本日は儒学者/蘭学者でいらっしゃる、青木昆陽氏の命日であります。
・1698年6月19日に江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋の
佃屋半右衛門氏のご子息としてお生まれになりました。
その後、浪人として京都の儒学者である伊藤東涯氏が教鞭をとられた
古義堂(別名「堀川塾」「堀川学校」)に入門されて儒学を学ばれました。
また、江戸町奉行所与力の加藤枝直(又左衛門)氏と懇意にされており、
1733年に加藤の推挙により南町奉行の大岡忠相氏に取り立てられ、
幕府書物の閲覧を許される立場に抜擢されました。
1732年、「享保の大飢饉」が発生し、日本全土に被害をもたらしました。
しかし、享保期に薩摩国では既にサツマイモが伝来し、
農耕作物として普及定着していたと推測されており、
サツマイモの栽培は人々を飢えから救っておりました。
青木氏は京都にて学ばれていた頃に書物によって甘藷(サツマイモ)が
救荒作物として重要である事を発見されたといわれております。
青木氏は甘藷を栽培して救荒食とすべき事を将軍の徳川吉宗公に上書され、
この書状が将軍に認められて甘藷の試作地として
下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(小石川植物園)、
上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)が選定されました。
青木氏が江戸へサツマイモを伝えられたのは1734年の事とされており、
1735年には著書「蕃薯考」(ばんしょこう)を発表され、
1736年には薩摩芋御用掛を拝命された事により幕臣の身分となられました。
1743年には幕府から甘薯栽培の奨励が行われた一方、
青木氏は1739年には御書物御用達を拝命されております、
サツマイモ栽培から離れられる事となりました。
その後、寺社奉行に就任されていた大岡忠相の配下に加わられ、
甲斐(山梨県)/信濃(長野県)/三河(愛知県)など徳川家の旧領の
古文書を調査され、在野の家蔵文書を収集して由緒書を研究されました。
また、収集された文書を分類/書写され、「諸州古文書」として纏められました。
青木氏の研究に使われた原本は所有者に正しく返却され、
返却の際には家蔵文書の重要性を説かれ、保存を諭されております。
後に紅葉山火番を経られて1747年には評定所儒者となられた青木氏は、
1740年に将軍から本草学者の野呂元丈氏と共に蘭語学習を命じられ、
オランダ語の習得に努められ、短期間ではあるがオランダ人や
蘭語通詞のおられる長崎に修学のために赴かれております。
青木氏は「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」などの入門書や辞書を残され、
野呂氏と共に日本の蘭学の先駆者となられました。
最晩年の弟子には「解体新書」で知られる前野良沢氏がおられます。
1767年には書物奉行に就任されましたが、後の1769年11月9日、
流行性感冒(インフルエンザ)により72年の生涯を閉じられました。
主な著書に「蕃薯考」「和蘭文訳」「和蘭文字略考」「経済纂要」「昆陽漫録」
「草盧雑談」などがあり、「国家金銀銭譜」は本邦初の金銀古銭の目録であります。
後に青木氏はサツマイモの普及の実績から“甘藷先生”と称され、
墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」が鎮座しております。
また、甘藷の試作が行われた幕張では「昆陽神社」が建てられ、
青木氏は「芋神さま」として祀られており、
九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられております。
10月23日の「おいもほりの日」でも書き込みをさせていただいた通り、
ジャパリパークではジャパリまんの材料も含めた農作物が栽培されており、
その中には様々な芋類も栽培されているものと考えられ、
サツマイモは豊富な食物繊維やビタミンCなどの栄養価の高さから、
ジャパリまんの材料としても栽培されているものと考えられます。
もし必要な収穫量が確保できれば、上記のような利用のみならず
お客様に向けての商品として販売できる事も考えられ、
例えば石焼き芋の売店からの提供も充分に考えられます。
これからの寒い時期、温かいサツマイモ料理を供される機会が増えますが、
その背景にある青木氏など多くの方々の努力を覚えておきたいものであり、
先人の方々の探究や努力に対して頭が下がる思いであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。