていたのとは逆方向だった。
…………。
数歩分の徒労で済んだだけ良かったのかもしれない。
もし、あと五、六歩くらい離れてしまっていたら、もう光は永遠に見えなくなっていたかもしれないのだから。
(よし────っ!)
私は気を取り直して、光ある方へと足を向けた。
もふ、もふ、もす、ぽふ
ぱふ、ばす、がす、ばち
めき、めき、ぼき、ぶち
がつ、ざく、ざく、ぴしゃん
地面に足を埋める度、不気味な音が辺りに木霊する。
そのどれもが不吉で、痛みや別れを想起させるものばかりだ。
でも、不思議と恐怖を感じることはなかった。
きっと、自分でもわかっていたんだと思う。
私にとっての痛みと別れは、これから始まるのだと……。
私は躊躇しつつも前へと進む。
背後には小さな気配がひとつ、いつの間にか着いてきていた。
振り返ってはいけない、歩みを止めてはいけない。
この身には不釣り合いなほど優秀すぎた本能が告げる。
それならと、私は前へ前へと進んだ。
つき動かされるように。
本能は決して裏切らないから。
彼女はいつだって、私がより苦しむ選択を導き出す。
だから盲目的にでも信じられるのだ。
…………………………。
そうして歩いていると、次第に、正体不明の不快音が聞こえなくなってくる。
その代わりなのだろうか。
今、ようやく静かになったはずの頭の中で、パチパチという音が鳴っている。
燻るように、小さな音で。
不安に思いつつも立ち止まることは出来ない。
なにかに取りつかれたように足を前へと、前へと。
近づけば近づくほど視界が鮮明になっていく。
……音の正体と光の正体。
その両方が、残された片方だけの目に痛く鮮明に焼き付いた時、私はようやく足を止めることが出来た。
さすがにこれだけ近づけばこれが何かはわかる。
周囲を照らしていたもの。
それは火だった。
直径十センチほどの、炎にも満たない小さな灯り。
私はその小さな灯りに誘い出されたのだ。
(なんだ、出口じゃなかったんだ。)
その場でしゃがみこんでぼんやりと火を眺める。
手をかざすとほんのりと熱を感じた。
(あったかいな……)
無駄足だったのかもしれない。
でもこうしていると、悪態のひとつをつきたくなる感情がみるみるうちに溶けていく。
とっても、心が安らぐ……。
バサバサっ。
ふと、火の中に何かが飛び込んだ。
なんだろう。
不思議に思いまじまじと見つめていると、何かは動いた。
もしかすると、火のゆらめきと見間違えたのかもしれない。
私は目を擦り、もう一度それを見た。
「────っ…………」
見間違いなんかじゃなかった。
小さな火の海にのまれて苦しんでいる。……私と同じような、小さな虫けらが。
きっともう助からない……。
とても小さな炎だった。
それでも、彼女が死んでしまうには十分なのだろう。
灰に成りゆく命を前に、私にできることは何も無かった。
火中のムシが脚やハネを必死に動かす姿をただ見つめる。
パチッ
小さな破裂音と共に、黒焦げのお腹が爆ぜた。
それでもまだ動いている。
六本の足が、ピクリ、ぴくりと。
そのさまをぼーっと見届けていると、先程の眠気がまた込み上げてくる。
ふわーっとあくびをして目を細める。
目をこすり、もう一度火の中を見た。
ぴくり……。
もう少しだけもがいたあと、やがてそれは動かなくなった。
私は何故か手に持っていたコップの水を、未だ燻っている亡骸にぶちまける。
(可哀想に……。自分から火に飛び込むなんて。
きっと本能には抗えなかったんだね。)
そんなことを思った。
『何をしているんですか』
「───ッ!」
だんだんと怪文書じみてきたので、一度ちゃんと文章の作り方を勉強するべきかもしれない
突然、後ろから誰かに声をかけられた。
私はビクッと飛び上がり、恐る恐る振り返る。
今度は本能も止めなかった。
「……」
後ろに立っていた少女と半分だけ目が合う。
彼女は私の欠落したもうひとつのことなんて気にもとめず、もう一度同じ質問を繰り返した。
今度はさっきよりも強い口調だったけど、全然怖くない。
私はもう既にこれが夢だと気づいているし、そもそもそんな優しい顔で怒られても迫力なんて全くといっていいほど無い。
(これで何回目だろう。)
赤く汚れてしまった借り物の繭の中で、本来の持ち主に出会った。
何度か繰り返された出会い。
これは数回目の再邂逅。
『答えてください』
(─────え?)
先程とは違う険しい表情で私を問い詰める少女に違和感を覚える。
彼女とは夢の中で何度も会ってきた。
でもこんな風に厳しい表情を見せたことはこれまでに一度たりともなかった。
彼女はあくまで写しなのだ。
だからこの責めるような目も、やけに丁寧な口調も、私には違和感でしかない。
ずっとあの子とは別人だと割り切ってきた。
夢子とかいう安直な名で呼び、差別化を図っていた。
でもこんなにもはっきりとした差を持っているのは絶対に変だ。
これはどういうことだろうかと考え込んでいると、ふと脳裏にあるものがよぎった。
思い出したのは真新しい記憶。
新しい友達(?)のササコが私に見せた敵意に満ちたあの目だった。
そういえば、ササコの口調もこんな風に丁寧な感じだった気がする。
(所詮は夢、かぁ……)
姿だけこれまで通りなのは、私がまだササコのことをちゃんと記憶できてないということだろうか。
もしそうでないとしたら、それは間違いなく未練なのだろう。
いつまでも現実を受け入れられない子供な私が、夢に希望を見出そうとしている。
もし本当にそうだとすれば、それはまあ馬鹿みたいな話。
……でも、こんなふうに考えていられるのもきっと今だけだ。
いつかはこの声や目の輝きも変わってしまうのだろう。
そう思うとなんだか急に寂しくなった。
だけど、どれだけ感傷的になろうとしても結局は夢。
だからわずかな悲しみも生まれない。
寂しいどまりだ。
『聞こえてますよね』
「……」
このまま全てが順調に進んであの子の写しと二度と会えなくなった時、私はようやく役目を終えることが出来る。
そんな気がする。
(もう十分……。早く目を覚まさなきゃ─────)
私は今度こそと、目覚めるために意識を集中させた。
薄れゆく赤色。
徐々に体の感覚が失われていく。
今度はちゃんと起きられる。
そう思った時。
『あなたが殺したんですよね』
「…………」
夢子が腕を掴んできた。
このまま逃してはくれないようだ。
さて、どうしたものか……。
試しに少し微笑んで首を傾げてみる。
すると、『しらばっくれないでください』と余計に気分を害したようだった。
しらばっくれるなと言われても、なんのことだか分からない。
そのまま彼女と見つめあっていると、だんだんと不機嫌そうな表情になってくる。
その目が不機嫌を通り越してゴミを見るような目になった時、ようやく腕を離してくれた。
もう触れていたくないということだろう。
『本当に分からないんですか…?』
「……?」
『さっきからあなたが頑なに見ようとしない、彼女のことですよ』
そう言うと視線が少し横に逸れる。
それは私の肩を抜け、その先を見ていた。
私は首だけ動かして後ろを見た。
そこには小さな火溜りが落ちていた。
パチパチと耳障りな音を立てて揺らいでいる。
(えっと……ああ、あれのことか)
火は消したと思ったんだけど、なんでまだ燃えているのだろう。
そんなことを考えるのは馬鹿げているかもしれない。
『なんですか……その表情は───っ!』
ササコモドキがまた何か言っている。
今度はなんだろう。
私の目つきが悪いとか言い出すのだろうか。
……もし本当にそう言われたらどうしよう。
(うーん……別にどうするもなにもないか。)
ここで再び目つきの悪さを指摘されたところで、私が意外と気にしいだったということが発覚するだけだ。
でもまあさすがの私も夢にまで見る程根に持ってはいないはず……。
『────ああ、そうですよね。"そんな目じゃ"、ちゃんと見えないですよね』
そう言って何か一人で納得すると、急に押し倒してくる。
私の心臓は高鳴ったりはしなかった。
その代わりかどうかは分からないけど、火が燃える音がとても近くに感じた。
(───……というか、本当に目の事だったんだ。しかもそんな目って……)
反抗的な目と見つめ合うこと二、三秒くらい。
先に動いたのは夢子の方だった。
片手で私の首を掴むと馬乗りになる。
私に触れたくないのではなかったのか。
彼女の目を見るとなんだか冷めた感じ。
首でも締められるのかと思ったけど、そうではないようだ。
私はまた見つめ合うのかとため息をついた。
その直後だった。
「……っ!?」
私の穴に何かが触れた。
ベタつく液体が縁の部分に垂れている。
(気持ち悪い……)
そこに視線を向けて何をしているのか確認しようとするも、ちょうど視界の外で起きている事態を把握することは不可能だった。
今は首を掴まれていて頭を傾けることすら出来ないのだ。
こうなってしまったらもう為す術がない。
私は右だか左だかの眼の空洞に押し当てられた物体を受け入れるしか無かった。
「……っ」
何かはゆっくりと押し込まれた。
それは音もなくはまると、ズキズキとした痛みを訴え出す。
目が、開けられない……。
痛い。……何も見たくない。
目の奥の方から溢れてくる血か涙かを必死に押し止める。
これが今の私に出来る精一杯の抵抗だった。
それなのに。
『目を開けてください』
それはお願いなんて生易しいものじゃなかった。
これは脅迫だ。
今すぐに目を開けないと恐ろしい目に遭わす。
彼女はそう言っているのだ。
このまま彼女の要求を無視し続ければ、残りの四肢を食いちぎられたりするかもしれない。
でも私は屈しない。
どうせこれは夢なんだ。
夢の中なら何があってもとりあえず死ぬことは無い。
それなら肉体よりも精神を健全に保つことの方が大切だと言える。
だから私は何をされようと絶対にこの目は開かない。
そう固く決意する。
それは勇ましさなんて欠片ほどもない、臆病者の決意だったけど……。
『そうですか……。もう、しょうがない人ですね』
目を固くつむっていると、呆れたような声で誰かが囁いた。
それは優しい声のようにも聞こえて……。
私はその声に不思議と安心感を覚えた。
首に添えられていた手にはもう少しの力も込められてはいない。
それはするりと離れると、そのままどこかへと消えてしまった。
「………………」
それから少しの時間が経って、火が燃える音がすっかり聞こえなくなった頃、私は再び目を開いた。
不自然に広く感じる視界。
目の痛みはとうに消えていた。
頭痛の種である彼女の姿も、…一緒にどこかへと消えてしまった。
……これはきっと私にとって好都合なはず。
それなのに今は、広くなった視界に誰も居ないことがどうしようもないくらい不安で……。
独りでいることは、こんなにも怖いものだっただろうか。
(……起きよう。)
もう目覚めを邪魔する者はいない。
今度こそここから出られる。
一刻も早く起きて忘れるんだ。
(心残りは……ないことも無いけど。)
私は名前も知らない虫だったものを一瞥し─────。
「────っ…………」
私はそれを見て動きを止めた。
これはなんだろう。
たった今鮮明に目に焼き付いたはずのものが、上手く認識できない。
それは燃えていた。
ごうごうと音を立てて真っ赤に揺れている。
下から上へ、川みたいに流れている。
その流れの中で、白かったはずのものが、赤く燃えている。
"あなたが殺したんですよね"
頭の中に響くのはそんな言葉。
責め立てるような声で、反響する。
……うるさい。
『あなたが』
やめて。
『あなたが』
わかってるから、もう黙ってよ……。
「…………」
浅く息を吸うと肺の中が熱い空気で満たされた。
熱に浮かされた本能が、もう認めるしかないのだと私に告げる。
「………………。」
……全部思い出した。
私は責任から逃げるために、彼女に背を向けたんだ。
燃え盛る炎を見て見ぬふりした。
助けられたかもしれないのに何もしなかった。
挙句罪の記憶ごと熱源へと放り込む。
それだけの事をした。
なのに、どうして……?
記憶回路の八割近くを焼き切ってやったのに、どうして今さら思い出したんだ。
これでは知らないフリもできない。
(う……ああ……わたしは……ッ!)
水底のように冷たい心が燃え上がる。
細胞の一つ一つを焦がしながら叫ぶ。
どれだけ本能を欺いたとしても、私はきっとこの中に飛び込むことなんてできない。
だから叫ぶ。
千切れた舌のひどく歪な音で叫ぶ。
これが夢で、全部自分の頭の中での出来事だから大丈夫だってことは知ってる。
でも私は、刻一刻と面影を失って行く彼女を前にして冷静さを保つことなんてできなかった。
一瞬誰の名を呼ぶか迷った後。
「アメちゃん────ッ!」
「ちーがい!ますー! わたしは、はれですっ!」
夢の中での記憶や認識の多くは出鱈目なものなので、あまり気にしても仕方ないです