本日は農学者でいらっしゃる、ルイス・ベーマー氏の命日であります。
明治初期のお雇い外国人として長きに亘って貢献された人物でいらっしゃいます。
・1843年5月30日にドイツ北部・ハンブルク近郊の
リューネブルクにてお生まれになり、後に同市内のギムナジウムを卒業された後、
宮廷庭師の下で修業を積まれてハノーファーの王室造園所などに勤務され、
王室の庭園への就職を目指されました。しかし、1867年の普墺戦争勃発による
戦禍を避けるためにアメリカに渡られて、ニュージャージーを振り出しに
上級園芸家として各地の造園業者の下で働かれた後に定住を決意されて、
ニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリーに就職されました。
1871年1月に渡米された開拓次官の黒田清隆氏の要請に応えて
開拓使顧問に就任されたホーレス・ケプロン氏は、知人で園芸商の
ピーター・ヘンダーソン氏が推薦されるベーマー氏を果樹園芸や
植物生育分野の技術者として雇用されました。
1872年3月26日、ベーマー氏は横浜に到着された後に、東京・青山にある
農業に関する試験/普及機関「官園」に勤務される事となりました。
官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせた後に
北海道へ移送する為の中継基地の他、外国の農業技術を導入するための
施設としての役割も担っており、外国人指導者による技術者養成、
様々な試験/実験、啓蒙や普及といった活動も行われておりました。
ベーマー氏は農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の
主任として指導されておりましたが、ベーマー氏着任の1年後に牛/馬/豚/羊など
家畜の飼育を行われる第三官園の主任としてアメリカから来日された
獣医師のエドウィン・ダン氏と交友を深められました。
1874年5月19日、ベーマー氏はケプロン氏の指示のもと、
蒸気船で北海道に出発された後に21日に函館に上陸され、
10月19日に離道されるまでの5ヶ月間、全道各地を精力的に廻られて
植物相の調査や標本の採集を行われました。また、その途中で
ホップの自生を発見された事から、北海道でのホップ栽培が有望と判断され、
これが後の札幌におけるビール工場開設に寄与する事となりました。
札幌の官園に立ち寄られたベーマー氏は、翌1875年から始まる果樹苗の
一斉配布に供えて生徒に接ぎ木の方法や栽培の要点を細かく指導されました。
その後、東京の官園に戻られたベーマー氏は、様々な果樹の中でも
リンゴが北海道の気候風土に最も適していると判断され、
4万本に及ぶ苗木の受け入れと北海道への移送の準備を進められました。
実践的指導の功績からベーマー氏は1876年に札幌の官園への異動を命じられ、
ダン氏と共に同年5月22日に出発されました。
北海道におけるベーマー氏の業務は多岐にわたり、
開拓使葡萄酒醸造所の開設に伴う葡萄の品種選定や葡萄園作り、
本格的な洋風温室の設計、偕楽園内の庭園建設の指導、豊平館の庭の設計、
多くの作物の定着や発展への寄与など、その貢献は多大なものでありました。
1882年3月12日、北海道を後にされたベーマー氏は、同年4月27日に
横浜に転居届けを出されて輸出入園芸業の「ベーマー商会」を設立されました。
本格的温室を建設された後に日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の
輸入培養を行われたベーマー氏は海外への販路は拡大されると共に、
直貿易に近い形で日本側に大きな利益を取れるように尽力された結果、
ベーマー商会は大きな成功を収める事となりました。
横浜で園芸商として成功を遂げられたベーマー氏でありましたが、
体調を崩された事によってドイツで療養される事となり、
1892年から共同で経営されていたアルフレッド・ウンガー氏に会社を譲られ、
1894年10月13日に日本を後にされました。その後の1896年7月29日、
療養地のブラッケンブルクにて53年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークではジャパリまんの製造などのために、
様々な種類の農作物が栽培されております。
それに際しては、広大な敷地を持つパーク内であっても
農作物の種類によって適した土壌の条件などがそれぞれ異なる場合があるため、
栽培の際には農業に精通された方々による助力が欠かせないはずであります。
パークの職員の中には農業分野のエキスパートが在籍されていると思われます。
北海道は日本を代表する農産地の一つでありますが、
その背景にはベーマー氏を含めた多くの方々による努力および歴史があります。
現代よりも難しい条件であった時代における、
先人の方々の努力や情熱に改めて敬意を表します。
本日もお祈りいたします、みんみー。