本日はハロウィンであります。
ここのところのウイルスの影響下でもある事から、
仮装をされた上での騒ぎといった場面が遠ざかって久しいですが、
本来は秋の収穫を家庭にて静かに祝うイベントであります。
ともあれ、おめでたいイベントにおいてもウイルスの状況を
気にしなければならないのは辛いところであります。
一日も早く、ウイルスを気にする事のない状況が戻る事を願っております。
本日は1964年に国鉄関門連絡船が廃止された日であります。
・関門連絡船とは、日本国有鉄道(国鉄)が1901年から1964年までの間、
山口県下関市の下関駅と福岡県北九州市門司区(1963年までは門司市)の
門司港駅との間を運航していた鉄道連絡船であります。
なお、航路の名称は関門航路でありました。
・関門航路は1901年5月27日に山陽鉄道によって開設された航路であります。
山陽鉄道では利用者増加のため自社沿線の瀬戸内海上に鉄道連絡船を運航する
営業政策を打ち出しており、その一環として同社の子会社である
山陽汽船商社が1898年9月1日に、徳山港と馬関港(現在の下関港)と
門司港を結ぶ鉄道連絡船「門徳連絡船」を運航開始し、
当時開通していた神戸駅~徳山駅間を運行する急行列車と接続させました。
一方、門司側ではこの当時既に九州鉄道によって
門司駅(現在の門司港駅)まで鉄道路線を開通させていたため、
この連絡船を介して本州~九州間の連絡運輸が開始されました。
その後、山陽鉄道が路線延長により1901年5月27日に馬関駅まで開業し、
これによって徳山~門司港間の鉄道連絡船を廃止した代わりに、
下関駅と門司駅を結ぶ関門航路が開設されました。
関門航路は「下関丸(初代)」と「大瀬戸丸」の2隻で運航が開始され、
山陽本線と鹿児島本線を連絡する航路は本州と九州を結ぶ最重要ルートとされ、
運航回数/輸送人員とも増加を続け、船舶も増備されました。
1906年12月1日、鉄道国有法が施行された事によって
山陽鉄道が国有化されたため、当航路も国有化されました。
輸送人員は開設10年後の1912年度には年間84万人(1日あたり約2300人)
でありましたが、大正時代末期には1日あたり1万人を越え、
その後も昭和初期の不況期を除いて増加を続け、関門鉄道トンネルが開通する
前年度の1941年度には年間880万人(1日あたり約24000人)を記録しております。
船舶については前述の二隻に加えて1914年に「門司丸」が、
1920年に「長水丸」「豊山丸」が就航して輸送力を向上させており、
関門鉄道トンネル開通直前での運航回数は53往復となっておりました。
関門航路では旅客輸送と共に貨物輸送も行っており、
貨物輸送は艀(はしけ)を用いて山陽鉄道が保有するタグボートで曳航され、
貨物の積卸は下関市の宮本組の請負でありました。
1911年、宮本組経営者の宮本高次氏は伝馬形和船に甲板と線路を取り付けられ、
7t積み貨車3両を直接積載可能の艀を試作されました。同年10月1日から
正式採用されたこの艀によって従来の貨車と艀の貨物積み替え作業を省かれ、
輸送の効率化が図られました。これは日本初の鉄道車両航送でありました。
貨車積み込み設備は下関市の竹崎と門司市の小森江に設けられ、
従来の下関~門司港間の航路は旅客/郵便/手小荷物のみの扱いとなり、
貨物輸送の運航区間は下関~小森江間に変更、関森航路と呼ばれました。
しかし、艀による輸送では接岸に時間がかかる事から、
増大する輸送需要に対応する事が難しくなってきたため、
1919年には下関の小森江桟橋に可動橋が新設され、自力航行が可能である
貨車渡船「第一関門丸」「第二関門丸」が就航する事となりました。
この時点では艀による輸送も併用されておりましたが、
1922年には小森江桟橋に可動橋を増設して「第三関門丸」「第四関門丸」が就航し、
艀による輸送は全面的に廃止される事となりました。
1926年(大正15年)には「第五関門丸」が就航したため、
「第一関門丸」「第二関門丸」は一旦は予備となりましたが、
その後は貨物輸送の需要が増大したため増発が繰り返され、
1938年からは5隻とも常時使用されるようになりました。
1942年7月1日に関門トンネルで貨物列車の運行が開始されたため、
連絡船による貨物輸送は中止されて関森航路は廃止されました。
5隻の貨車渡船は全て宇高航路に転出する事となりました。
同年11月15日に実施されたダイヤ改正により関門トンネルで旅客列車の運行も
開始されたため、関門連絡船は鉄道連絡船としての役割を失いましたが、
下関市と旧門司市のそれぞれの中心部を往復する
下関~門司港間の旅客需要のため、運航回数をそれまでの53往復から
30往復に減便して存続した一方で郵便輸送を廃止されました。
なお、第二次大戦後間もない1947年度の輸送人員は年間403万人
(1日平均約11000人)で、以後数年間は年間250万人前後で推移しております。
下関~門司間の普通列車が増発された1953年から輸送人員が毎年前年度比の
3%程度の減少傾向でありましたが、1958年に関門国道トンネルが開通し、
同時期に民間の関門汽船や関門海峡汽船の利便性が向上された事もあって
輸送人員が急減し、1955年度の輸送人員は年間205万人であったのに対して、
1959年度の輸送人員は年間110万人に減少しております。
1961年に関門トンネルを挟む山陽本線と鹿児島本線が電化され、
小郡駅~久留米駅間で電車の運行が開始された事に伴って、
同年6月15日からはそれまでの28往復から20往復に減便し、
運用する船舶も1隻のみとなりました。また、従来の船舶に代わり、
大島航路から「玉川丸」を転属させて使用し、輸送減に対応しております。
その後、1964年10月25日に廃止が告示され、
同年10月31日限りで国鉄関門連絡船は廃止される事となりました。
なお、現在も本州と九州を結ぶ連絡船事業自体は行われており、
山口県下関市唐戸と福岡県北九州市の門司港を結ぶ民営の関門連絡船が
関門汽船株式会社によって運用されております。
幾つもの島によって構成されているジャパリパークは
船舶での往来も盛んであり、それぞれの島には港が設置されております。
中でもアニメ一期の第十話から登場した「日の出港」や、
けものフレンズ3の「アンイン港フェリーターミナル」が有名でありましょうか。
古の時代から、離れた陸地を結ぶ方法として船舶は重要な手段であり、
陸路/空路の充実した時代においても往来手段を補完する役割を担っております。
また、海路での旅は陸路/空路とも異なる赴きの深さを持つものであり、
もしも余裕があるならば、ゆったりと旅を楽しみたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
鉄道連絡船は無くなってもその功績は今でも残っているのだ
みんみー