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みんみ教徒の集い / 3423

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流浪のみんみ教徒 2022/08/17 (水) 00:30:30 457e0@77276

本日は気象学者でいらっしゃる、岡田武松(たけまつ)氏の誕生日であります。
・1874年8月17日、千葉県相馬郡布佐村(現在の我孫子市布佐)の
 海産物を扱う商家にてお生まれになり、6歳で布佐初等小学校に入学され、
 課外に和算を学ばれました。14歳で上京されて東京府立尋常中学校
 (現在の東京都立日比谷高等学校)に入学され、19歳で卒業された後に
 第一高等中学校に入学され、物理学を中村清二氏らに学ばれました。
 この頃は利根川の水害が多発していた事もあって、
 防災科学や気象学に関心を寄せられました。
 1899年、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業された後に
 中央気象台(現在の気象庁)に勤務され、技手として予報課に勤務された他、
 大日本気象学会(後に日本気象学会)編の「気象集誌」に論文を発表されました。
 その翌年、各測候所の勤務者を対象とする気象観測練習会にて、
 気象学の講義を担当されました。
 1904年に中央気象台の予報課長に抜擢され、翌年5月27日に予報課長として
 日露戦争における日本海海戦当日の対馬海峡沖の天気予報を発表されました。
 岡田氏が発表された予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、
 連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報
 「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。
  本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原典とされております。
 1911年に「梅雨論」で理学博士となられ、1919年に東北帝国大学教授を兼任、
 1920年に神戸海洋気象台の創設と同時に初代台長に就任されました。
 1923年には第4代中央気象台長(現在の気象庁長官)に就任され、
 以後1941年までの長きにわたって務められました。1942年から1944年には、
 1927年刊「気象学」の姉妹編となる「理論気象学」全三巻を刊行されました。
 これは中央気象台附属測候技術館養成所(現在の気象大学校)での講義案に
 新規の資料を付け加えた気象学基礎理論でもあります。
 在任中は1910年に世界に先駆けた海上船舶の無線通信の開発、
 地震観測網の整備・海洋観測船「凌風丸」の新造、全国気象官署の国営移管など、
 気象事業の発展に尽力された他、1925年に創刊された「理科年表」には、
 気象部の監修者として名を連ねておられます。
 一方、研究者としても「気象学講話」(1936年)、「雨」(1951年)、
 「気象学」(1927年)等の数多くの研究書/入門書の執筆や後進の育成にあたられ、
 気象学者の藤原咲平氏と共に「藤原・岡田学派」の総帥として活躍されました。
 1941年7月30日に中央気象台を退職されましたが、それまでの間に
 1924年にイギリス王立気象学会よりサイモンズ金牌を授与され、
 1931年には帝国学士院会員に選出された他、
 退職後の1949年には文化勲章を受章されました。
 また、岡田氏の業績として「台風(颱風)」の命名や、
 フェーン現象に「風炎」の字を当てられた事が有名であります。
 その後の1956年9月2日、岡田氏は82年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークはその広さゆえに様々な場所において気象が変化し、
特にアニメ一期においてはサンドスターが気候にも影響を与えております。
サンドスターによって様々な気候に分かれておりますが、
気象そのものは地球の気象サイクルに倣って、晴天/曇天/雨天などの
様々な変化が劇中の描写からも確認できるはずであります。
近年の地球の気象は温暖化の影響からか極端化が進んでおり、
また、直近の天候すら予測しづらいものとなっております。
岡田氏など気象学の発展に尽力された方々は、
現代の気象をどのように感じられるのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

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