我儘でいいんだ。
ハレが教えてくれた通りの方向へ向かうと、そこに私の探し人がいた。
「ねぇ……?」
「……ぁ」
ササコが振り返り、目が合うと同時に固まる。
彼女は一瞬だけ引きつった不自然な笑顔を作ると、俯いて黙り込んでしまった。
なぜ目をそらすのかも、一度黙ると声が二度と聞けなくなってしまうのも、理由は全部分かっている。
でもだからこそ、こんな時になんて声をかけていいか分からない。
私がササコと同じ目線だったならいくらでも慰めの言葉が浮かぶのに。
現実は違う。
「心配したのよ?」
「…………」
私はまた何も知らないふりをする。
彼女の本音を引き出してしまうと一緒にいるのが少しだけ辛くなるから。
「おはよう」
「…………おはようございます」
ササコは俯いたままだけど、一応返事をしてくれた。
とりあえず、「あなたとは二度と口をききません」は免れたみたいだ。
「うんうん、おはよう」
しばらくぶりの朝の挨拶なのにこれといった感動を抱くことはなかった。
そのことに一瞬違和感を感じたけど、すぐにそれが当然の事だったと気がつく。
(ああ、そういえば……)
今日初めての「おはよう」はもう済ませてしまってたんだった。
……後ろめたさを感じた。
寝起きの数分間を知らない子と過ごしていて、その間一度もササコのことを思い出さなかった。
その数分間が私に罪悪感を抱かせ、先程のササコ同様に口を閉ざしてしまいそうになる。
「……帰るわよ」
私は未だ俯いたままの少女の手を取った。
────────────────────
翌日、ササコはまた逃げ出した。
その次も、さらにその次の日も。
彼女は決まって私が眠っている時にいなくなる。
その度に私が、どこかへ行ってしまったササコを探して寝床まで連れ戻す。
そんな日が何日か続いたある日のこと。
目を覚ますとまたササコが逃げていた。
私はいつものように彼女を探して、そして見つけだした。
いつも通りの展開だった。
「……まだ…ちょっと眠そうね?」
「ええ、まあ……」
「何でまたこんなとこにいるのかは気になるけど……まあいいわ。早く戻りましょう? 今日は特別に二度寝を許してあげる」
そうまくし立てると、私は一方的にササコの手を取り引っ張った。
今日が昨日までと同じなら、これで大人しく着いてきてくれるはず。
しかしササコはその場から動こうとしない。
「……? どうしたの……? …もしかして歩けないの?」
「…………」
「もう、しょうがない子ね……おんぶとだっこどっちがいい? 私としてはおんぶを選んでくれた方が助かるのだけど……」
「……っ!」
「………………」
ササコを捕まえていた手が突然振り払われた。
彼女の体温を見失った私の手の中にあからさまな拒絶の意思だけが残る。
「……私から逃げたいの……?」
「…………」
「それとも、また鬼ごっこがしたい?」
「……そんなの、────」
「じゃあ今度はあなたが鬼をする? 私が逃げて、あなたが捕まえる」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
強く拒絶された私は、あくまで平静を装うために僅かに残されたコミュニケーション能力すら投げ棄ててしまったのだろうか。
今ササコに喋らせてはいけない。
そんな身勝手な危機感から、私は自分も含めて誰も望まないような提案をした。
「するの? しないの?」
一言嫌だと言ってくれればいい。
そうすれば、今朝のことは全部忘れて、何事もなく今日を始められる。
「……」
(ほら、早く答えないとまた私の自分勝手な決め付けであなたの気持ちをねじ曲げちゃうよ……?)
……私はどこまでも卑劣だ。
ここ数日で何度目かの自己嫌悪をする。
でもそれで、…私が私を嫌いになるだけで望む結果を得られるのなら、もうなんだっていい。
なんだって…よかったのに……。
「そ、そうですね……。それいいですね。やりましょう……」
「ふーん……じゃあ、やっぱりダメ」
「……どうしてですか…?」
「だって私が逃げた後、あなたそのまま逃げるつもりでしょ? 臆病者の鬼さん。その二本の角は飾りかしら?」
私は挑発的に言い放っていた。
ササコはこちらを見ようともしない。
俯き口を固く閉ざした彼女は、もう二度と私と話してくれないかもしれない。
こんな風に言うつもりじゃなかったのに……。
それこそ、一言だけ「嫌だ」って言えばよかったのに。
提案しておいてやっぱり嫌だって言うのはおかしい? そんなことを気にして、あんな追い込むような言い方をしたの? どちらにせよ私がササコの言葉を無下にすることには変わりないのに? そもそもそれらしい理由さえあれば、傷つけてもいいの?
そんなわけがない。
「ササコ……ごめんね……」
「……」
ササコがゆっくりと顔を上げる。
私の目をじっと、見張るように見つめる。
と、すぐに目を伏せて顔を逸らしてしまった。
逸らす直前に数瞬だけ細められた目は問い詰めているようで、「本当に悪いと思っているんですか」と私に言っているようにも見えた。
「あのね、私は本当に……」
「やりましょう」
「……?」
「鬼ごっこ。今度は私が鬼をやります」
「何を言ってるの……?」
「たしか、十秒数えればいいんでしたよね?」
「……待って」
「では今から数え始めるので、逃げてください」
ササコは私の言葉に耳を傾けない。
こちらの返答を無視して話を続ける彼女は、なんだか怒っているみたいでちょっと怖かった。
……でもそれだけじゃない。
こんな話し方をされると、まるで私の人格そのものを否定されているみたいで悲しい気持ちになってくる。
無視と決めつけがこんなにも相手の心を傷つけてしまう行為だったということを。
そして自分のこれまでのササコに対する無神経な振る舞いの数々を、今ようやく思い知った。
(私は彼女に、ずっと……こんなひどいことをしていたんだ)
同じことをされないと気づけないなんて、なんて馬鹿なんだろう。
自らの愚かさを恨むばかりだ。
「あなたが負けたら……」
ササコはかつて私がしたのと同じように、鬼ごっこの敗者がのまなければならない条件を提示しようとする。
たとえ彼女の言葉のその先がどのようなものであったとしても、私はそれに応じよう。
今はそうすることでしかこの罪を償えないから……。
「もう二度と、私に関わらないって約束してください」
「……」
(そうだよね。……これがあなたの本心なんだよね……)
ササコの望みは分かってた。
多分こうなるだろうって、大体の予想は着いていたのに……。
どうして期待しちゃうかな。
私が奪った彼女の自由は、この足一本程度じゃ償えないらしい。
「…………ええ、わかったわ……」
長い沈黙が終わった時、私はもうササコの顔を見れなくなっていた。
せめて最後くらいはちゃんと見たいのに。
夢でこっそり会えてしまうくらい、彼女のことを記憶に焼き付けたいのに……。
体が言うことを聞いてくれない。
一緒にいられるのはこれで最後なんだ。
だから、だから……。
(やっぱり見れないよ……)
私はササコに背を向けてしまった。
その瞬間から二人の時間は動き出し、十秒のカウントが始まる。
二人が独りに戻ってしまうまであと十秒ちょっと。
私はふらふらと近くの木陰まで歩いていくと、寄りかかるように腰を下ろした。
膝を抱えて、ササコの足元をぼんやりと見つめる。
「……」
ぽつりぽつりと雨の雫が地面に落ちては消えていく。
その様子を見ていると不意に視界が歪んだ。
私は目の中にピンポイントで落ちてきた水滴を拭おうとしたけど、やっぱりやめた。
これなら……このままだったら、ササコの顔をちゃんと見れる。
そう思ったから。
でもやっぱり、ぼやけてよく見えなかった。
鼻がつんとする。
(馬鹿だなあ、私)
自分自身への何気ない罵倒がトドメになって水滴が零れた。
頬に冷たいものが伝い、私は慌てて顔を伏せる。
こんな顔ササコに見せられるはずがない。
見せたら彼女の決意が揺らいでしまう。
だから隠さないとだめ。
もうササコに自分を追い込む選択はさせたくないから……。
(─────ああ、もう終わりなんだ)
気づけばもう誰の声も聞こえなかった。
十秒って、こんなにも短いものだったのか。
逃げる余裕なんて全然ない。
「…………」
もう会えないのなら最後くらい笑顔でお別れをしたい。
そうすればきっと、全部いい思い出だったって思えるようになるから。
だから無理にでも笑うんだ。
負けちゃったかって言って、邪気のない笑みを浮かべて……。
前に練習した時と同じように、……楽しくもないのに笑って……。
そして私は………………また、。
(そんなの嫌だよ……)
臆病者は私の方だ。
「ねえササコ、やっぱり……」
やっぱりやめよう。
そう言おうとした。
顔を上げて、ササコの目をちゃんと見て。
でも、私の見ていたい琥珀色の瞳はどこにも見当たらない。
「ササコ……?」
再び顔を上げた時、私は本当に独りになっていた。
────────────────────
ここは一本の木の下。
広い森に無数に存在する木陰の内の一つ。
「やっと、見つけた……。こんな所で、…何をしてるの……?」
私は雨の中を探し回ってようやく見つけ出した鬼役の少女に向かって聞いた。
「えっと、…あ…雨が降ってきたので……雨宿りを……」
「雨……。そうね……もし私が風邪でもひいたら、あなたのせいよ……?」
「……すみません……あ、隣どうですか」
「え? ……うん…ええ、お邪魔するわ」
ササコが自分の真横に目を落とす。
私は不思議に思いつつも彼女の誘いに乗ることにした。
腰を下ろし、隣り合う少女の横顔をちらりと見る。
すると、視線に気がついたのかササコがこちらを見返してきた。
目が合いそうになって咄嗟に視線を逸らす。
「…………」
なんだか気まずい。
さっきまで私たちは、多分ケンカのようなことをしていたのだと思う。
そしてそれは今も変わらない。
仲直りが出来ていないから。
しかしササコとの仲を修復しようとする行為は、これからも一緒にいたいと彼女に暗に言っているのと同じことなのではないだろうか?
もしそんなこちらの意図を悟られればまた嫌われてしまうかもしれない。
二人で交わした約束を平気で破るようなこと、きっと許してくれないだろう。
「どうすれば勝ちなんでしたっけ」
私が悶々としていると横からササコが言った。
何のことを言っているのか分からなくて聞き返す。
「鬼ごっこです。捕まえるって、具体的にはどうすればいいんですか?」
「ああ、そういうことね。……相手の体のどこかに触れば、それで……捕まえたことになるのよ」
「そうですか……」
言うなら今しかない。
まだ勝負が着いていない今しか……。
「あの約束、やっぱりナシに……!」
「ゴイシシジミさん、逃げてもいいですよ」
「……え?」
「この状態から逃げ切れる自信があるのなら、どうぞ逃げてください」
ササコが目を細めて挑発的に言った。
手を伸ばせば届く距離。
こんな距離感では逃げようにも逃げられない。
もしかして彼女は最初からこうなるのを狙っていたのだろうか。
私が鬼を探し回って疲労状態なのも、その足でのこのこと彼女の前に現れたのも、全部ササコの思惑通りだったとしたら……。
「私の負けね……」
「いいんですか?」
「っ……よくない……」
あっさりと負けを認めてしまいそうになった。
あの約束を何とか取り消してもらうまでは、この遊びを終わらせる訳にはいかない。
ササコが納得してくれるような言い訳がないかと考えていると、不意に音が鳴った。
それは、布が擦れるような音。
音のした方へ目を落とすと……。
「あっ……」
ササコが私のスカートの裾を摘んでいた。
「これで私の勝ちですね」
「……そうね」
こうなってしまってはもう、負けを認めるしかない……。
私たちの仲はこれまで。
……一度は覚悟した事なんだ。
だったら当初の予定通り、笑顔でお別れをしよう。
しないと………………。
「ま、負けちゃったかぁ……」
口角を少し上げて、目を細める。
こんな感じでどうだろう。上手く笑えているかな?
ササコといた数日間の思い出が甦る。
そういえば、ササコが笑っている顔は一度も見たことがなかったな。
その事実が、二人で共に過ごした時間が彼女にとっては苦でしかなかったということを証明していて……。
悲しい気持ちになった。
本当ならここは罪悪感を覚えるべきところなのかもしれない。
でも、悲しい。
笑わなきゃいけないのに、できない。
鼻がつんとしてきた……。
このままではまた泣いてしまいそうだったから、さっきと同様に顔を伏せて凌ぐことにした。
目を瞑りじっと待つ。
こうしていればきっといつかは悲しくなくなる。
それまでずっと俯いたまま生活するのはどうだろう。
辛い現実を見なくて済む。
これはもしかすると、とてもいいアイデアなのでは……?
知らないうちにササコは離れていって、引き止めることもできず、私は独りになったことにすら気づかない。
それはとっても、……幸せなことのはず。
……でも、それでもいつかは顔を上げて、この目で全部見なければならない時が来るだろう。
だっていつまでも俯いてたら首が痛くなっちゃうから。
……………………。
(その頃には雨が止んでるといいな。ああ……でも、一人で見上げる青空は、きっとどんな現実よりも辛いんだろうな……。私にちゃんと受け入れられるかな……?)
────馬鹿みたい。
出来もしないことをつらつらと並べて、勝手に納得して……本当に馬鹿みたいだ。
「────これで、********……」
「……?」
不意に声が聞こえた。
隣でササコが何かを呟いたのだ。
それは誰に向けたというわけではない、独り言のようだった。
どうせこれでようやく自由になれるとか、そんなところだろう。
何もわざわざ口に出すことないのに。
「あーあ、これで*********……」
ササコがもう一度、今度はさっきよりも大きめな声で同じ言葉を繰り返す。
まるで私に聞かせようとしているみたいに、わざとらしく呟く。
もうやめて。何も聞きたくない。
それはこれまでの仕返しのつもり?
謝ったら、赦してくれるの?
「ゴイシシジミさん」
「そんなに私のことが嫌いならもう一緒にいなくていいのよ。さっき、約束したでしょ……? 私はこのままここにいるから……」
抗えない別れを告げられるのが怖かった。
だから私は自分からササコを遠ざけるように言ったんだ。
それなのに……。
「じゃあ私もここにいます」
それなのに……
「……どうして」
どうしてあなたは……
「……だって、ほら……雨降ってますし……それに……」
「……」
「私はあなたに……まだ勝ってません。……負け越してるんです」
「何を言ってるの。……あなたは私に…勝ったでしょ」
「だから! ……これで、一勝六敗……なんです……」
「……どういうこと……?」
「私はあなたに、ゴイシシジミさんに5回も負け越してるんです。だからこのままでは終われません。……再戦を申し込みます」
ササコが言っていることは負けず嫌いな子供みたいだ。
でも彼女がやろうとしていることは、きっとその逆で。
気を使って言ってくれているんだと思った。
自意識過剰かもしれない。
でも、私は彼女の優しさを知っている。
それはいつか彼女自身を滅ぼしかねない、危うさを持った優しさだ。
私は本当にまだササコと一緒にいていいのだろうか。
「でも、あなたは私のこと嫌いでしょ?」
私は唐突で直前の会話の流れからは想像もできないような返しをした。
息を呑む音。言葉を飲み込む音。
なんとも形容しがたい無音だけを残して、ササコが口を閉ざしてしまう。
相手の本心を暴き出そうとするような言動を後悔した。
せっかく気を使ってくれているのに、私は彼女の優しさを無下にしてしまった。
これで彼女はどう思っただろう。
めんどくさいやつだと、愛想を尽かしてしまっただろうか。
「ごめんなさい……」
「…………私は、私のしたいようにします……。だから……あなたはあなたのしたいようにすればいいじゃないですか。ちなみに私のしたいことというのは、鬼ごっこの再戦です」
ササコがあくまで鬼ごっこの再戦がしたいと突き通す。
そんなことしたいはずがないのに、負けず嫌いな自分を決して崩さない。
それはどうして?
それは、……きっと私のため。
こちらの我儘を肯定するためだけに、自らも我儘なフリをしているんだ。
大切な我が身を危険に晒してまで……。
どうしてあなたはそんなにも気にしてくれるの。
私には優しくされる資格なんてないのに。
おさまりかけていた涙がまた滲んでくる。
またササコの心を殺しつつある罪悪感と、この優しさにいつまでも浸かっていたいという我儘とが頭の中で交錯し、色んな感情を巻き込んで混濁していく。
もうどれが自分の本心なのか判別がつかなくて、泣きたくなくて……。
漏れそうになる嗚咽がバレてしまわないよう、私は声を殺した。
「再戦、もちろん受けて立ちますよね……?」
なおも言い続ける。
返事を促すようにやさしいトーンで。
……本当にいいの?
そんなことされたら本当に、私はあなたから離れられなくなっちゃうんだよ?
それでも……いいの……?
………………。
もし、私の我儘が許されるのなら……
「鬼ごっこはもうしないわ……」
「あなたが嫌でも、私が勝手に逃げればやらざるを得ませんよね……。なんだったら今からやりますか?」
ああ、あなたは本当に……
「ぁ……」
私はササコを抱きしめた。
彼女の所在をちゃんと確認せずに伸ばした両手は、確かな体温を見失わなかった。
夢なんかじゃない。
彼女は今もずっと隣にいてくれた。
暖かくて、涙が溢れてくる。
「……気を……使わせ…ちゃった、ね」
「なんですかいきなり……私は別に……」
「ありがとう……ごめん…ね…?」
「だから私は……もう、暑いですよ……離れてください」
「逃げ…ない……?」
「逃げませんから……だから、離してください……」
困ったような声でやさしく拒まれた。
本当はあなたのお願いならなんでも聞いてあげたい。
だけどごめんね、ササコ。
私は我儘だから。
あなたにこんな顔を見せたくないんだ。
だからもう少しだけ待って。
止むまで─────。
────────────────────
十数分後
「もう逃げないでね……」
「それは、……約束はできませんけど」
「次また黙って逃げたりしたら……こ、怖いわよ……?」
「……どうするつもりですか?」
「今度逃げたら、……一生私の腕の中で生活してもらいます」
「それは…怖いですね……」
第5話序文の「鬼ごっこで負けた日」とは、ササコの5回の負け越しが確定して揺るがなくなったこの日のことです。
もうこういうつかず離れず(ついたり離れたり?)がお似合いの二人ですね
互いに全てを明かさなくていい、でもそこまで遠くないような関係がいい………
ありがとうございますー
私は見ててもどかしさを感じるくらいの距離感が好きでして……
でもこの二人の関係はちょっと拗らせすぎかなとも思っていたので、気に入って貰えたのならとても嬉しいです