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みんみ教徒の集い / 3403

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3403
流浪のみんみ教徒 2022/08/01 (月) 00:03:03 457e0@1c55d

本日から八月に入ります。
新型ウイルスに猛暑、日々の生活を送るだけでも大変であります。
皆様、くれぐれも体調の変化などにはお気をつけ下さいませ。

本日は1924年に阪神甲子園球場が竣工した日であります。
・阪神甲子園球場は兵庫県西宮市甲子園町にある野球場で、
 「甲子園球場」または「甲子園」の通称でも呼ばれております。
 第1回/第2回大会を豊中球場で、第3回大会以降を鳴尾球場で開催していた
 全国中等学校優勝野球大会は開催を重ねるごとに徐々に注目を集めました。
 特に1923年の第9回大会では地元勢の活躍によって人気がピークに達し、
 それに伴って同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなり、
 試合中に観客がグラウンドになだれ込んで
 試合が中断してしまう事態にまで発展する事もありました。
 この事態を重く見た大会主催の大阪朝日新聞は、
 鳴尾球場を所有する阪神電鉄に対して本格的な野球場の建設を提案し、
 電鉄側も当時、申川と枝川の埋め立て地の開発の一環で
 新球場建設の計画を進めていた事から双方の利害が一致する事となりました。
・新球場の設計に当たっては当時の国内の野球場では参考になるものがなく、
 当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であった
 ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われております。
 完成するまでの仮名称は「枝川運動場」でありましたが、
 完成予定の大正13年が十干と十二支の最初の組み合わせで縁起の良い
 「甲子」の年だった事から、後に「甲子園大運動場」と命名されました。
 起工式は1924年3月11日に、同年8月1日に竣工式が行われました。
 当初は陸上競技場や球技場としても利用される事を念頭に設計されたため、
 グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、
 中堅119ないし120m・両翼110mに対し左右中間が128mもあるという、
 現在の目から見ても過大といえるサイズとなりました。
 スタンドは5万人収容と公称され、内野には高さ14.3m・50段の
 鉄筋コンクリート製のスタンドや鉄傘が設置された他には水洗トイレの設置、
 カレーライスやコーヒーの好評など、時代の先端を行く施設でありました。
 開催された大会は、こけら落としの阪神間学童運動会をはじめ、
 日本フットボール優勝大会や選抜中等学校野球大会も多くの観客を集めました。
 球場完成後も周辺の開発が進められ、遊園地/動物園/水族館などを内包する
 「甲子園娯楽場」(後の甲子園阪神パーク)、総合競技場「甲子園南運動場」、
 「甲子園庭球場」「甲子園国際庭球場」などのテニスコート、
 競技用プールの「甲子園水上競技場」などが設けられ、
 鳴尾競馬場とゴルフ場(現・鳴尾GCコース)を含めたこの一帯は
 阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなりました。
 球場自体も改良が進められ、開場以来土のままだった外野に芝が張られた他、
 1929年にアルプススタンド、1936年に外野スタンドが相次いで増築されて
 公称収容人数は7万人となり、その際にフェアグラウンドの形状が変更されて
 現在に近い形となってほぼ野球専用となりました。なお、この時期に
 球場の名称が「甲子園球場」に変更された可能性が高いといわれております。
 また、1935年には所有者の阪神電鉄によって「大阪野球倶楽部」
 (「大阪タイガース」、現在の阪神タイガース)が設立され、
 甲子園球場を活動拠点としておりました。
・その後、太平洋戦争の激化に伴い、中等学校野球は大日本学徒体育振興大会を、
 プロ野球は1945年1月の正月大会を最後にそれぞれ中断されました。
 球場や周辺施設は軍に接収され、球場は軍需工場やその関連施設に、
 球場周辺の施設も川西航空機の工場や鳴尾飛行場などに転用されました。
 1945年8月には戦火に晒され、その被害を受けた一部の箇所は
 2000年代まで残されており、現在は甲子園歴史館に展示されております。
 終戦後は鳴尾飛行場と共にアメリカ軍に接収されたため甲子園は使用できず、
 1946年は一部の試合が阪急西宮球場で代替開催されたのみでありました。
 翌1947年にはスタンドの一部とグラウンドの接収が解除されたため、
 春と夏の中等学校野球大会やプロ野球が再開され、
 甲子園ボウルの第1回大会も開催されました。
 また、周辺施設の土地は住宅等に転用され、阪神電鉄関連のレジャー施設は
 プールと移転阪神パークのみに縮小されました。
 なお、球場全ての接収が解除されたのは1954年でありました。
・1948年にはプロ野球においてフランチャイズ制が暫定導入され、
 甲子園球場は大阪タイガースのホーム球場とし、自前の大規模球場を持たない
 南海ホークスと共に主催試合の殆どが甲子園球場で行われるようになりました。
 なお、南海電鉄は中百舌鳥球場を所有しておりましたが立地条件が悪いため、
 戦後からこの年までは公式戦を甲子園球場及び阪急西宮球場にて開催し、
 1950年からは大阪市内に新設された大阪スタヂアムに移転しております。
 1950年のセ・パ2リーグ制以降は、甲子園球場は阪神タイガースを中心に
 セ・リーグの公式戦のみが行われ、2リーグ制以降で甲子園で行われた
 パ・リーグの主催試合は2011年の楽天対オリックス戦が初でありました。
・その後の時代はナイター施設の新設、座席やスコアボードの改修がなされ、
 特に1976年からは数年かけて座席の更新が行われた他、1990年代に入ると
 グラウンドの大きさの見直しなど当時の基準に合わせる改良が行われました。
 しかし施設の老朽化や陳腐化、建物の耐用年数を考慮すると、
 建て替えもしくは全面的な改修が必要な事が明白となり、
 様々な案が検討された中にはドーム球場化というものもありました。
 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、スタンドの一部に亀裂などの
 被害が出たものの基礎部分は問題なく、同年の選抜大会開幕を前に
 被害箇所のみの補修が行なわれ、大会は予定通り開催されましたが、
 地震被害やバブル崩壊などの影響からドーム建設事業は白紙撤回となりました。
 その後、改めて球場本体の構造強度の検査結果を踏まえた上で、
 基礎部分のみを残しての大規模改修が行われる事となり、
 2005年11月に正式発表、2007年秋から着工、2010年春に完了しております。
 その後も周辺環境の整備は進められ、甲子園駅のリニューアルが完了した
 2017年頃から2020年にかけて駅前広場から球場までのアプローチ/
 商業施設/円形広場/バスターミナルが整備された他、
 2021年には甲子園筋に面するレフト側球場外周のフェンスの一部撤去、
 2022年には球場南側の別館兼商業施設「甲子園プラス」の開業など、球場敷地と
 周辺環境の一体化を目指す「ボールパークエリア構想」が進められております。
けものフレンズの二次創作におけるタグ「野球解放」において、
阪神タイガースの担当はもちろんトラ様であります。
今年のタイガースはスタートから大幅な負け越しからでありましたが、
オールスター前には勝率を5割に戻すまで復調しております。
阪神タイガースもトラ様もリーグ制覇をまだまだ諦めておりません。
ここ2~3年は新型ウイルスの影響で甲子園での試合が不可能であったり、
試合ができても無観客という状況がありましたが、
直近では多くの観客の方々を招いて試合ができる状況となっております。
しかし、観客の本来の盛り上がり、特に甲子園のそれは特別であり、
それが完全にはできない状況がもどかしく思えるのも確かであります。
1日も早く、本来の盛り上がりが戻ってくる事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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