作品中で提示されたテーマについてというより
作品が何を示しているかで論争が起きている感じがします
この絵が問いかけてくる事象に我々はどう答えるべきか、じゃなく
この絵は何が描いてあるんだ?という段階というか
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作品中で提示されたテーマについてというより
作品が何を示しているかで論争が起きている感じがします
この絵が問いかけてくる事象に我々はどう答えるべきか、じゃなく
この絵は何が描いてあるんだ?という段階というか
実は自分も最初見たとき、何故悲しそうなキュルルがイエイヌの「私もあの家にもといたヒトたちを待ちます」という台詞で明るい顔になったのか分からなかった。
冷静に見返したらすぐ理解できたけど、今度は「何故最初見たときは分からなかったのか」が分からなくなった。
自分の読解力が無かったせいなのか、「犬はヒトなら誰であろうと服従するんでしょ?」という先入観のせいなのか…
同じ体験をした人もそれなりにいるだろうな
悲しそうなキュルルがイエイヌの「私もあの家にもといたヒトたちを待ちます」という台詞で明るい顔になった
この「表情が変わった(イエイヌの心境の変化に気づいた)」瞬間の描写がなかった事が原因だと思います。
こう言う場合バックでイエイヌのセリフが流れていても画面はキュルルを映し続けて、暗い顔から「はっ」と表情が変わる瞬間を入れる演出が多いと思います。でも9話ではそこでイエイヌが映っておりキュルルの表情の変化が見れませんでした
その結果多くの視聴者にキュルルの表情の変化したタイミングが「おうちへおかえり」と言った時に見え、「心配だったが本人がいいと言ったから思考を放棄した」と捉えられた気がします
キュルルがイエイヌの心境の変化に気付いたシーンが無いというより、視聴者自体がイエイヌの心境の変化に気づいてないケースが多い気もするけどどうだろうか?
件の台詞を「キュルルが残ってくれるのが理想なんですけど、無理そうなんで次善の策としてもといたヒトたちを待ちますね」みたいに解釈している人が結構いる気がする
「キュルルが残ってくれるのが理想なんですけど、無理そうなんで次善の策としてもといたヒトたちを待ちますね」みたいに解釈している人が結構いる
直前のイエイヌのセリフに「仲間と離れ離れになる辛さは知っていたはずなのに(他人にそれを与えようとしてしまった)」みたいなものがあったと思うのでそれが原因かと
他人に苦痛を与えるくらいなら自分が耐え忍ぼう、みたいなニュアンスで受け取られてますね
このセリフ解釈が難しいです