物音に気がついてふと目を覚ました。
いつの間にか寝てしまったらしい。
「……?」
ここは…何処だっけ?寝起きで頭が上手く回らない。
辺りを見回すも、視界はまだぼんやりとしている。
「ん……」
そろそろだ、と思った。
視界が段々と鮮明になっていく。そこでようやく物音の正体を視認できた。
あれは…私だ。
私がいる。
こちらに背を向け、一心不乱に何かを貪っているみたいだ。
くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。
ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。
ぴちゃん、ぴちゃん。
何かが滴る音がする。
私の口の端から涎と混じった赤い汁のような物がたれている。
まったく、なんてはしたない。
ふとそんな事を思った。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん
水音の間隔が段々と小さくなっていく。
そして────
グシャッ!
……何かが落ちた。
それに目をやると、赤黒い…木の実のようだった。
ぼんやりとソレを見詰めていると、目が合った。
「え…?」
理解し難い出来事に、なんとも間抜けな声が出る。
目が合うなんて、そんなことはありえない。
だって、木の実に目なんてある訳が無いのだから。
でも、……目はあった。
だったらこれは…果物ではない。
それが何かを理解する前に、口が動いた。
「ひ、ひとごろし」
奥歯がガチガチと音をたてているのを感じる。
そう、これは恐怖だ。
心の底から怯えている。
目の前の狂人に次は自分が殺される。
それに怯えている。
殺人鬼に出会った者が抱く、ごく自然な感情だ。
だから私は狂ってなんかいない。正常だ。
頭の中で、私が恐怖を感じる理由をなんとも言い訳がましく積み上げていく。
『信じてたのに』
『どうしてこんなことをしたの?』
潰れた木の実が憎々しげに言う。
潰れた声で、潰れた眼差しで私を責め立てる。
違う、私じゃない。
だって、私はここで見ていただけだ。
そんな私に恨み言を吐くなんて、なんて身勝手なやつだ。
「違う」
木の実が言った。
何が違うものか。
これを身勝手と言わずしてなんと言う。
「違う」
まただ。
うるさいやつめ。
いっその事、もう二度とその口が利けないように、完全に潰してしまおうか?
「違う」
「……」
三度目でようやく、何が違うのかに気づいた。
やつは、私が感じている恐怖の理由を、見透かしていたのだ。
私はなんてことをしてしまったのだろう。
自分のした事がこわくてたまらない。
もう元には戻らない、取り返しがつかない。
"私は大切な友達を……この手で、殺してしまった"
私が殺した正義の味方が今こうして、裏切り者のとってもとっても悪い私を、殺しに来たんだ。
それならしょうがないよね。
死ぬのは恐いけど、これは当然の報い。
受け入れるしかない。
……でも待って、おかしいよ?
だって、あの子は死んじゃったんだよ?
なのに、どうして。
そこでようやく気づく。
ああ、そうか。
これは夢だ。
よくあるただの悪夢だ。
「ふっ……」
それに気づいたら、眼前の光景がなんだか馬鹿らしく思えた。
夢なら目を覚ませばいい。
そして二度と思い出せないように、永遠に記憶の奥底に沈めてしまおう。
いつもみたいに。
目を覚まそうと、意識を集中させる。
次第に目の前の悪夢が滲んで見えなくなる。
私はこれから目を覚ます。
そう思った時…
『ワスレルナンテユルサナイ』
────────────────────
「ッ!」
呪いの言葉で目を覚ました。
それは、私の記憶に鮮明に刻まれてしまったようで、目覚めの前に聞いたのか、それとも後なのか、それすらももう分からない。
「また……」
いつからだろうか。
私は毎晩、悪夢を繰り返し見るようになっていた。
だからこの目覚めはもう慣れっこだ。
だけど、あの悪夢だけはどうしても慣れない。
「でも…今日のはそんなに怖くなかったかな……」
今回の悪夢は、比較的マシな方だった。
今までで一番怖かったのは、赤黒い液体で満たされた空間の中で、赤や白のおぞましい何かが浮き沈みを繰り返すのをずっと見せられる、というものだった。
そんな、見方によっては幻想的に見えなくもないような悪夢は、手足を捥がれるよりも、殺されるよりも、ずっと恐ろしいものだった。
思い出すだけでも、頭がどうにかなりそうな血なまぐさい夢。
思い出したくなかったのに、思い出してしまった。
「はぁ……」
頬に伝う雫を指で掬い、目の前に持ってくると、それは赤かった。
私は次に、視線を少しずらした。
すると、目に映るものが何もかもが赤く見える。
……これでは、汗か血の判別もつかない。
「…………」
目は覚めたはずなのに、まだ赤い。
私は今もまだ、あの赤黒い箱の中にいるのかもしれない。
だから、この景色は悪夢の延長。
私はまだ眠ったまま……。
「それなら、早く起きないとね」
皮肉混じりに呟き、体を起こす。
そして、近くにあった硬い木のようなものにもたれかかった。
「まずは、ごはん……」
足元を見ると、たくさんの草っぽい何かが生えていた。
私はその中のひとつ、虹色に光るものをちぎり、目の前に持ってくる。
「食べないとだめだよね……」
何もかもが赤くなった世界で唯一赤くない色を持つそれは、私にとって、なくてはならないものだ。
これには、食べるとおかしくなった世界を元に戻す効果がある。
……正確には、おかしくなった私自身を治す効果と言うべきだろう。
これがなければいずれ、私は私でなくなってしまう気がする。
……ほかにも、少しの間意識がぼんやりとして上手く物事を考えられなくなる、という効果もある。
でもこれは、効果というより、副作用と言うべきかもしれない。
意識が朦朧としている時にセルリアンに襲われたりしたら、逃げることも難しくなる。
だけどそれも、食べすぎなければさほど問題はない。
再び意識が明瞭になった時には頭が少し軽くなり、気分もよくなるので、デメリットよりもメリットの方が遥かに多い。
……実を言うと、唯一のデメリットであるはずの効果も、私にとっては結構嬉しい。
安心して眠ることも出来なくなった今、何も考えずにいられる時間はとても貴重だ。
……となると、この草を私が食べることで得られる効果には、有益なものしかないということになるけれど……。
しばしの間、絶え間なく変色し続ける草を睨みつける。
それを見ていると、段々と動悸が激しくなり、さらには息苦しくなってくる。
私は目を閉じ、深く息を吸った。
そして、目を瞑ったまま草を口元まで持ってくる。
……ゆっくりと口を開け……僅かに開いた隙間から草を強引に押し込み、最後に両手で蓋をした。
まずいなんてもんじゃない。
もしゃもしゃ……もしゃ…………
ゆっくりと、吐き出さないように注意しつつ噛み潰していく。
もしゃ…………………………
…………………………………………ごくん。
「…………はぁー…………ぅッ」
少し安心したところで、強い嘔吐感に襲われる。
お腹の中で何か、熱いものが蠢いているような感覚。
「きもちわるぃ……」
いつも、今日は大丈夫なんじゃないかと期待をする。
今日は、気持ち悪くはならないんじゃないかと。
期待して、……そして、裏切られる。
……でも、日に日に感じる嘔吐感が薄れていっているから、このまま行けば、いつかは感じなくなるのかもしれない。
「………………」
しばらくの間、黙って吐き気が治まるのを待つ。
………………………………。
待っていると、次第に吐き気は弱くなっていき、……やがて治まった。
今日はいつもよりも早く終わった気がする。
そう感じた私は前回までを思い出そうとしたが、上手く記憶をだどれない。
それで、
思った。
もう、始まっていると。