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みんみ教徒の集い / 3192

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流浪のみんみ教徒 2022/01/28 (金) 00:03:03 457e0@a3db7

本日は934年(旧暦・承平4年12月21日)に
紀貫之氏が「土佐日記」の旅に出立された日であります。
・紀 貫之(き の つらゆき)氏は、平安時代前期から中期にかけて
 活躍された貴族、そして歌人でいらっしゃいます。
 「古今和歌集」の選者のお一人で、三十六歌仙の一人に数えられております。
 下野守(下野国の国司)の紀本道氏の孫にあたり、(律令制における官職)
 紀望行氏のご子息としてお生まれになり、幼名は「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」
 であったと云われております。これは母親が内教坊(律令制における官職)の
 出身でいらっしゃったので、このように称されたと云われております。
 905年、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を
 紀友則氏/壬生忠岑氏/凡河内躬恒氏と共に撰上されました。
 また、仮名による序文である仮名序を執筆されております。
 (真名序を執筆したのは紀淑望(よしもち)氏)
 「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
 で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えております。
 また、「小倉百人一首」にも和歌が収録されております。
 貫之氏は理知的分析的歌風を特徴とされ、家集「貫之集」を自撰されております。
 日本における文学史上において、少なくとも歌人として
 最大の敬意を払われてきた人物であり、様々な点にて実例が挙げられますが、
 勅撰歌人として「古今和歌集」(101首)以下の勅撰和歌集に
 435首もの和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、
 三代集時代の権威と言える存在であったとされております。
 散文作品としては「土佐日記」があります。日本の日記文学において
 完本として伝存するものとしては最古のものであり、
 その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えております。
 作品を世に送り出されながら様々な官位を歴任された後、
 945年6月30日(旧暦・天慶8年5月18日)に生涯を閉じられております。
・「土佐日記」は、平安時代に成立した日本最古の日記文学の一つで、
 紀貫之氏が土佐国から京に帰られる最中に起きた出来事を
 ジョークを交えられながら綴られた内容であり、
 完成されたのは934年頃とされております。
 日本文学史上おそらく初めての日記文学であり、
 その内容は紀行文に近い要素を持ち合わせております。
 後の世代の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えており、
 「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」などの作品にも
 影響を及ぼした可能性が高いとされております。
 930年から934年)にかけての時期、貫之氏は土佐国に国司として赴任され、
 その任期を終えて土佐から京へ帰られる貫之氏ら一行の
 55日間の旅路と思われる話を、書き手を女性に託され、
 殆どを仮名表現で日記風に綴った作品となっております。
 57首の和歌を含む内容は様々でありますが、
 内容の中心となるのは土佐国にて亡くなられたご息女を思われる心情や、
 旅の行程が遅れて帰京に対してはやる思い等であり、ジョークや駄洒落などの
 ユーモアを多く用いられている事も特筆される点となっております。
 成立の過程は不明でありますが、貫之氏はおそらく帰京の途上にて
 漢文の日記をつけられ、「土佐日記」を執筆される際において
 その漢文の日記を参照されたと考えられておりますが、
 「土佐日記」そのものは虚構を交えた作品となっており、
 実際の出来事を基にした文学作品という立ち位置となっております。
けものフレンズの各作品は、目的こそ異なれど、物語の主な内容は
登場人物達が目的を達成されるべく旅をされている事そのものであります。
その道のりは決して平坦ではありませんが、様々な困難に立ち向かわれながら
目的達成に向けて進まれる方々の姿は、強く美しいものであります。
旅は人生をより輝かせてくれる大きな経験であり、
そして旅を通じて得られたものは、一生の財産となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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