サンドスターによる難病治療のためにパークを訪れた子供でイエイヌとはアニマル(フレンズ)セラピーとして接していた……みたいな想像もありますね。
コトダマンのコラボに医療センターとかいう単語があったらしいですし。
まあ何にしろパークの外から来た客であって本来の生家はパークの外でしょうね。
キュルルが帽子(パークの客としての証である青い羽)を無くしたのは客としての身分=パークの外に帰らなければならないという身分を失い、パークで生きていくことの象徴のように思えます。
ヒトのパーク撤退から長い時間が経っているのであればパークの外の生家も家族も無く、ただ一人未来に取り残された子供がパークに居場所を見つけたという物語になるんでしょうが、一方でかばん含めフレンズしか暮らしていないはずの現在のパークにおいて、客=パークに存在しうる職員以外の唯一のヒトという身分すら失って、ある意味ではヒトでもけものでも無くなってしまったキュルルがとても孤独な存在にも思えます。
例えその個体が死んだりセルリアンに食べられたりしても例えば「サーバルのフレンズ」がいつまでも存在し続けるのと違って、キュルルは死んだらそれまでですし(動物としての「ヒト」のフレンズという地位はかばんが持っています)。
つまりキュルルとフレンズの間には如何ともしがたい断絶がなお横たわっているのであり、しかし、その上で如何に共生していくのか? というのがヒトと動物の関係性をテーマとした2の物語の帰着なのかなと。
イエイヌ回もそうですが「根本的な解決が不可能な問題の存在を認めた上で、少しでも生きることの質を上げるにはどうすればよいか?」という問題意識が2の根本にはあるような気がします。
キュルルが遊び道具を作るのは環境エンリッチメントを意識しているという指摘がありますが、これもこの問題意識に適合するものではあるでしょう。