私は走った。
走って、追いついた。
随分と時間を無駄にしたけど、なんとか追いつくことができた。
もしかすると私は足が早いのかもしれない。
長いことセルリアンから逃げ続けていたからだろうか。
私の逃げ足は知らず知らずのうちに鍛えられて、洗練されている。
その洗練された逃げ足が本当の意味で役に立ったのは、これが初めてのことだった。
……追いかけていたのだから、逃げ足とはちょっと違うのかもしれない。
でも、やっぱり……私は今日も逃げていたんだ。
無数の気配から。
見えない、存在しないはずの誰かから。
どうせこれもただの幻覚。
それを頭で理解していても、怖いものは怖かった。
振り向くことさえゆるさない程の恐ろしい何か。
私はそれに決して追いつかれないように走った。
そうして気配がどんどん離れていって、ここに着いた頃には既にそれはいなくなっていた。
私は後ろを振り返らずに言う。
皮肉を込めて…。
「助かったわ。ありがとう」
声なんてかけるんじゃなかった。
私は直ぐに後悔した。
バシャンッ!!
「!?」
……背後に無数の気配を感じたかと思ったら、大きな水音と共にそれらが一斉に弾けた。
恐る恐る振り返る。
「…………」
地面に赤い液体がぶちまけられていた。
それを見て私は、もう時間があまりないことを自覚する。
私はあの子のいる方へと向き直った。
まだ少し遠くて分からないけど、
あの子はきっと私を見てる。
ゆっくりと歩を進める。
だったら、どんな顔で私のことを見ているんだろう。
急がなくちゃいけないはずなのに。
……というか、どうして立ち止まっているのだろう。
間に合わないかもしれない。
もしかして、私から逃げる時に転んで……怪我をして……。それで、走れなくなっちゃった、とか……?もし、間に合わなかったら……?それか……気が変わった、なんてことは……ないよね。きっともうまにあわない。
…………。
思考がめまぐるしく変わる。
川の流れのように緩やかな変化は、彼女に近づくほどに激しくなる。
それはきっと目を背けたかったから。
心の平静を保つためには決して見るべきではない。
でも、目が離せない。
だから私は、せめて理解ができないようにと自らの思考を妨害した。
……でもそんなのは虚しい抵抗だった。
私の眼前に広がるそれは、目を背けるにはあまりに大きすぎたから。
たたずむ少女の背後から、雲の向こうまで続く程の、大きな大きな赤い溜まり。
それはいつか夢で見た光景に似ていた。
これが……海…?
断崖に立つ彼女の姿が、いつかの夢の自分と重なる。
あそこから落ちた後私は、……身体がバラバラになって溶けてしまった。
……それはあくまで夢の出来事だ。
………。
もしあの子が海に落ちるようなことになったら、何もかもが終わるだろう。
でも、そんなことは絶対にあってはならない。
いざという時には、この身を犠牲にしてでも彼女を救ける。
絶対に。
決意と呼ぶにはあまりにも軽い自己犠牲の精神に、自分でも嫌悪感を抱いた。
「あなた……それ……」
私は立ち止まっていた。
海を背にして立つ少女の手にはナイフが握られている。
「ここで足を失うくらいなら、私は全生命をかけてでも抵抗します。…私が死ぬ気で戦ったら、あなたも無傷ではいられないはずです」
手に凶器を持つ彼女の目は怯えていた。
彼女の瞳に宿る決意の光よりも、怯えの方が強く出ている。
……それなのに、どうしたらそんな風に立ち向かえるの?
「あれは…ほんの冗談よ。……非力な私に、あなたの足…を、どうこうできるわけないわ」
「……非力…あなたが? それこそ冗談じゃないですか…?」
「……ねぇ、あなたのそれも…冗談、なんでしょ……? それ、あんまり面白くないわよ?」
「冗談なんかじゃありません」
「あ、あんまりしつこいと怒るよ…?」
「それはこわいですね。きっと私なんかは、すぐに殺されちゃいますね」
「そんなこと……」
私は確信する。
この子は強い。
今まで必死に生きてきたであろう彼女が私より弱いなんて、そんなことがあるわけなかった。
戦い方の一つも知らない私なんかより、ずっと強い。
それなのにまだ私が無傷でいられるのは、彼女が心に恐怖心を抱いているからなのだろう。
傷つけるのが怖い。
返り討ちにあうのが怖い。
数歩引き下がるだけで死んでしまえる、この場所が怖い。
……。
あなたが今抱いているであろう恐怖の数々。
私がその内の一つを、今から取り除いてあげる。
だから……
「そこから……動かないでね」
それだけ言って、彼女の立っている崖際に向かって歩き出す。
私は彼女をこれ以上追い詰めることがないように、伏し目がちに歩いた。
私は自分でも分かるくらい目つきが悪いので、こうでもしないと余計に怖がらせてしまう。
私に近づかれることに対する恐怖が海に落ちる恐怖に勝ってしまえば、彼女は崖から飛び降りてしまうかもしれない。
それだけは絶対に防がないといけない。
「こ、これ以上近づいたら、宣戦布告とみなします……!」
そう言って、ナイフをこちらへ向ける。
「私は……本気です。」
付け足すように彼女が言った。
それでいいよ。
それであなたが怖くなくなるなら、私を好きにすればいい。
そのかわり、一度私に触れたなら、絶対に私のことを好きになってもらう。
そして二度と私から離れられなくしてやる。
それがこの遊びの決まり。
実際に足を取ったりはしないけど、私から逃げる足はちゃんと奪わせてもらう。
「あ!!」
「…?」
ナイフを持つ少女が、素っ頓狂な声を上げた。
私は立ち止まることなく彼女の様子を伺う。
「私に近づけば……あ、あなたの友達も無事では済まないかもしれませんよ……!」
「……」
「うぅ…! …み、みなごろしです!! あなたのせいでこの世界中のみんなが悲しむんです。……あれ? みんな死んじゃったら、誰も悲しまない……」
「そうね」
「そう…ですよね。……あああ! そもそも……どうしてそんなに目つきが悪いんですか!? おかしいですよ……あなたは……」
「私のこと、ちゃんと見てくれてるのね。…嬉しい」
「もう、怖いんです! 来ないでください!!」
「そっか。……あなたの気持ち、もっと聞かせて」
「わたしこ、ここから飛んでやりますよ! それできっと、あなたは毎晩夢の中でその光景を見るんだ。……良かったですね? これで毎日一緒ですね?!」
少女はそう捲し立てると海に飛び込もうとする。
でも、今更そんなことをしてももう遅い。
既に手を伸ばせば届く距離まで近づいている。
迷わず私に刃を突き立てていれば、そんなことしなくて済んだのに。
そう心の中で呟き、両手を差し伸べる。
そこには僅かな迷いもなかった。
彼女の手元へ向かって真っ直ぐと手を伸ばす。
……両の手がナイフをすり抜けた。
私の身体には傷一つ付いてない。
ここまで追い詰められても、あなたはそれを使わないんだね。
私の指先が、……少女の手の甲に触れた。
何本かの指を伝って、彼女の心の怯えを確かに感じる。
私はその手を包み込むように捕まえた。
「つかまーえたっ。……いこ、ここは危ないわ。」
今回はちょっと短めです