:
大乗二十頌論
:
龍樹菩薩造
:
1.ことばで言い表せない真理を慈悲をもって説き示され、その威光は思いも及ばず、その心は執着を離れている仏陀を礼拝し奉る。
2.真実の立場でいえば、諸仏と生きとし生けるものとは、実体として生起したのでもなく、また消滅したのでもないのだから、あたかも虚空のように、その本質は同一である。
3.また移り変わるものは、かの世においても、この世にあっても、実体として生じたものではなく、条件によって生じたものである。それらは、まさしく空であり、全知者のみが、よく知りうるところである。
4.すべての存在は、その本性上、影像に等しく、清浄であり、寂静なるものであり、不二であり、真実と同じである、といわれる。
5.しかるに、愚かな人々は、我が無いのに我が有ると考えて、苦楽やあらゆる煩悩が真実からして、有るとみる。
6.そこで彼らには、六趣の輪廻と、天界における最高の楽しみ、地獄における大きな苦しみ、老・病などの苦しみが生じるであろう。
7.彼らは、虚妄の考えを起して、地獄において煮られて苦を受け、他ならぬ自らの過失のために焼かれる。あたかも竹が火によって焼かれるように。
8.あたかも幻のような人々は、もろもろの対象を楽しむ。彼らは、縁起を本性とする幻のごとき世界を歩みゆく。
9.たとえば、絵師が非常に恐ろしい夜叉の姿を自ら描いて、怖れおののくように、いまだ覚らない者は輪廻においても同じである。
10.たとえば、ある愚かな人が、ぬかるみを自らつくって、そこに落ち込むように、人々は超えがたい邪な考えのぬかるみの中に沈んでいる。
11.存在が無いことを存在が有るとみて、彼らは苦の感受を受ける。また、虚妄なる対象が彼らを疑惑の毒によって苦しめる。
12.そこで、これらの人々が庇護を失っているのを見て、慈愛堅固な心を持ち、利他に努める諸仏は、彼らを覚りへと誘う。
13.彼らも同じく資糧を積むならば、無上の智慧を得て、邪な考えの網を脱し、世界の友である覚者となるだろう。
14.真実の意味を知る人々は、世界が生じたものではなく、生起したものでないから、空であり、初め・中ごろ・終わりはないと正しく見る。
15.そこで、彼らは輪廻も涅槃もそれ自体としては存在せず、無垢であり、変異することなく、初め・中ごろ・終わりにわたって清浄である、と看取する。
16.すでに目覚めた者は、夢の中で見た対象を見ることはない。迷妄のまどろみから覚めた者は、輪廻を見ることはけっしてない。
17.魔術師が幻を現出して、のちにそれを消し去るとき、いかなるものも存在しない。それがまさしく事象の真実の本性である。
18.この世のすべては、ただ心のみであって、あたかも幻の表象のように存在している。そこから善や不善の業が生じ、それから善や不善の苦が生じる。
19.世の人々は、世界を妄想しているが、世界は生起していないように、彼ら自らも生起しているのではない。なぜなら、この生起とは妄想であり、外界の対象は存在していないから。
20.迷妄の闇に覆われて、愚かな人たちは、実体が無いものに対して、恒常であるとか、固有の実体が有るとか、楽であるとかいう思いを起こし、この輪廻の海の中をさまよう。
結頌.大乗の船に乗ること無くして、いったい誰が、妄想の水に満ちた輪廻の広大な海の彼岸に渡ることができようか。
:
:
大乗二十頌論
:
: