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虚無に身を任せること数分間。
私が再び目を開けた時には、世界はすっかり元の色を取り戻していた。
心は、いつもよりちょっぴりだけ晴れやかだ。
実際の空は、いつも通りの雨降りだけど、そんなことは気にしない!
今の私はとても機嫌がいいのだ。
木陰から這い出し、空を見上げる。
こんな良く雨が降る日には、誰かと鬼ごっこでもして遊びたい。
私に友達がいれば、すぐにでも追っかけ回していたところだ。
「友達……」
ふと、昨日あったフレンズのことを思い出した。
全身に傷を負った、琥珀色の目をした少女。
私は彼女に仲良くしようと言い、そして断られた。
何とかならないかと少し粘ってみたけど、答えは同じ。
しょうがないので実力行使に出ると、少女はひどく怯えた様子を見せた。
これは、私の脅しが最初の頃よりも洗練されつつある、ということだろうか。
あそこまで怖がらせるつもりはなかったんだけど……。
いくら「慣れ」ようが、不測の事態は起こるものだ。
だけど、今回のことに関しては、「慣れ」が事態を引き起こしたように思える。
相手が感じる恐怖の大きさを把握しきれていなかった私は、少しばかり対応を間違えてしまったのかもしれない。
「んーっと……あれ?」
ちょっとさじ加減を間違えただけで、私の作戦は何も失敗してないのでは…?
というか、あんなの間違いの内に入らないよ。
取り返しのつくうちは、何をしたって大丈夫。
いくら傷つけようが、最終的にその傷を癒してあげられればいい。
まだなんとかなる。
まだまだこれから。
なんかいろいろと難しく考えてた気がするけど、そんなのは全部余計なことだ。
考えた結果、後ろ向きな思考になってしまうのなら、考えない方がいいに決まってる。
前向きに生きれば、前向きに死ねるはずだから。
「よーし……」
今一度、気合いを入れ直す。
昨日、あの子は友達は作らないと言った。
どんな理由があるのかは知らないが、それでも独りは寂しいはず。
……それに、あんなに傷だらけになっても誰も助けてくれないのは、独りで生きてきたからだろう。
それなら、やっぱりこのまま彼女を一人にはしておけない。
私が傍にいて守ってあげないと。
「そうと決まれば!」
私は勢いよく立ち上がると、大きく伸びをした。
目を瞑り、深く息を吸う。
そしてそのまま、
「いつまでも孤独でいられると思うなよー!」
と、高らかに宣戦布告しようとしたが、恥ずかしいのでやっぱりやめた。
心の中で呟く程度に止めておくことにする。
「よし、行こう!」
私は雨の降り頻る森の中を、濡れることも気にせずに意気揚々と歩き出す。
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今の私はあまり気分がいいとは言えない。
生温い雨粒が全身にまとわりつき、湿った空気が肺を満たしている。
それらの不快感が、体の内外から溶け込むように、私の質量を確かに増していく。
私の足取りは、段々と重くなっていった。
「はぁ……」
雨に濡れた髪が頬にぺったりと張り付いて鬱陶しい。
私は前髪を指でかき分けながら、今日何度目か分からないため息をついた。
何も考えずに飛び出してきたけど、そう簡単に会いたい人に会えるというわけではない。
そんなこと、分かりきっていたはずだ。
この無数の木々が隔てる森の中で、人探しをするのは困難だということも。
……だから、絶対に逃がさないようにと脅しをかけたのに。
うかつだった。
虹草なんていつでも食べられた。
それなのに、私は作戦を中断してまでそちらを優先した。
もう少し時間をかければ、全部上手くいっていたかもしれないのに、楽な方へと倒れてしまった。
あれは仕方のないこと、やむを得ない事だったと言い訳をしてみても、あの後再びあの子を探しに行かなかった事の言い訳にはならない。
とりあえず今は、昨日あの子と会った辺りに向かってはいるけど…。
あれから一晩たってるんだ、今はもう遠くに逃げてしまっているだろう。
だけど、それでも……私はわずかな期待を完全に消しされずにいた。
もしかしたら、まだあの辺にいるかもしれないとか。
なんなら、逆に私のことを探してたりするかもしれないとか。
そんな、自分に都合のいい夢を見る。
そうでもしないと、私はここに立っていることもままならなくなってしまうから。
……ダメで元々。
あの子が見つからなかったら、別の子を探せばいい。
まだ大きな失敗はしてないから、まだやり直せるはず。
怖がらせるだけ怖がらせといて、そのまま放置というのは酷い話だけど、またいつか会えた時に、あれは冗談だったとでも伝えられればいい。
そういった、ダメだった時のための慰め言を考えながら歩く。
そうして歩を進める内に、昨日あの子と会った辺りまで来た。
私は、諦めと慰め言の準備を始める。
もう既に、昨日私たちが立っていた場所は見えているけど、私は足を止められずにいた。
あと一歩進めば、あの子の頭のてっぺんが見えるのではないかと、期待する。
あの子は小さいからなあ…。
すぐ近くまで行かないと見えないかも。
まあ、私も大概だけどね。
そんな独り言を小さく呟く。
今歩いている道は勾配皆無の平坦な道で、身長なんて関係ない。
いたら見えるし、いなければ見えない。
私はそんなことにも気づけないほどに、心身ともに疲れきっていた。
諦める準備に疲れた。
今に期待を裏切られると身構えるのは、とても苦しいことだった。
だから私は期待し続けることにした。
馬鹿みたいに、何の根拠のない期待を続ける。
これは、いわゆる逃げ、なのだろう。
期待を裏切られる瞬間を先延ばしにして、徐々にこの感情が薄れていくのを待つ。
そして、淡い期待が透明になって見えなくなった頃、私は歩き疲れて、落ち込む気力さえ失っているだろう。
もしそうなったら、虹草でも食べて横になろう。
そして、健全な意識を取り戻す前に、眠りについてしまおう。
そうすればきっと、期待を抱いていたということ自体を、夢の中での痛みのように忘れてしまえる。
……そんな風なことを、頭のどこかで考える。
それは少しでも心を傷つけたくないがための、完全な逃避だった。
……期待を捨てないと思ったら、ダメだった時のその先のことを考えている。
さっきから、プラスとマイナスの感情変化が激しい。
私の情緒が安定しないのは安定のことで、自分でも何を考えているのかよく分からないのもよくあることだ。
でも、少なくとも今の私が前向きな思考ではないことは明白だった。
ずっと、後ろ向きな理由で期待し続けていたけど、そろそろそれにも疲れてきた。
心の確かな疲労を認めた時、自分がいつの間にか俯きながら歩いていたのに気づいた。
これでは、見つかるものも見つからない。
……いや、最初から見つかるはずがなかったのだろう。
私は顔を上げた。
眼前に広がる見慣れない景色。
もう既に、私が歩いているのは記憶に無い道となっていた。
私は足を止める。
すると、ようやく止まった孤独な足音とともに、悲しい雨音も止んだ気がした。
辺りに静寂が訪れる。
自分の呼吸音も、何も聞こえない。
音のない世界で残されたのは、……私一人だった。
ぴちゃん
「……?」
その時、私は音を聞いた気がした。
それは、水が跳ねる音。
音のなくなった孤独な世界でただ一つ、私の耳に届き得る響き。
…それは足音のように聞こえた。
自分以外の、小さくて……孤独な足音。
私は、音の聞こえた方へ向かった。
ぴちゃん、ぴちゃん
これは、私の足音じゃない。
自分の足音なんて聞こえない。
ぴちゃん、ぴちゃん
……これは、さっき聞いた音とおなじ。
何度も、何度も繰り返し聞こえる。
ぴちゃん、ぴちゃん
私の頭の中でだけ響くその音は、どうやら記憶の中に残る一音を繰り返し聞かせているだけみたいだった。
私はそれだけを頼りに歩く。
ぴちゃん、ぴちゃん。
音が止むのと私が足を止めたのは、同時だった。
目の前には一本の木が、何かを隠すように立っている。
私はゆっくりと、その裏に回り込んだ。
するとそこには、昨日会ったあの子が居た。
身体中の傷はもうほとんど消えていたけど、あの傷だらけだった少女に間違いないと思う。
彼女は地面にしゃがみこんで、顔を伏せている。
その姿を見つけた時、ようやく世界に音が戻った。
「何をしてるの?」
何の気なしに質問をする。
私は声をかけた後で、「しまった」と思った。
急に声をかけられたら、びっくりさせてしまうかもしれない。
それなのに私は、この子を見つけられたのが嬉しくてつい、挨拶もなしに話しかけてしまった。
私の声を聞いたであろう少女がゆっくりと顔を上げる。
見たところ、驚いたような様子は無かった。
先程の心配は無用なものだったのかもしれない。
「……」
少女は無言で私の顔をただ見上げている。
その琥珀色の眼差しは、昨日見たのと同じ色をしていた。
「…………」
……少し待ってみたけど、返事はない。
仕方ないので、こちらから何か話すことにする。
話す、と言ってもなんでもいいというわけではない。
無視されてしまっては元も子もないので、相手が反応しやすいような話題を見つけなくてはならない。
………………。
何かいい話題は無いかと考えているところでふと、疑問に思った。
そもそも、彼女はこの木陰で何をしていたのだろう?
何をしていたか。
普通なら、雨宿りをしていたと考えるのが自然だろう。
それなら、「隣いいかしら?」と何気なく聞いてみるのもいいかもしれない。
それが今の私の思いつく限りの最善の振る舞い。
でもそれは、この子が本当に雨宿りをしていたらの場合に限る。
……私は、彼女がただ雨宿りをしていたとは思わない。
さっきから感じているこの違和感が、違うと言っている。
この子が選んだ木は、どうやら雨避けには不向きらしく、彼女の足元には水溜まりができている。
それはつまり、溜まりになるほどの雨粒が、枝や葉に弾かれることなくその場に降り注いでいるということだ。
雨宿りをするならもっと適した木がある。
なのに何故、彼女はこの木の下にいるのだろう。
何か……やむを得ない事情があったとか?
仮にそうだとしたらそれは何だろうと、透き通る水溜まりをじっと見つめて、頭をひねらせる。
…………。
少しして、考えたところで何も分からないと気づき、視線を上に戻した。
少女の全身が目に入る。
……私は、水溜まりの上でしゃがむ彼女の姿に既知感を覚えた。
その既知感の正体に気づいた瞬間、一つの可能性が頭に浮かび、凍りつく。
人目を避けるように木陰に隠れてすることなんて決まってる。
これはつまりそういうこと。
さっきの水音も、……そういうこと?
……もし、これらの品性のかけらもない想像が全て当たっていたとしたら。
視線を再び下へと戻す。
この水溜まりはまさか……。
ふと、少し前に私がそれをじっと見つめていたことを思い出す。
彼女はそんな私を、どんな目で見ていたのだろう。
恐る恐る視線を上に……。
……少女の表情をうかがうと、やはりというかなんというか、怪しいやつを見る目をしている。
「…………」
なんだかとても恥ずかしい場面に直面してしまった気がする。
……そんな場で私がとった行動は、気を使ってこの場から離れるでもなく、留まって、……じっと彼女の足元を見て……。
状況を整理していくうちに、先程までの悠長な態度はどこへやら消え去り、急に焦りが出てきてしまう。
とりあえず、何か言わないと……!
このままでは、この子に間違いなく嫌われてしまう。
そんな何をいまさらという感じだけど、やっぱり嫌われる要素は少ない方がいいに決まっている。
こんな出来事は、この先仲良くなる上で邪魔にしかならない。
怖い言葉で脅かしても、頑張れば警戒を解くことはなんとか出来そう。
でもこれは…?
下手をすれば、他者を意図的に恥ずかしめて喜ぶ嫌なやつだと思われてしまうかもしれない。
どうしよう……!?
できることなら、今ここで私と会ったこと自体を忘れさせたい。
でも、記憶を消すことなんてできない。
悲しいことに私はその術を持たない。
出来もしない願望を形にするために、時間を浪費してしまう。
私は、すぐ横道に逸れてしまうどうしようもない頭を、可能な限り高速回転させて、思考をする。
早く何か言わないと!…早く…早く!
「だっ、…大丈夫?」
そうして、やっとこさ発したのはそんな言葉。
「私は何も見ていない!」という強い意思を込めて声に出した。
…いや、本当に何も見ていないんだけど、何かの間違いで自分が覗き魔か何かだと思われるのはすごく困る。
だから私は、なんとか相手の警戒をときつつ、状況が何も理解出来てない風を装うために、相手を気遣うような言葉をかけたのだ。
それらしい言葉を並べてはみたけど、私が考えに考えてようやく口にしたそれは……単なるとぼけだった。