それは、とある夏の日の昼下がりのこと。
一人の少女が鮮血の海の中心に横たわり、狂ったように笑い声を上げる。
この世の全てを嘆くようなその響きは、時に自分自身の首を絞めあげるようにねじれ、掠れる。
その狂ったような笑い声が、どのような感情から湧き上がったものなのかは誰も知らない。
彼女自身さえも。
複雑化しすぎた彼女の心は、きっと誰にも理解しえないだろう。
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「ざまぁみろ」
私は憎々しげに小さく呟いた。
これは、私を殺そうとした彼女への悪態。
私はまだ生きている。ざまぁみろ。
思いっきり憎悪を込めて吐き出したはずなのに、心はちっとも晴れない。
「……」
……本当は分かっているはず。
彼女は、ムカデは何も悪くない。
彼女はあの子を守りたかっただけ。
だから、そんな彼女にこんな憎悪が向けられるのは間違っている。
それを理解した途端に、行き場を失った黒い感情が全て私に帰ってきた。
この醜い感情も、当然の痛みも、全部そのままの形で受け入れよう。
それだけが、今私に出来る唯一の償いのフリなんだ。
「……ざまぁみろ」
今度は間違えない。
これは、悪事がバレて懲らしめられた馬鹿な私自身への、嘲りの言葉だ。
「……ざ…まぁ……みろ」
涙が込み上げてくるのを感じる。
私はそれをぐっとこらえると、鼻をすすった。
泣くわけにはいかない。
もしここで泣いてしまったら、今以上に惨めな気持ちになってしまいかねないから。
立ち上がるために、地面に両手をつく。
身体のあちこちが痛むけど、いつまでもこんな所にはいたくはない。
「っ……」
私は立ち上がると、空を見上げた。
このままではまた泣いてしまいそうだったから。
悲しみを諦めに変えてくれる、灰色の空。
今日も、雲の切れ間からは憎々しげな視線が私を覗いていた。
「ん……」
ふいに、鼻につんとした痛みを感じた。
あんなに大嫌いだったこの痛みも、今ではなんだか可愛く思えて……。
「あはは……」
自然と笑みがこぼれた。
よし、その調子。
ポジティブなだけが私の取り柄だったはずだ。
それすらも無くなってしまったら、今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。
それは、…ダメだ。
少しだけ元気になれたところで、ようやくまともな思考回路を取り戻せた。
そして私は、今までの自分の不用心さに気づき、青ざめる。
「血、洗わないと……」
今、私の服は自分の血で真っ赤に汚れてしまっている。
こんな、全身血まみれの姿で歩き回っているのを誰かに見られでもしたら、もう二度と自分の足で歩けなくなるかもしれない。
もしそうならなかったとしても、良くない噂が立つことは目に見えている。
これだけの血を流して、平然と生きているなんてありえない。
だから私を見たフレンズはこう思うだろう。
───私が、誰かを食い殺したんだって。
でもそれは仕方の無いことだ。
だって、これは誰が見たって返り血にしか見えないから……。
目を落とし、服の汚れ具合を再度確認する。
これだけ汚れてしまっては、雨水だけでは綺麗にならないだろう。
雨なんかよりも、もっと沢山の水が必要だ。
「そうだ、川……」
川、それは沢山の水が絶えず流れる場所。
そこへ行けば、この服もある程度は綺麗にできるはず。
「私にしてはいい考えだね」
自分を元気づけようとして言ったはずの言葉が、胸に突き刺さる。
痛い。苦しい。……悲しい。
これではまるで馬鹿みたいだ。
「……そんなの、分かってるよ」
諦めるように呟くと、心がたちまちに軽くなった。
「よし、行こう」
私は酷く軽いこの心が、再び重さを取り戻してしまう前に、川へ向かうことにした。
誰にも出会わないように、あえて危険な道を通って。
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草の根をかき分け、何とか無事に川にたどり着くことが出来た。
少し時間はかかったものの、想定していたよりもずっと早く着いた。
早速、川の前にしゃがみこんで手を水に浸してみた。
すると今度は嬉しくない想定外が……。
「うぅ……つめたい」
川の水は思っていたよりもずっと冷たかった。
そのあまりの冷たさに、さっき頑張って堪えた涙が、再び滲み出してくる。
「……」
川の水を少し手ですくって、何度かスカートにかけてみたけど、ちっとも綺麗にならない。
私は少し考えて、この冷たい水の流れに足を踏み入れることにした。
ちゃぷん
静かに、ゆっくりと片足を水に沈める。
この川はそれほど深くはなく、すぐに川底に足がついた。
「冷たいけど、我慢……」
次に、スカートを持ち上げてもう片方の足を踏み出す。
二度目ということもあってか、今度は冷たさがそんなに気にならなかった。
両手をスカートからぱっと離すと、重力に従って水面にふわりと乗り、やがて水を吸って重たくなった。
私は、水中でヒラヒラと泳ぐそれをぼんやりと眺める。
「…………」
…………違う。
私が本当に見ていたのはその向こう側だ。
川底に沈む自分の面影だ。
そいつは、とても凶悪な目付きでこちらを睨みつけていた。
ぱしゃん!
私は水面を蹴った。
でも、消えない。
踏みつけても、踏みつけても、そいつは一時的に形を歪めるだけだ。
「ハァ……ハァ…………ふっ」
やつが口元を不気味に歪め、目を細めた。
その次の瞬間───。
バッシャン!
私は、冷たい水に全身を沈めていた。
ゴポゴポ……
……冷たい。
ゴポ……ゴポ……
……痛い。
ゴポッ………………
苦しい。
………………
このまま、もう少し。
……………。
ざっばぁん!
「げほっ、げほっ!…………けほっ」
冷たい水を吐き出す。
……。
少し…体温が下がったのかもしれない。
雨水が温かく感じられるから。
絶え間なく落ちてくる熱い粒が、私の全身を包み込んでいた痛みを奪って行ってしまう。
「もうちょっとだったのにな……」
無意識にそんな言葉が零れた。
これは……違う。
「もう少しで楽になれたのに」とか、そう言うのでは決してない。
本当に違うから。
誰にともなく言い訳をする。
「……どう違うの?」
それは……。
…………。
私は嘆いたんだ。
ありとあらゆる可能性を失い、最後の最後に残されたたった一つの希望をかけた、その計画の失敗を。
もう少しで、上手くいったのに。
私がやったのは、見つかれば叱られるような悪いことだったかもしれない。
だけど私には、素直に叱られて全部終わらせるなんてことは出来なかった。
突然の計画の終わりを予感して、強い焦燥にかられた私は、叱られるだけでは済まないことを言ったんだ。
目を閉じ、失敗の記憶を思い出す。
私は名前も知らないあの子を両手で抱いていた。
あの子は震えていた。
怯えていたんだと思う。
その様子を間近で見て、私は微笑む。
とても満ち足りた気持ちだった。
……そんな時だった。
背後から声をかけられた。
私が振り返るよりも早く、腕の中の少女が震える声で言った。
「ムカデちゃん、…たすけ…て」
私は振り返り、ムカデと呼ばれた少女を見た。
目を吊り上げ私を睨む彼女は、とても怒っているようだった。
お前のことは知っているだとか、その子を解放しろだとか、そんなことを言っていた。
その時、私はムカデになんて言ったんだっけ?
確か……
「あなたには関係ないでしょ?
この子はもう私の物なんだから、何をしたって私の自由。
あなたはいらない。だから、何処かに行って」
こんな感じのことを言ったと思う。
……。
これは…まあ、誰がどう見ても私が悪いだろう。
何をされても文句は言えない。
実際、罪を認めずに変に開き直った私は、酷い(当然の)仕打ちを受けている。
「……」
でも、私は懲りない。
……懲りる訳にはいかない。
今の私には、もうこれしか無いから。
途中までは上手くいってたんだ。
だから、だから……
「だから…」
…………。
今度はもう少し優しくしよう。
優しくして、仲良くなろう。
そうすれば、みんなからも本当の友達みたいに見えるはず。
友達になったら、たくさん助けてあげるんだ。
……そうして、全ての役目を終えた時、きっと私はあなたと同じ所へ行ける。
「そうだよね、…アメちゃん」
あなたの代わりになると決めたあの日から、いつか来る最期の日まで。
それまで私は、立派にあなたの人生を生きていくよ。