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みんみ教徒の集い / 3451

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流浪のみんみ教徒 2022/09/12 (月) 00:03:03 修正 457e0@07fb8

本日は宇宙の日であります。
国際宇宙年であった1992年に科学技術庁(現・文部科学省)と
宇宙科学研究所(現・宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)によって制定され、
公募により、毛利衛氏が日本人として初めてスペースシャトルに搭乗されて
宇宙に飛び立たれた9月12日に定められました。
「宇宙の日」と10月4日から10月10日までの「国際宇宙週間「の両方を含む1ヶ月間を
[「宇宙の日」ふれあい月間]として、後述の[「宇宙の日」ふれあいフェスティバル]や
宇宙開発関連施設の一般公開などが行われます。
[「宇宙の日」ふれあいフェスティバル]は、毎年9月中旬の週末に開催される
小中学生とその親を対象としたイベントで、イベントが初めて開催された
1993年から2001年までは「宇宙ふれあい塾」という名称でありました。
このイベントでは宇宙に関する展示や日本人宇宙飛行士などによる講演、
ペットボトルロケットの工作、作文・絵画コンテストの表彰式などが行われます。
また、2001年からは日本人が発見した小惑星のうち、
名前のない小惑星への命名も行われております。
事前に公募した名前の中から幾つかの候補に絞り込み、
当日会場に集まられた子供達の拍手が一番大きかった名前が選ばれます。
・毛利衛氏は北海道出身の宇宙飛行士/科学者でいらっしゃいます。
 1948年1月29日に北海道余市郡余市町にお生まれになり、幼少の頃は
 カマキリと水泳を苦手とされ、風呂で溺れそうになられた経験をされました。
 1961年、ソ連のボストーク1号が人類初の有人宇宙飛行に成功した際、
 飛行士のユーリイ・ガガーリン氏が発せられた
 「地球は青かった」という言葉に、宇宙に対する憧れを抱かれました。
 1963年に余市町立東中学校を卒業されて、北海道立余市高等学校に進まれ、
 同年7月20日に発生した日食をご覧になられて科学者を志望されました。
 1966年に高校を卒業後に北海道大学理学部に進学され、
 1970年に理学部化学科を卒業され、引き続き大学院化学専攻で研究を行われ、
 1972年に修士号を取得されました。その後、南オーストラリア州立
 フリンダース大学大学院理学研究科化学専攻に留学され、
 1975年に修士号を、1976年に博士号をそれぞれ取得されました。
 1980年に母校の北海道大学工学部講師に就任され、1982年に助教授
 (原子工学科高真空工学講座)に昇格されました。この間、本業の研究以外に
 当時問題となり始めた札幌市などの春先の粉塵についての研究を、
 研究室の教授である山科俊郎氏や名古屋大学の雨宮進氏らと行われ、
 この粉塵が自動車のスパイクタイヤによって
 路面のアスファルトが削られたものである事などを明らかにされました。
 1983年12月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構)が
 「1988年初め頃の飛行」を前提に、スペースシャトルに搭乗する
 初の日本人宇宙飛行士の募集に毛利氏は応募され、
 1985年に公表された最終候補者7人の中では最年長でありました。
 同年8月7日、向井千秋氏/土井隆雄氏と共に飛行士に選出され、
 事業団の所属となられて日米で訓練を受けられました。
 1986年1月28日に母親が亡くなられて、北海道の実家に戻られようとした矢先に
 チャレンジャー号爆発事故のニュースを目にされて、
 帰省を延期の上で事業団の記者会見に出席されました。
 1987年より、アラバマ大学ハンツビル校微小重力実験研究センターにて
 研究に従事されました。オーストラリアでの留学生寮生活の経験から
 対人コミュニケーションの重要性を認識されており、
 NASAでは技術者の方々だけでなく事務員の方々とも友好的な事が評価され、
 搭乗運用技術者に選抜された事に繋がったとされております。
 前述の通り、日本人宇宙飛行士によるスペースシャトル搭乗は1988年初頭を
 予定しておりましたが、チャレンジャー号爆発事故の影響で発射は中断し、
 再開後も日本人搭乗ミッションは延期されました。
 日本人によるスペースシャトルミッションの最初の搭乗者が
 毛利氏に正式に決定したのは1990年4月24日でありましたが、
 それに先だってTBSが記者をソ連のソユーズ宇宙船に乗せる事が報じられ、
 1990年12月にTBS記者の秋山豊寛氏がソユーズTM-11に搭乗された事で
 初の日本人宇宙飛行士となられました。アメリカでの訓練中に
 この一報を知られた毛利氏は「非常に刺激になった。
 私たちも日本とアメリカの最先端の技術を駆使した実験を計画しており、
 ぜひ成功させたい。」とコメントされました。
 最終的に毛利氏の搭乗ミッションは1992年までずれ込む事となり、
 9月12日から9月20日までスペースシャトルエンデバーのミッション
 (STS-47)にペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗され、
 秋山氏に次ぐ二人目の日本人宇宙飛行士となられたのと同時に、
 日本国籍保有者として初めてスペースシャトル計画に参加された
 宇宙飛行士となられました。帰還直後、毛利氏はテレビカメラの前で
 「宇宙からは国境線は見えなかった」とコメントされました。
 同年10月、宇宙開発事業団宇宙環境利用システム本部
 宇宙環境利用推進部有人宇宙活動推進室に異動されました。
 1998年にNASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を取得され、
 2000年2月12日から2月23日には、エンデバーで2度目となる
 宇宙飛行(STS-99)に参加され、ミッションスペシャリストとして
 レーダーによる地球の地形の精密な観測(SRTM)を行われました。
 2000年10月に日本科学未来館館長に就任され、
 2003年に沖縄沖にて「しんかい6500」に搭乗され、同年には世界初となる
 南極での皆既日食観測に参加され、NHKで生中継が行われました。
 2004年5月15日に行われたタウンミーティングにおいて、
 習熟度別授業に対して肯定的な意見を述べられました。
 2007年1月に南極の昭和基地を訪問された時には、
 「宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。
  (南極は)宇宙よりも遠い」場所である旨を語られました。
 2021年3月末には日本科学未来館館長を退任されております。
けものフレンズの旧アプリ版において、フレンズの源となるサンドスターは
宇宙から飛来してきたものであるとされております。
ジャパリパークのある世界においても宇宙からの影響は無縁のものではなく、
気候や気象を含めた地球環境が宇宙の様々な現象の影響下にある事は間違いなく、
それらが直接的/間接的にフレンズの皆様の暮らしに関わっているのであります。
現在も広がり続けているとされている宇宙は未知の領域があまりにも多く、
その研究や解明は永遠の課題であると言えます。
これからの宇宙研究の進展に期待がかかるところであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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