本日は玄奘(げんじょう)氏の命日であります。
・玄奘氏は唐代の中国の訳経僧でいらっしゃいます。
「玄奘」は戒名であり、俗名は「陳禕」(チンイ)であります。
諡(おくりな)は大遍覚で、尊称は法師、三蔵などであります。
隋朝の602年、洛陽にほど近い洛州緱氏県
(現在の河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)にて陳慧(または陳恵)氏の
四男としてお生まれになり、父親から「孝経」を習われましたが、
その父親が10歳の時に亡くなられ、次兄の長捷氏が出家されて
洛陽の浄土寺に住むようになられたのをきっかけに自身も浄土寺にて学ばれ、
11歳にして「維摩経」と「法華経」を修められました。
その後、度僧の募集に応募しようとされましたが年齢が若すぎたために
試験を受ける事ができず、陳禕氏は寺の門ので待ち構えられました。
これを知られた隋の大理卿である鄭善果氏は陳禕氏に様々な質問をされ、
最後になぜ出家したいのかを尋ねられたところ、陳禕氏は「遠くは如来を紹し、
近くは遺法を光らせたいから」と答えられました。
これに感銘を受けられた鄭善果氏は特例で試験を認められ、
陳禕氏は度牒(僧尼に交付される身分証)を得られて出家される事となり、
兄と共に浄土寺に住み込まれ、「涅槃経」と「摂大乗論」を学ばれました。
618年、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘氏は
兄と長安の荘厳寺へと移られましたが、長安は街全体が戦支度に追われ、
玄奘氏の望むような講釈はなく、やがて洛陽にお集りの名僧の方々が
主に益州に散らばっている事を知られ、益州巡りを志して619年に兄と共に
成都にて「阿毘曇論」を学ばれました。また、益州各地に先人を尋ねられて
「涅槃経」「摂大乗論」「阿毘曇論」の研究を進められ、
歴史や老荘思想への見識を深められました。
622年、21歳の玄奘氏は、ここまで行動を共にしていた兄が
成都の空慧寺に留まられる事となったので一人で旅立たれる事となりました。
その後、荊州の天皇寺にて学ばれ、先人を求めて相州へ向かわれ、
さらに趙州にて「成実論」を、長安の大覚寺にて「倶舎論」を学ばれました。
玄奘氏は「仏典の研究には原典に拠るべきである」と考えられ、
また、仏跡の巡礼を志されて629年に唐王朝に出国の許可を求められました。
しかし、国内情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、
役人の監視を逃れられながら密出国されて高昌に到着されました。
高昌王である麴文泰氏は熱心な仏教徒であり、当初は高昌国の国師として
留めおこうとされましたが、玄奘氏のインドへの強い思いを知られ、
金銭と人員の両面で援助され、通過予定の国王に対しての保護/援助を求める
高昌王名の文書を持たせる事とされました。
玄奘氏は中央アジアの旅を続けられ、インドに到着される事となりました。
インドにて様々な学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につかれ、
出国から16年を経た645年に玄奘氏は657部の経典を長安に持ち帰られました。
幸いにも唐の情勢は大きく変わっており、皇帝の太宗氏も玄奘氏の業績を
高く評価され、密出国の件について罪に問われる事はありませんでした。
密出国が咎められなかった別の理由として、玄奘氏が西域で学ばれてきた情報を
政治に利用したい皇帝の思惑があったとする見方もありました。
事実、玄奘は帰国後に皇帝の側近として国政に参加するよう求められましたが、
国外から持ち帰られた経典の翻訳を第一の使命と考えていたため
皇帝の要請を断られ、皇帝もこれを了承されました。その代わりに皇帝は
西域で見聞された諸々の情報を詳細にまとめて提出する事を命じられ、
これに応じられる形で後に玄奘氏が編纂された報告書が「大唐西域記」であります。
帰国後の玄奘氏は持ち帰られた膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げられ、
皇帝の勅命により645年2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始されました。
この事業の後に拠点を大慈恩寺に移され、持ち帰られた経典や仏像等を保存する
建物の建設を次の皇帝・高宗氏に進言されました。652年、大慈恩寺に
大雁塔が建立されました。その後に住居を玉華宮に移されましたが、
翻訳作業は亡くなられる直前まで続けられ、経典群の中で最も重要とされる
「大般若経」の翻訳を終えられた100日後となる
664年3月7日に玄奘氏は生涯を閉じられました。
・元代に成立した小説「西遊記」は、「大唐西域記」や「大慈恩寺三蔵法師伝」を
踏まえた上で書かれており、玄奘氏は三蔵の名で登場されております。
そして後年、これをモチーフとした創作作品が製作されております。
けものフレンズにおいて西遊記からイメージできるフレンズの方といえば、
これまで様々な作品にて活躍しておられるキンシコウ様と、
つい先日「けものフレンズ3」にて登場されたソンゴクウ様であります。
ソンゴクウ様はキンシコウ様とアイアイ様の師匠でいらっしゃる事もあり、
お二人とのエピソードも気になるところであります。
創作である「西遊記」は日本でもよく知られる作品であり、
現在もなお親しまれております。本日はその「西遊記」のモチーフとなる
歴史に目を向けられるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。