あらかたの事態を想定し終えたことを確認する。
あんまり悠長にしすぎて時間切れになったりしては困るので、こちらから仕掛けることにした。
「ねぇ」
少しだけ声を低くして圧力をかける。
すると、少しの時間がたった後、ようやく声が聞こえた。
「…………だ」
「……? いま、なんて……」
上手く聞き取れなかった。
せっかく何かを伝えようとしてくれたのに聞き逃してしまった。
これは全部、雨のせい。
雑音をならし続けて、意思の疎通さえ図らせない。
私は再三嫌い続けてきた自然現象を今一度呪った。
「…………」
彼女が声を発してから、この場の空気はかわりつつある。
私はその変化に気づいた。
最初はただ怯えるだけの少女だったが、自分が置かれている状況の理不尽さに気づいたのだろうか。
その目からは段々と怯えが薄れていって、明確な敵意が宿り始めている。
その視線は自らの生命を害する敵に向けられるものになっていた。
……それでいいんだよ。
その手で私を─────
瞬間、突然強い風が吹いた。
私の右手が無意識に動き、髪を抑える動作をした。
これは本来髪が乱れるのを防ぐための動きのはずだけど、頭からつま先までの全てが水浸しの私には不必要な動作だ。
不必要な、…無駄な行いのはずだった。
だけど、なんの意味も持たないかと思われたその行為は、本来の目的とは別の意味で作用した。
それは私が大きな隙を見せたこと。
髪を抑える私の視界は暗く閉ざされていて、それは私が目をつぶっているからだ。
私は気づく。
今の自分が如何に隙だらけかを。
目は見えていないから、今目の前にいるはずのこの子が攻撃をしてきたら避けられない。
彼女に殺意や害意があったとして、私はそれをこの身体で受けるしかないし、両手がふさがっているので反撃できない。
右手は髪を、左の手はスカートを押さえるのに忙しいのだ。
…………。
やるなら今しかないよ。
なにかするなら今のうち。
あなたの命懸けの奇襲はきっと成功する。
別に逃げてもいいけど、もし追いつかれてしまったら……。
ここで仕留めておかないと、あとが怖いよ?
……そんなことを頭の中でひっそりとつぶやく。
そそのかすように、寄り添うように、…声なき想いを滴らせる。
風はまだ止んではいない。
─────バシャッ
その時、一際大きな水音と共に小さな気配が動いた。
私は頬を弛めた。
次の瞬間───
ぽすっ
……ぎゅー。
……?
何が起きたかわからなかった。
水音が合図をしてまもなく、胸の辺りに衝撃を受けた。
私は、これから友達になろうとしている少女のことを思い描いた。
すごく気が弱そうに見えたけど、本当はやればできる子なんだ。…そんな風なことを思った。
そして、直に襲ってくるであろう痛みに備えて、私は固く目を瞑った。
それなのに、いつまで経っても痛みを感じなくて。
死刑宣告を待っているような気分で、永遠にも感じられる時間の終わりを今か今かとびくつきながら、ただ待っていた。
…だけど、そんな心臓に悪い時間が永遠に続くことはなかった。
やがて私は気づく。
痛みの伝達遅れにしては長すぎる時間にようやく違和感を覚えたのだ。
私はゆっくりと目を開けた。
「…………?」
本当に、何がなんだかわからない。
私のことを心から恐れ、敵意の宿った眼差しを向けてきた少女が、私の胸に顔をうずめていた。
分からない。
彼女がどうしてそんなことをするのか、全然分からない。
髪とスカートを押さえていたはずの自分の両手が、いつの間にか少女の身体を捕まえるように抱きとめていた。
なんでそんなことをしたのか、自分のことも分からない。
……でも、なんだろう…。
不思議と心が満たされるような幸福感を感じる。
……もう、何も分からなくたっていい。
今はただ、このまま……。
私は少女の頭を撫でようとした。
今度は無意識じゃなくて、自分の意思で、そうしたいなって思った。
左手をそっと持ち上げる。
そして、彼女の真っ白な髪に触れようとした時、その手が止まった。
同時に、呼吸も止まる。
段々、と動悸が、激しくなる。
焦点の定まらない目が、真っ赤に濡れた私の左手を見ていた。
そんな……もう…ダメなの…?
せっかく、せっかく仲良くなれそうだったのに。
仲良く……そうだ、私たち、もう、打ち解けたんだ。
私は目を閉じ、見たくないもの全てを視界の外へ追い出した。
そしてもう一度、大好きな友達を抱きしめた。
今度は二度と離さないように、強く。
辛いのを全部忘れてしまえるくらいに強く。
このまま絞め殺してしまうくらいにもっと強く。
もっと、もっと……。
……?
……気づくと私は、誰も抱きしめてなんかなかった。
私はあの優しい体温を、また見失ってしまった。
どこに行ったの?
私は暗闇に手を伸ばした。
何にも当たらない。
……目なんて開けたくない。
でも、このまま会えなくなるのはもっと嫌。
私は目を開けた。
すると、そこにあの子はいた。
変わってしまった世界で、変わらずここにいてくれた。
ゆっくりと、彼女の頬へと手を伸ばす。
もう少し……もう少しで届く。
……もう少しだったのに。
少女は私の両手をすり抜け、背を向けてしまった。
「なん…で…?」
かすれる声で問いかけた。
でも、とどかない。
聞こえてすらいないみたい。
一瞬視界が揺らいだかと思ったら、あの子の背中が少しだけ遠くなった。
彼女が駆け出す。
段々と遠のく。
遠く、離れていってしまう。
其の後ろ姿を、脈打つ視界で、ぼんやりと、眺める。
………。
「待って!!」
咄嗟に私は叫んでいた。
少女が足を止める。
今度はちゃんと届いたみたい。
私は彼女の背中に歩み寄る。
一歩を踏み出すごとに粘っこい音が足に絡みつき、血なまぐさい匂いが全身を包み込んだ。
彼女の背後に立つ。
そして私はもう一度、彼女を抱き締め───
「私から逃げようとしたのね?」
え……?
そいつは言っていた。
意識的に、私の無意識を介して、世迷言を私の友達に吹き込む。
何を言っているの…?
そんなわけない。
私とこの子は友達なのに。
逃げるなんておかしい。
「そんな、こと……」
ほら、彼女も違うと言っている。
そんなことを言い出した私がどうかしてるんだ。
……あれ?
私はどうかして……?
………………………………
……そうだ。
私は頭がおかしくなっているんだ。
だから変な勘違いを起こすんだ。
私はこの子と友達なんかじゃなかった。
少なくとも、今は違う。
だったら……だから、今喋っているのが、本当の私なんだ。
じゃあ私は誰なの?……頭が痛い。
早く、虹草を食べないと…。
「いいわよ」
「……え?」
「逃げてもいいわよ」
私の意志とは無関係に、話が進んでいく。
でも、……これでいいんだ。
事実をちゃんと受け止めている、比較的まともな方の私がきっとうまくやってくれる。
だから、私は何もしなくていい。
「でもその前に、私の遊びに付き合ってもらうけどね」
私は少女の正面に回り込みながら言った。
「……遊び……?」
「鬼ごっこって知ってる? 誰かが鬼とかいうのになって、他のひとが逃げるの」
「……」
「あなたが私から逃げ切れたら、そのまま見逃してあげる」
「…に、……逃げきれなかったら……」
「そうね……じゃあ、こういうのはどうかしら? あなたが鬼に捕まったら……足を一本、もがれるの。あなたが二度と逃げられないように…ね」
「そんなのって……」
そんなのってない。
ここまで黙って聞いていた私だったけど、さすがにこれはやりすぎだと思う。
はっきり言って、彼女は異常だ。
この子が自分に怯えていることを知っていながら、こんな暴力的な言葉で脅すなんて……。
「嫌ならしなくてもいいのよ? 私はあなたとずーっと一緒にいられれば、それで満足なんだから」
彼女はそう言って楽しそうに笑う。
私には理解ができない。
目に見える事実すらねじ曲げてしまった私には、彼女の歪で不健全な、正常であるはずの心がまるで解らない。
「わかりました。……その条件で構いません」
「ぅ……じゃあ、私が…今から十秒数えるから、その間に逃げてね」
私は、この子がそんな遊びには付き合えないと言ってくれることを期待していた。
どうやらそれは頭のおかしな遊びを提案した私も同じだったらしく、彼女が動揺しているのが分かる。
だったら最初から言わなければいいと思ったが、彼女なりの考えがあったのだろう。
……異常な思考回路を持った正常な私と、少しだけ分かり合えた気がする。
でも、もう直ぐにお別れをしなくてはならない。
私は十秒を数えて遊び相手を逃がしたあと、虹草を食べて正常になる。
この先の不安はあるけど、いつまでもこのままではいられない。
私は少女が走り出すのをのを確認してから十秒を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん……」
ゆっくりと数える。
「しー……」
もういいか。
あの子の後ろ姿はもう見えない。
私は足元に視線を向けた。
そこには辺り一面に生い茂る草があった。
その一本一本が絶え間なく変色し続けている。
まるで生きているみたい。
それはとてもおぞましく見えた。
気味が悪くて、目にも悪い光景。
それをぼんやりと眺める。
…………。
私が虹草に手を伸ばすのを躊躇っていると、周囲の草の輝きが段々と薄れ始めてくる。
そして、輝きが弱いものから順に、赤色に飲み込まれていく。
このままでは、虹草と普通の草の区別もつかなくなってしまう。
私は慌てて手を伸ばした。
「痛っ」
突然、指先に鋭い痛みを感じて手を引っ込めた。
引っ込めた手のひらに目を落とす。
真っ赤に濡れる手のひらには、一際赤い一本の跡が出来ていた。
それを辿り、指の先へと。
先ほど痛みを感じた部分には、小さな切り傷があった。
どうやら、手を伸ばした先でなにか鋭いものに触れたみたいだ。
私は草をかき分け、それを拾い上げた。
まじまじと見る。
ひらべったくて、先端が尖っている。
そして、尖っていない方、もう片方の端は手で持ちやすい形をしている。
私はこの形状に心当たりがある。
これは……ナイフ?
ナイフ。
それは私たちが生まれながらにして持っている武器。
フレンズがセルリアンに立ち向かうための、唯一の力。
ムカデなんかはナイフがなくても強いらしいけど、そんなのは彼女くらいのものだと思う。
特別な力を持たない私たちは、この武器に頼るしかない。
かくいう私も持っていたのだが、以前セルリアンから逃げる際にうっかり落としてしまっている。
それなら、今こうしてナイフを拾うことができたのは幸運と言えなくもない。
でも、今拾ったこれは酷く錆び付いていてあまり使い物になりそうにないし、そもそも私が落としたものでもない。
だから勝手に持っていくのは悪いように思う。
私はこの錆びついたナイフを元の場所に戻しておくことにした。
ちょっと名残惜しいけど、……でもまあ別に武器があってもなくても、あんな恐ろしい相手に立ち向かうなんてこと、臆病者の私にはできっこないし……。
………………。
さっきから、私は何をしているのだろう。
今はこんなことをしている場合じゃないのは、私だってわかっているはずだ。
……でもどうしてだろう。
私はこのナイフから、目が離せずにいる。
いつまでも、ナイフの先端の方をじっと見つめているのだ。
こうしているとなんだか頭がざわついて、…何かを思い出しそうになる。
「うみ……」
私が小さく呟いた。
知らない文字列。…聞きなれない響き。
それなのに、どこか懐かしさを感じてしまう。
愛おしくもおぞましい響き。
このたったの2文字が頭の中で反響し、何度も何度も繰り返される。
脳を貫き、頭蓋にぶつかる度に分裂し、2文字は4文字、4文字は8文字となり頭の中を駆け巡った。
やがて、増えすぎた文字がぐちゃぐちゃになってしまう。
私はこれらを頭の中から締め出そうと足掻いた。
そうして外に引きずり出されたのは、全く別のものだった。
無機質な声が頭の中で重く響く。
『 もしオマエが……其の、紛い物の手を汚すことを躊躇うのなら……ここに、海に連れて来るがいい 』
「そうすれば、…あとは、ワタシが……」
どこで誰から聞かされたかも分からない、他人事のような言葉。
感情のない声で、私じゃない誰かに向かって言っている。
…………。
私が聞き取れたのはここまで。
他にも、数多の言葉が色んな声音で話されたけど、何重にも重なって声と呼べないくらいに濁ってしまっていて理解ができない。
その音の集合体は今もなお増大を続けている。
頭がどうにかなりそう。
既にどうにかはなっているとか、そんな声すら今は聞きたくない。
「うぅ……」
あまりの爆音と頭痛に耐えきれず、私はその場に倒れ込んでしまった。
手に持っていた殺害のための道具が投げ出される。
『──から……もう─────』
────音が止んだ。
「……え…?」
突然、頭の中で鳴っていた音がピタッと止まった。
私はその音が止む直前に偶然聞こえた声を、言葉を認識して青ざめる。
『ここは危ないから、もう近づいちゃダメよ 』
言葉の意味を理解した瞬間、血の気が全て引いた。
こんなのは、なんてことのない、ただの雑音の内の一つに過ぎない。
でも、私には理解ができてしまった。
……彼女は忠告をした。
断崖に立って。
ここには海があるから、危ないと言った。
海は、とても危険な場所。
その危険な海へと向かう道には、私の知っている景色が含まれていて……。
「……」
起き上がり、前を見据える。
記憶の映像と自分の視界が重なる。
色は違えどとてもよく似ている。
森の中なんてどこも同じ景色だから、気にする事はないはず。
でも、私の直感がそうだと言っている。
この道こそがあの海沿いの崖へと続く道なのだと。
出処不明の記憶と、頭のおかしな私の直感、その両方を信じるというのなら……。
「この先には、……っ!」
私は今すぐにあの子を追わなくてはいけない。
何かの勘違いならそれでいい。
頭のおかしな私が見たただの妄想でもいい。
考えたって真偽なんて分からないのだから。
最悪な事態を想定している暇があるのなら、最善の努力を真っ先にするべきだ。
私が今できる最善は走ること。
誰よりも早く走って、あの子に追いつかなくちゃいけない。
足に力を入れて立ち上がる。
その時、視界が大きく脈打った。
立ちくらみとは違った感覚。
世界が逆さまになってしまったかのような違和感が全身を駆け巡る。
……急がなくちゃいけない。
真っ赤な恐怖が私たちを満たしてしまう前に、あの子を捕まえないと。
切り詰めたようなこの切迫感は、私と彼女の間で隔てられることはなかった。
共通の目的意識を持った二人の心が一致する。
一人は大切な友達を救うために。
もう一人は、未来の友達を守るために駆け出す。
赤白い空の下、乖離しかけていた意識が、今ひとつになった。
「絶対に追いつく…!」