本日は1976年に沖縄国際海洋博覧会が閉幕した日であります。
・沖縄国際海洋博覧会は、沖縄返還、沖縄県の日本本土復帰記念事業として
沖縄県国頭郡本部町にて1975年7月20日~1976年1月18日までの
183日間にわたって開催された国際博覧会(特別博)で、
「沖縄海洋博」「海洋博」などの略称でも呼ばれております。
1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)を契機に、
沖縄の日本復帰記念事業として「海」および「海洋」をテーマに
国際博覧会を開催する構想が生まれ、その後水面下で準備が進み、
1972年5月1日に「沖縄国際海洋博覧会特措法」が施行されました。
その後、開催期間や会場面積、シンボルマーク等が決定し、
1973年3月2日に起工式が開催されました。
オイルショックに伴い会期が変更および延長されましたが、
1974年夏からは海外出展の受け入れが、1975年7月9日から
報道公開が開始され、同年7月20日に博覧会開幕となりました。
・「海-その望ましい未来」が統一テーマであり、日本を含む36ヵ国と
3つの国際機関が参加し特別博としては当時の史上最大規模となりました。
会場規模は100万㎡(陸域75万㎡/海域25万㎡)で、期間中は県内の至る所に
「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立てられておりました。
博覧会会場は海岸沿いの非常に細長い敷地であったため、
会場内のアクセス向上策としてKRTやCVSなどの新交通システムが
日本で初めて試験的に導入されました。
海洋博開催によって、沖縄県の列島改造というべき開発が劇的に進み、
現在の沖縄自動車道の一部区間整備や各国道の拡幅工事などが
開催期間に向けて急ピッチで進められた他、ホテル日航那覇グランドキャッスル
(現・ダブルツリーbyヒルトン那覇首里城)や、沖縄ハーバービューホテル
などの大型ホテル、ゼファー那覇タワーなどの観光施設は
全てこの博覧会に合わせて建設されました。特にゼファー那覇タワーは、
2007年8月にD'グラフォート沖縄タワーに抜かれるまで、
沖縄県で一番の高さを誇るビルでありました。
・場内は「海に親しむ」をテーマとした「魚のクラスター」、
「海に生きる」をテーマとした「民族・歴史のクラスター」、
「海に開く」をテーマとした「科学・技術のクラスター」、
「海を行く」をテーマとした「船のクラスター」の4つのゾーンで構成されており、
国内出展/海外出展/その他の様々な施設がお客様を楽しませました。
展示施設の中でも最大の目玉とされたのが、未来型海洋都市のモデルとなる
人工島「アクアポリス」でありました。アクアポリスはそれ自体が展示物であり、
内部はアミューズメント的な仕掛けが存在しない施設でありました。
また、会場には1975年7月1日~1976年1月31日の間、
「沖縄海洋博郵便局」が設置されておりました。
なお、この博覧会のマスコットキャラクター「オキちゃん」は、
オキゴンドウまたはバンドウイルカをモチーフとしております。
・450万人の目標に対して最終的な入場者数は約349万人となり、海洋博を契機に
様々な商売を考えておられた方々にとっては不満が出る結果となりました。
会場内でグッズ類が投売りに近い値段で安売りされる光景は、
ドキュメンタリー映像として後年にテレビ放映されました。
また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、陸地の泥土の海への流出を招き、
サンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染を引き起こす事となりました。
・海洋博終了後、跡地は「国営沖縄海洋博覧会記念公園」となりました。
博覧会施設の一つ「海洋生物園」は博覧会終了後から
「国営沖縄海洋博記念公園水族館」、1987年から「国営沖縄記念公園水族館」と
名称を変えながら公園内の中核施設として営業を続けてきましたが、
老朽化により2002年に建物自体も建て替えられて
現在は「沖縄美ら海水族館」となっております。アクアポリスは2000年10月、
再生用金属としてアメリカの企業へ売却される事となり、
同月23日に現地を離れ、解体場所の中国・上海へ向けて海上曳航されました。
けものフレンズには「オキちゃん」のモチーフとなった
バンドウイルカを含めた海洋生物のフレンズの方々もたくさんおられます。
フレンズの姿となられて以降は陸上での生活においても
不自由を感じられる事は少ないかと思われますが、元の動物と同様に、
やはり慣れ親しんだフィールドが望ましいであろうと思われます。
今や、けものフレンズ等のコンテンツや様々な資料等によって、
海洋関係の様々な知識を得る事が可能となっておりますが、
博覧会等のイベントは日常とは違う場所で
楽しみながら知識を得られる特別な機会であります。
頻繁に行われるイベントではありませんが、
機会があれば是非とも訪れてみたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。