本日はゆかたの日であります。
兵庫県城崎町の城崎温泉にて行われる夏祭り「城崎温泉夏物語」の中で、
例年8月4日に「城崎温泉ふるさと祭り花火大会」が行われる事に因んで、
城崎温泉観光協会によって制定されました。
この時期に行われるお祭りには浴衣が似合う事から、
同協会は「ゆかたの似合う街」としてPR活動を行っております。
・城崎温泉は兵庫県豊岡市城崎町にある温泉で、
有馬温泉や湯村温泉と共に兵庫県を代表する温泉でもあります。
泉質は食塩泉で、源泉温度37℃〜83℃。
7つある外湯を巡るスタイルを主とした温泉となっており、
浴衣に下駄履きが正装とされております。
木造3階建ての旅館が連なる温泉街の町並みは、
豊岡市による景観条例を適用して保護されております。
・舒明天皇時代の629年、コウノトリが傷を癒していた事によって
発見されたという開湯伝説があります。奈良時代初期の717年に
同地を訪れた仏教僧侶の道智氏が千日間の修行を行われた末、
720年に湧出した事が城崎温泉の始まりとも伝えられております。
道智上人は「温泉寺」を開山された事でも知られており、
以降、温泉寺は城崎温泉を象徴する存在となっております。
江戸時代、外湯の元になった湯壷が9つあり、温泉街には遊技場の他に
鍋焼き/ぜんざい/うどん/そば等の飲食店が軒を連ねておりました。
また、各地から果物/魚/鳥が運ばれ、フグ/タコ/鴨も手に入りました。
貸し物屋では三味線/すごろく/碁/琵琶/琴、更に槍や刀まで扱っており、
帰るのを忘れさせるほどに観光客をもてなしておりました。
また、近郊の藩主や藩士の方々も多数訪れ、大いに賑わいを見せました。
日露戦争の折には傷病兵のための寮養所を設置したため、
明治維新以降続いていた深刻な不況も影を潜める事となりました。
明治時代以後も文人墨客に愛され、「城の崎にて」で知られる志賀直哉氏や
有島武郎氏をはじめとする文豪の方々が来訪されました。
1925年の北但馬地震で町は全焼してしまいましたが、
翌月には早くも客が城崎を訪れ、湯が沸いている限り客足は絶えませんでした。
現在の和風木造3階建ての町並みの多くは、この当時そのままの建物または
当時の復興時の建物に由来しております。この震災まで旅館には内湯がなく、
観光客は温泉街の各所にある外湯に通っておりました。
1927年に三木屋旅館が震災復興の際に敷地内で掘り当てた泉源を利用して、
城崎初の内湯を新築の旅館内に設置したところ、温泉地の伝統を壊すものとして
裁判沙汰となり20年以上にわたる紛争へと発展する事となりました。
1950年になってようやく和解が成立し、内湯の設置を認める代わりに
その規模を制限し、大浴場を希望する客は従来通り外湯に通う事としました。
また、私有地の源泉を含む全ての源泉を旧・城崎町「湯島財産区」が一括管理し、
新たに掘削に成功した源泉の内湯への配湯を開始しました。
また、1972年には新たに掘削した泉源を含めて上水道のような
「温泉集中配湯管理施設」を構築し、各外湯や各旅館に向けて
バイプを通じて供給するシステムを確立しております。
これらの改革により各旅館に内湯の設置が相次ぎ、
現在はほぼ全ての宿に内湯が存在しておりますが、
前述の規制により内湯の規模は大きな旅館でも小さいものとなっております。
旅館に宿泊される方は全外湯の入浴料を免除する制度を採用した事により、
浴衣姿で全外湯を巡られる「外湯めぐり」が名物となっております。
第二次大戦期において、温泉街は軍人病院として利用されておりました。
1963年に温泉街と大師山山頂を結ぶ城崎ロープウェイが開通し、
高度成長期に伴って温泉ブームが到来、城崎温泉は巨大な観光地となりました。
2008年7月、木屋町通りと四所神社を結ぶ小路に
「木屋町小路」がオープンしております。
・城崎温泉観光協会は城崎温泉に関する様々な情報を提供している他、
温泉街周辺の観光スポットの情報も充実しております。
また、公式サイト/facebook/twitterでも情報を発信しております。
けものフレンズにおいて浴衣といえば人面魚様であります。
お召し物の浴衣は女の子らしい丈の短いものであり、
モチーフとなっているニシキゴイの柄が配されております。
正に夏祭りの時期にぴったりと言えるでしょう。
城崎温泉のみならず、あらゆる観光地において
ウイルスの影響が広がる前の状況にはまだまだ遠く、
サービス業にとって厳しい状態が続いております。
1日も早く、お客様の笑顔に溢れる日々が戻る事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。