本日は旅の日であります。
1689年のこの日(旧暦・元禄2年3月27日)に、松尾芭蕉氏が
弟子の河合曾良氏と共に「おくのほそ道」の旅へ出発された事に因んで、
日本旅のペンクラブによって1988年に制定されました。
ともすれば忘れがちな旅の心を、そして旅人とは何かという思索を
改めて問いかける事を目的としております。
毎年この日には、旅の文化の向上に寄与したと認められる
団体/個人/行政機関等に贈呈される「日本旅のペンクラブ賞」を選定し、
「旅の日」川柳の募集と大賞選定が行われております。
なお、「おくのほそ道」については2021年6月29日に
書き込みをさせていただいております。
・松尾芭蕉氏は江戸時代前期の俳諧師でいらっしゃいます。
1644年、伊賀国阿拝郡にて柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門氏の
次男としてお生まれになり、13歳の時に父親が亡くなられてからは
兄の半左衛門氏が家督を継がれましたが生活は苦しい状況であり、
1662年に伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清氏の嗣子、
主計良忠氏に仕えられ、厨房役または料理人を務められました。
その頃に主計氏と共に、京都におられた北村季吟氏に師事されて
俳諧の道に入られました。1664年には松江重頼氏の「佐夜中山集」に、
貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集されております。
1666年に主計氏が亡くなられてからは修行で京都へ赴かれる他は、
上野に止まられていたと考えられております。
1672年には処女句集「貝おほひ」を上野天神宮に奉納され、
1674年に北村氏から卒業の意味を持つ俳諧作法書
「俳諧埋木」を伝授された事を機に江戸へ向かわれました。
江戸に移られてからのお住まいの場所には諸説ありますが、
江戸在住の俳人の方々と交流を重ねられました。
1677年に水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わられ、
その年もしくは翌年には宗匠となられて職業的な俳諧師となられ、
江戸や京都の俳壇と交流を持たれながら多くの作品を発表されました。
しかし1680年には突然、深川に住まいを移され、
「芭蕉」という号を名乗られたのはこの頃とされております。
1682年12月28日の「天和の大火」で庵が焼失してしまった後は、
甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老・高山繁文氏に招かれましたが、
翌年5月には江戸に戻られて冬には芭蕉庵は再建されるも、この出来事を機に
隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを覚えられたようであります。
1684年8月、門人の千里(粕谷甚四郎)氏と共に「野ざらし紀行」の旅に出られ、
江戸に戻られたのは翌年4月でありました。1686年の春に芭蕉庵で催された
蛙の発句会にて披露されたのが「古池や蛙飛びこむ水の音」であります。
1687年8月14日からは弟子の河合曾良氏と宗波氏と共に「鹿島詣」に向かわれ、
同年10月25日からは伊勢へ向かう「笈の小文」の旅に出発されました。
1687年2月からは伊勢神宮への参拝や京都等への旅へと赴かれ、
京都から江戸への復路は「更科紀行」として纏められました。
西行氏500回忌に当たる1689年3月27日から「おくのほそ道」の旅に出られ、
約2400kmの旅を終えられたのは8月下旬の事でありました。
1690年からは膳所藩/滋賀郡国分、翌年4月からは京都に移られた後に
5月から「猿蓑」の編纂を開始されて7月3日に刊行されました。
同年10月29日に江戸に戻られた後、1693年夏に体調を崩されましたが、
翌年4月に「おくのほそ道」を仕上げられ、6月に「すみだはら」を編集されました。
秋頃に体調を崩され、10月5日に住まい花屋仁左衛門氏の貸座敷に移され、
門人の方々の看病を受けられましたが体調が戻る事はなく、
10日には遺書を書かれ、12日の申の刻(午後4時頃)に生涯を閉じられました。
・日本旅のペンクラブは1962年6月28日の創立以来、
旅の文化の向上を目指すと共に、自然環境保護や地域活性化のため、
取材例会、観光振興への提言など様々な活動を続けている団体であり、
会員133名、会友(旅館/民宿/飲食店店主など)33名で構成されております。
主な事業は、取材例会の開催、会報「旅びと」の発行、観光資源の研究調査、
セミナーなどの開催、「旅の日」「日本旅のペン賞」等の主催などであり、
上記の事業を達成するために個別の委員会が設置されております。
けものフレンズの物語の主な内容は、主人公およびフレンズの方々が
様々な目的を達成されるために広大なジャパリパークを旅されるものであります。
その旅は様々な出逢いと別れ、驚きと発見に満ちたものであり、
その世界は物語を追体験されるプレーヤーを引き込む魅力を備えております。
旅は人生に更なる深みを与えるものであります。
様々な場所を巡って出逢いを重ねていきたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。