本日は1965年にソビエト連邦の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフ氏が
人類史上初となる船外活動が行われた日であります。
・アレクセイ・アルヒポヴィチ・レオーノフ氏は
ソビエト連邦出身の軍人/宇宙飛行士でいらっしゃいます。
1960年、レオーノフ氏はユーリイ・ガガーリン氏らと共に、
ソ連初の宇宙飛行士として空軍から選抜されました。
1965年3月18日午前7時にパベル・ベリャーエフ大佐と共に搭乗された
ヴォスホート2号はバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、
レオーノフ氏は午前8時34分より約10分間にわたって船外活動を行われ、
これが人類史上初の宇宙遊泳となりました。
ヴォスホート2号は3月19日に帰還しております。
1968年からはソ連の月接近飛行計画及び月着陸飛行計画の
メンバーに選抜されましたが、宇宙船の開発の遅延と
アメリカのアポロ計画の成功により、これらの計画はキャンセルされました。
1971年に打ち上げられたソユーズ11号は当初、レオーノフ氏を船長として、
ワレリー・クバソフ氏、ピョートル・コロディン氏を加えた3人が搭乗されて
サリュート1号へ向かう予定でありましたが、打ち上げの4日前に行われた
X線検査でクバソフ氏が結核に感染されている事が判明し、
規定によりバックアップのクルーの3人と交代する事となりました。
しかし、ソユーズ11号が地上へと帰還する際、
帰還モジュールに装備されていたバルブの欠陥による空気漏れ事故が発生し、
交代したクルー3人が全員亡くなられるという悲劇に見舞われてしまいました。
レオーノフ氏は、バルブがしばしば誤作動を起こしていた事を認識されており、
突入前の宇宙船との交信で、自動ではなく手動でバルブを操作するようにと
アドバイスされておりましたが、結局バルブの操作は自動のままとなり、
これが事故の原因となりました。レオーノフ氏は、自身が搭乗していれば
事故は起こらなかったと自責の念にかられたといわれております。
1975年にはソユーズ19号に搭乗され、アポロ18号とのドッキング
(アポロ・ソユーズテスト計画)を行われました。
1976年以降は宇宙飛行士の育成にあたられ、1991年に引退されました。
レオーノフ氏は宇宙開発の任務に携わられていた時期から、
趣味として宇宙などを題材とした絵画を描かれておりました。
また、数回の来日経験があり、1980年に放映された
日本の教育テレビスペシャル「人間は何を作ってきたか 交通博物館の世界」の
「ロケット」の回でロシア~ソ連のロケット開発の歴史を紹介される
ホスト役としてソ連国内でのビデオ収録で出演されました。
この当時はソ連の有人月旅行計画が公にされていなかったため、
番組中では「ソ連は有人の月探査を考えていなかった」という
事実とは異なる(当時のソ連の公式の)説明を行われました。
レオーノフ氏は大変気さくなお人柄で、2003年日本では初めて開催された
「第18回世界宇宙飛行士会議」のトークセッションでは、
通訳を介する事を忘れられるほど熱意をこめて宇宙への思いを語られました。
また、世界宇宙飛行士会議の会場となった東京の日本科学未来館には、
展示されているご自身の写真にロシア語と共に日本語のカタカナで
「レオノフ」とサインを残されております。2019年10月11日、
レオーノフ氏はモスクワの病院にて85年の生涯を閉じられました。
これまでに幾度も書き込ませていただいた通り、ジャパリパークは
海底火山の噴火によって出現した島をそのまま動物園施設としたものであります。
パークの建設に至る経緯は明らかとなっておりませんが、
サンドスターが発生する島の発見は大きなきっかけであったと想像できます。
サンドスターそしてフレンズという未知の存在は、
人間と動物の関係に一石を投じる事となるかもしれません。
「歴史に残る偉業」というものは後世になって認められるものであり、
未知の分野へのチャレンジは常に手探りであり、困難の連続でもあります。
しかし、自らの信念を貫いた先にこそ道は拓かれるものであり、
世界の歴史はそうした事の積み重ねによって紡がれているのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。