雨音がうるさい。
声を持たない彼女は、私の決めつけからの態度や言動を否定も肯定もしない。
なのに、私の存在は否定する。
絶え間なく視界を横切るその一粒毎が、まるで意志を持ったかのように私の頭上に降り注ぐ。
私は、それらが頬を伝う度に、自分が泣いているような錯覚を覚える。
本来私が流すはずだった涙に取って代わられてしまったような気さえする。
『私が代わりに泣いてあげる。
あなたの悲しみを代わってあげるから、それ以外も全部、私にちょうだい』
そんな風に言われている気がする。
私はその声なき思いを聞く度に思うのだ。
雨粒にだってできることなんだな
、と。
なんなら、私よりも上手くできるのかもしれない。
泣いたり、笑ったり……
友達を作ったり。
それはとてもとても素敵なことだ。
彼女と代わった自分を想像すると、なんだか幸せな気持ちになる。
ずっとなりたかったものにようやくなれたような、そんな幸福感を感じられる。
……だけどそれと同時に、酷く虚しい気持ちにもなるんだ。
劣等感……なのかな。
私の涙は無数の雨粒、そのひとつにも及ばない。
私のことを鬱陶しく思う人がいても、誰かを助けてやることなんてできない。
そんな事実を突きつけるように重くのしかかる。
降って、降って、降られて。
そうして──
歪に育った私の心を、平坦になるまで解かしきってしまう。
…………。
偶然、花を見つけたとする。
草に見えなくもない、小さな花だ。
私はその花がとても気に入って、何度も何度も見に行った。
それはもう毎日のように通いつめた。
……でも、ある日突然、大雨が降るんだ。
私はその日雨宿りをする。
そうなると、当然花は見に行けない。
翌朝、私が目覚めて直ぐに花を見にいくと……それは死んでいた。
周りの草ごと枯れてしまっていた。
根腐れしたんだ。
どうしようもないことだった。
……悲しくはある。
でも、涙は流れない。
そこでようやく、私は足元のそれがただの花だと知る。
取るに足らない、数あるうちの一つなんだって。
放っておけばいつかまた生えてくる。
だから悲しむほどの事じゃない。
……私は、ただの花を忘れられずにいた。
それからも、毎日のように雨は降る。
大雨じゃない、普通の雨。
ある日、新しく花を見つけた。
やさしい色をした、これもまた小さな花。
私はもう一度この花を見守ろうと思った。
……だけどそれはもう既に枯れつつある。
まだ小さく未成熟なそれは、根腐れをしていた。
この雨続きだ、緩慢に枯れていったのだろう。
せめて、完全に枯れてしまうまでは見届けたい。
そう思った私は、今度は決して離れないようにとそこに居座った。
髪が、服が、雨に濡れる。
それでも私は見守った。
するとどうだろう。
それは急速に枯れていった。
…………。
これは自分のせいなんじゃないかと思う。
私がちゃんと雨宿りをしていたなら、枯れなかったのかもしれない。
私は雨雲を睨みつけた。
自分が悪い。
だけどもっと悪いのは、絶えず雨をふらせ続ける雨雲の方だ。
だって、
……………………。
せっかく芽生えたはずのやさしい気持ちも、これでは直ぐにダメになってしまう。
綺麗に整えられた頭の中では、
感情なんて育たないから。
……これで二回目だ。
また
枯れて、腐って、溶けてしまった。
それが確かにあったはずの場所をを見て落ち込む私に向かって、ようやく声らしきものが聞こえる。
その声は、そんなものは不必要と、私には相応しくないのだと。
だから、捨ててしまえという。
嫌だ。そんなのは認められない。
だって、これを捨ててしまったら本能しか残らない。
唯一残ったそれは、私の存在を肯定し、一番の間違いさえも否定しないだろう。
……ただ死ななければいいなら、それもいいのかもしれないが、それこそ私には相応しくない。
私にはどうしてもやりたいことがあって、それは私のしなきゃいけないことでもある。
それは違う、と雨粒が言う。
違わない。
私は彼女の否定を否定した。
そもそも、雨粒に耳を貸すこと自体が馬鹿らしい。
『……いいわ、もう少しだけ待ってあげる』
雨粒はさらに言葉を続ける。
『あなたが役目を終えるまでは、私は何もしないと約束してあげる。その代わり、その時が来たら……』
何を言っているの?
『何って、私なりの慈悲よ。私の人間らしい優しさでもってして、あなたに情けをかけてあげたの』
あなたは、人なの?
『…………』
まるで話が通じない。
『どこにいたって見ているからね。逃げても無駄よ』
あなたに何ができるって言うのよ。
『その口調、一体誰のマネかしら?』
…………。
意思の疎通なんてできるわけがない。
『まあいいわ。とにかく、その時が来たら、こっちからお迎えを向かわせるからね』
お迎え……。
『最後にひとつだけ教えておいてあげる。あなたの白々しい態度があまりに滑稽で、見るに耐えなかったからね。これも慈悲というやつかしら』
……。
『その子、あなたから隠れていたみたいよ? きっと、あなたのことが怖くて仕方がないのね』
その子…?
不意に視線を落とした。
すると、怯えた目がこちらを見ていた。
……ああ、そうだ。
私がこの子にこんな表情をさせているんだ。
きっと私が近くにいるだけでも怖いのだろう。
そんなことにも気づかずに、妄想を疑わず、挙句の果ては自分の潜在意識にそれを正されて。
一連の思考はとても正常なものとは思えない。
虹草の副作用がまだ抜けていないのだろうか?
……いや、それは違う。
むしろその逆だと思う。
酷く落ち込んでしまうこの気持ちは、長時間虹草を食べずにいた時の精神状態に近いように思える。
さっき食べたばかりなんだけどな。
もしかするとさっき食べたのは、周辺の草の中でも、特別輝きが弱いものだったのかもしれない。
もしそうなら直に視界が赤みがかってくるだろう。
それは数分後か、それとも1時間あとのことか。
何れにしても、緊急じゃないから無理に今食べることはない。
何より今は別に優先すべきすることがある。
「こんなとこで、何をしてたの?」
私は、こちらを見上げる少女に向かってもう一度問いかけた。
「……」
「もしかして、何かから隠れていたとか」
「………」
少女は答えない。
でも、言葉がなくてもわかることはある。
私が言った白々しさ全開の一言を聞いた瞬間、彼女のまぶたがぴくんと動いた。
この反応から、私の予想が見当外れなものではなかったことが分かる。
「そっか。……それで、……なんで隠れてたの?」
「…………」
この沈黙を勝手に自己解釈して話を進めると、ただ怯えていただけの目に、何か言いたげな色が混じる。
私は構わず質問を続ける。
「もしかして、私に会いたくなかったのかしら?」
そう言った後、別に怒っているわけじゃないということを伝えるために、からかうように笑って見せた。
「んー?」
「……………」
みるみるうちに青ざめていく。
別に追い詰めたいわけじゃない。
否定でも、肯定でもいい。
なんならそれ以外でも、何か言葉を話してほしい。
一方的に話しているだけじゃ、仲良くなんてなれないから。
このままだとあなたの沈黙は全部、私の粗末な頭で理不尽に解釈されることになるんだよ?
「…………」
………………。
少し待ったけど、返ってきたのは沈黙だけだった。
このままでは、この会話(…と呼んでいいのか分からないけど)はいつまでも平行線を辿ってしまう。
でもだからといって焦ることはない。
既に視界が赤みがかってきている気がするけど、何も慌てることなんてない。
眼前の少女は確実に追い込まれつつあるのだ。
それは私の本意ではないけど、言葉を交わせないのであれば何かしらの行動を起こしてもらう他ない。
命の危機に陥った時には、回避不可能な選択を誰もが迫られることになる。
逃げて命を続けようとするか、生きるのを諦めて死を受け入れるか。
一か八か、敵に襲い掛かるという場合も少なくはない。
もし逃げられたら追いかければいいし、受け入れてくれたなら、これからゆっくりと仲良くなれる。
万が一、この子が逆に襲いかかってくるようなことがあってもそれで構わない。
実際、追い詰めた相手から返り討ちに合うことも少なくはなかったし、その度に私はことごとく負けている。
昨日は彼女のことを自分よりも弱そうだと勝手に評価したけど、実際のところは分からない。
……とにかく、恐怖の対象を力でねじ伏せられることが分かればこの子も少しは安心できるだろうし、私にとっても悪い話じゃないはずだ。
出来ればこの子の手を汚させるようなことはしたくないけど、今の私は彼女にとってセルリアンと同じ外敵だから、やむを得ないことと思おう。
彼女が戦う意思を見せてくれれば、それが何よりなのだ。
戦いを通じて芽生える友情…みたいな?……そんな物語もあったかもしれない。
さっきから自分が負けることが前提なのは、こちらから攻撃してこの子が実際に怪我をするようなことがあれば、信頼を得るのは難しくなるからだ。
だから私は、彼女の私に対する印象の悪化を防ぐために手を出さない。
痛いのは嫌だけど、未来の友達のためだもん。
きっと私は耐えられる。
……ああ、でも…仮にそんな事態になったとして、私はこの子に何をされても平然としていなきゃダメなんだ。
腕を折られても、首を絞められても、平気な顔をしなくてはいけない。
精神的な弱さは決して見せてはいけないから。
私が口程にもない少女だと悟られれば、相手の心を繋ぎ止めておくための一番有効的な手段を失いかねない。
もしそうなってしまったら、お話がきっと得意じゃない私は何も出来ずに終わってしまう。
そんな最悪な事態を避けるための強がりを、私はあらかじめ用意していた。
瀕死の重傷を負った私は、あまりの痛みに泣いてしまいそうになるのを我慢する。
そして、包容力と不気味さを含んだ微笑みを浮かべて、「気は済んだかしら?」って言うんだ。
その後は何事も無かったかのように起き上がる。
……何があったって私はきっと無事だから。
そんな私を見て、この子は不気味に思うだろうけど、別にそれでも構わない。
それこそが狙いなのだから。
…………。
私にもできるだろうか…?
いくら強がったって、うめき声ひとつあげないのは難しいかもしれない。
………………。
でもまあ……これは万が一の場合だから、ね。
あらかたの事態を想定し終えたことを確認する。
あんまり悠長にしすぎて時間切れになったりしては困るので、こちらから仕掛けることにした。
「ねぇ」
少しだけ声を低くして圧力をかける。
すると、少しの時間がたった後、ようやく声が聞こえた。
「…………だ」
「……? いま、なんて……」
上手く聞き取れなかった。
せっかく何かを伝えようとしてくれたのに聞き逃してしまった。
これは全部、雨のせい。
雑音をならし続けて、意思の疎通さえ図らせない。
私は再三嫌い続けてきた自然現象を今一度呪った。
「…………」
彼女が声を発してから、この場の空気はかわりつつある。
私はその変化に気づいた。
最初はただ怯えるだけの少女だったが、自分が置かれている状況の理不尽さに気づいたのだろうか。
その目からは段々と怯えが薄れていって、明確な敵意が宿り始めている。
その視線は自らの生命を害する敵に向けられるものになっていた。
……それでいいんだよ。
その手で私を─────
瞬間、突然強い風が吹いた。
私の右手が無意識に動き、髪を抑える動作をした。
これは本来髪が乱れるのを防ぐための動きのはずだけど、頭からつま先までの全てが水浸しの私には不必要な動作だ。
不必要な、…無駄な行いのはずだった。
だけど、なんの意味も持たないかと思われたその行為は、本来の目的とは別の意味で作用した。
それは私が大きな隙を見せたこと。
髪を抑える私の視界は暗く閉ざされていて、それは私が目をつぶっているからだ。
私は気づく。
今の自分が如何に隙だらけかを。
目は見えていないから、今目の前にいるはずのこの子が攻撃をしてきたら避けられない。
彼女に殺意や害意があったとして、私はそれをこの身体で受けるしかないし、両手がふさがっているので反撃できない。
右手は髪を、左の手はスカートを押さえるのに忙しいのだ。
…………。
やるなら今しかないよ。
なにかするなら今のうち。
あなたの命懸けの奇襲はきっと成功する。
別に逃げてもいいけど、もし追いつかれてしまったら……。
ここで仕留めておかないと、あとが怖いよ?
……そんなことを頭の中でひっそりとつぶやく。
そそのかすように、寄り添うように、…声なき想いを滴らせる。
風はまだ止んではいない。
─────バシャッ
その時、一際大きな水音と共に小さな気配が動いた。
私は頬を弛めた。
次の瞬間───
ぽすっ
……ぎゅー。
……?
何が起きたかわからなかった。
水音が合図をしてまもなく、胸の辺りに衝撃を受けた。
私は、これから友達になろうとしている少女のことを思い描いた。
すごく気が弱そうに見えたけど、本当はやればできる子なんだ。…そんな風なことを思った。
そして、直に襲ってくるであろう痛みに備えて、私は固く目を瞑った。
それなのに、いつまで経っても痛みを感じなくて。
死刑宣告を待っているような気分で、永遠にも感じられる時間の終わりを今か今かとびくつきながら、ただ待っていた。
…だけど、そんな心臓に悪い時間が永遠に続くことはなかった。
やがて私は気づく。
痛みの伝達遅れにしては長すぎる時間にようやく違和感を覚えたのだ。
私はゆっくりと目を開けた。
「…………?」
本当に、何がなんだかわからない。
私のことを心から恐れ、敵意の宿った眼差しを向けてきた少女が、私の胸に顔をうずめていた。
分からない。
彼女がどうしてそんなことをするのか、全然分からない。
髪とスカートを押さえていたはずの自分の両手が、いつの間にか少女の身体を捕まえるように抱きとめていた。
なんでそんなことをしたのか、自分のことも分からない。
……でも、なんだろう…。
不思議と心が満たされるような幸福感を感じる。
……もう、何も分からなくたっていい。
今はただ、このまま……。
私は少女の頭を撫でようとした。
今度は無意識じゃなくて、自分の意思で、そうしたいなって思った。
左手をそっと持ち上げる。
そして、彼女の真っ白な髪に触れようとした時、その手が止まった。
同時に、呼吸も止まる。
段々、と動悸が、激しくなる。
焦点の定まらない目が、真っ赤に濡れた私の左手を見ていた。
そんな……もう…ダメなの…?
せっかく、せっかく仲良くなれそうだったのに。
仲良く……そうだ、私たち、もう、打ち解けたんだ。
私は目を閉じ、見たくないもの全てを視界の外へ追い出した。
そしてもう一度、大好きな友達を抱きしめた。
今度は二度と離さないように、強く。
辛いのを全部忘れてしまえるくらいに強く。
このまま絞め殺してしまうくらいにもっと強く。
もっと、もっと……。
……?
……気づくと私は、誰も抱きしめてなんかなかった。
私はあの優しい体温を、また見失ってしまった。
どこに行ったの?
私は暗闇に手を伸ばした。
何にも当たらない。
……目なんて開けたくない。
でも、このまま会えなくなるのはもっと嫌。
私は目を開けた。
すると、そこにあの子はいた。
変わってしまった世界で、変わらずここにいてくれた。
ゆっくりと、彼女の頬へと手を伸ばす。
もう少し……もう少しで届く。
……もう少しだったのに。
少女は私の両手をすり抜け、背を向けてしまった。
「なん…で…?」
かすれる声で問いかけた。
でも、とどかない。
聞こえてすらいないみたい。
一瞬視界が揺らいだかと思ったら、あの子の背中が少しだけ遠くなった。
彼女が駆け出す。
段々と遠のく。
遠く、離れていってしまう。
其の後ろ姿を、脈打つ視界で、ぼんやりと、眺める。
………。
「待って!!」
咄嗟に私は叫んでいた。
少女が足を止める。
今度はちゃんと届いたみたい。
私は彼女の背中に歩み寄る。
一歩を踏み出すごとに粘っこい音が足に絡みつき、血なまぐさい匂いが全身を包み込んだ。
彼女の背後に立つ。
そして私はもう一度、彼女を抱き締め───
「私から逃げようとしたのね?」
え……?
そいつは言っていた。
意識的に、私の無意識を介して、世迷言を私の友達に吹き込む。
何を言っているの…?
そんなわけない。
私とこの子は友達なのに。
逃げるなんておかしい。
「そんな、こと……」
ほら、彼女も違うと言っている。
そんなことを言い出した私がどうかしてるんだ。
……あれ?
私はどうかして……?
………………………………
……そうだ。
私は頭がおかしくなっているんだ。
だから変な勘違いを起こすんだ。
私はこの子と友達なんかじゃなかった。
少なくとも、今は違う。
だったら……だから、今喋っているのが、本当の私なんだ。
じゃあ私は誰なの?……頭が痛い。
早く、虹草を食べないと…。
「いいわよ」
「……え?」
「逃げてもいいわよ」
私の意志とは無関係に、話が進んでいく。
でも、……これでいいんだ。
事実をちゃんと受け止めている、比較的まともな方の私がきっとうまくやってくれる。
だから、私は何もしなくていい。
「でもその前に、私の遊びに付き合ってもらうけどね」
私は少女の正面に回り込みながら言った。
「……遊び……?」
「鬼ごっこって知ってる? 誰かが鬼とかいうのになって、他のひとが逃げるの」
「……」
「あなたが私から逃げ切れたら、そのまま見逃してあげる」
「…に、……逃げきれなかったら……」
「そうね……じゃあ、こういうのはどうかしら? あなたが鬼に捕まったら……足を一本、もがれるの。あなたが二度と逃げられないように…ね」
「そんなのって……」
そんなのってない。
ここまで黙って聞いていた私だったけど、さすがにこれはやりすぎだと思う。
はっきり言って、彼女は異常だ。
この子が自分に怯えていることを知っていながら、こんな暴力的な言葉で脅すなんて……。
「嫌ならしなくてもいいのよ? 私はあなたとずーっと一緒にいられれば、それで満足なんだから」
彼女はそう言って楽しそうに笑う。
私には理解ができない。
目に見える事実すらねじ曲げてしまった私には、彼女の歪で不健全な、正常であるはずの心がまるで解らない。
「わかりました。……その条件で構いません」
「ぅ……じゃあ、私が…今から十秒数えるから、その間に逃げてね」
私は、この子がそんな遊びには付き合えないと言ってくれることを期待していた。
どうやらそれは頭のおかしな遊びを提案した私も同じだったらしく、彼女が動揺しているのが分かる。
だったら最初から言わなければいいと思ったが、彼女なりの考えがあったのだろう。
……異常な思考回路を持った正常な私と、少しだけ分かり合えた気がする。
でも、もう直ぐにお別れをしなくてはならない。
私は十秒を数えて遊び相手を逃がしたあと、虹草を食べて正常になる。
この先の不安はあるけど、いつまでもこのままではいられない。
私は少女が走り出すのをのを確認してから十秒を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん……」
ゆっくりと数える。
「しー……」
もういいか。
あの子の後ろ姿はもう見えない。
私は足元に視線を向けた。
そこには辺り一面に生い茂る草があった。
その一本一本が絶え間なく変色し続けている。
まるで生きているみたい。
それはとてもおぞましく見えた。
気味が悪くて、目にも悪い光景。
それをぼんやりと眺める。
…………。
私が虹草に手を伸ばすのを躊躇っていると、周囲の草の輝きが段々と薄れ始めてくる。
そして、輝きが弱いものから順に、赤色に飲み込まれていく。
このままでは、虹草と普通の草の区別もつかなくなってしまう。
私は慌てて手を伸ばした。
「痛っ」
突然、指先に鋭い痛みを感じて手を引っ込めた。
引っ込めた手のひらに目を落とす。
真っ赤に濡れる手のひらには、一際赤い一本の跡が出来ていた。
それを辿り、指の先へと。
先ほど痛みを感じた部分には、小さな切り傷があった。
どうやら、手を伸ばした先でなにか鋭いものに触れたみたいだ。
私は草をかき分け、それを拾い上げた。
まじまじと見る。
ひらべったくて、先端が尖っている。
そして、尖っていない方、もう片方の端は手で持ちやすい形をしている。
私はこの形状に心当たりがある。
これは……ナイフ?
ナイフ。
それは私たちが生まれながらにして持っている武器。
フレンズがセルリアンに立ち向かうための、唯一の力。
ムカデなんかはナイフがなくても強いらしいけど、そんなのは彼女くらいのものだと思う。
特別な力を持たない私たちは、この武器に頼るしかない。
かくいう私も持っていたのだが、以前セルリアンから逃げる際にうっかり落としてしまっている。
それなら、今こうしてナイフを拾うことができたのは幸運と言えなくもない。
でも、今拾ったこれは酷く錆び付いていてあまり使い物になりそうにないし、そもそも私が落としたものでもない。
だから勝手に持っていくのは悪いように思う。
私はこの錆びついたナイフを元の場所に戻しておくことにした。
ちょっと名残惜しいけど、……でもまあ別に武器があってもなくても、あんな恐ろしい相手に立ち向かうなんてこと、臆病者の私にはできっこないし……。
………………。
さっきから、私は何をしているのだろう。
今はこんなことをしている場合じゃないのは、私だってわかっているはずだ。
……でもどうしてだろう。
私はこのナイフから、目が離せずにいる。
いつまでも、ナイフの先端の方をじっと見つめているのだ。
こうしているとなんだか頭がざわついて、…何かを思い出しそうになる。
「うみ……」
私が小さく呟いた。
知らない文字列。…聞きなれない響き。
それなのに、どこか懐かしさを感じてしまう。
愛おしくもおぞましい響き。
このたったの2文字が頭の中で反響し、何度も何度も繰り返される。
脳を貫き、頭蓋にぶつかる度に分裂し、2文字は4文字、4文字は8文字となり頭の中を駆け巡った。
やがて、増えすぎた文字がぐちゃぐちゃになってしまう。
私はこれらを頭の中から締め出そうと足掻いた。
そうして外に引きずり出されたのは、全く別のものだった。
無機質な声が頭の中で重く響く。
『 もしオマエが……其の、紛い物の手を汚すことを躊躇うのなら……ここに、海に連れて来るがいい 』
「そうすれば、…あとは、ワタシが……」
どこで誰から聞かされたかも分からない、他人事のような言葉。
感情のない声で、私じゃない誰かに向かって言っている。
…………。
私が聞き取れたのはここまで。
他にも、数多の言葉が色んな声音で話されたけど、何重にも重なって声と呼べないくらいに濁ってしまっていて理解ができない。
その音の集合体は今もなお増大を続けている。
頭がどうにかなりそう。
既にどうにかはなっているとか、そんな声すら今は聞きたくない。
「うぅ……」
あまりの爆音と頭痛に耐えきれず、私はその場に倒れ込んでしまった。
手に持っていた殺害のための道具が投げ出される。
『──から……もう─────』
────音が止んだ。
「……え…?」
突然、頭の中で鳴っていた音がピタッと止まった。
私はその音が止む直前に偶然聞こえた声を、言葉を認識して青ざめる。
『ここは危ないから、もう近づいちゃダメよ 』
言葉の意味を理解した瞬間、血の気が全て引いた。
こんなのは、なんてことのない、ただの雑音の内の一つに過ぎない。
でも、私には理解ができてしまった。
……彼女は忠告をした。
断崖に立って。
ここには海があるから、危ないと言った。
海は、とても危険な場所。
その危険な海へと向かう道には、私の知っている景色が含まれていて……。
「……」
起き上がり、前を見据える。
記憶の映像と自分の視界が重なる。
色は違えどとてもよく似ている。
森の中なんてどこも同じ景色だから、気にする事はないはず。
でも、私の直感がそうだと言っている。
この道こそがあの海沿いの崖へと続く道なのだと。
出処不明の記憶と、頭のおかしな私の直感、その両方を信じるというのなら……。
「この先には、……っ!」
私は今すぐにあの子を追わなくてはいけない。
何かの勘違いならそれでいい。
頭のおかしな私が見たただの妄想でもいい。
考えたって真偽なんて分からないのだから。
最悪な事態を想定している暇があるのなら、最善の努力を真っ先にするべきだ。
私が今できる最善は走ること。
誰よりも早く走って、あの子に追いつかなくちゃいけない。
足に力を入れて立ち上がる。
その時、視界が大きく脈打った。
立ちくらみとは違った感覚。
世界が逆さまになってしまったかのような違和感が全身を駆け巡る。
……急がなくちゃいけない。
真っ赤な恐怖が私たちを満たしてしまう前に、あの子を捕まえないと。
切り詰めたようなこの切迫感は、私と彼女の間で隔てられることはなかった。
共通の目的意識を持った二人の心が一致する。
一人は大切な友達を救うために。
もう一人は、未来の友達を守るために駆け出す。
赤白い空の下、乖離しかけていた意識が、今ひとつになった。
「絶対に追いつく…!」
救われるべきはゴイシシジミ、それを追いつめているのもゴイシシジミ……
そんな状況から抜け出さんがための覚悟が友達のもとへと駆ける!という回でした
あのナイフ…まさか…
コメントありがとうございます!
気になっているみたいなのでナイフについての情報を軽くまとめてみました
ゴイシシジミ達がフレンズとして生まれた時に所持している武器
その形状は様々だが、一人につき一本必ず持っている。