横からすみません、まだちょっと話が掴めてないですけど…そもそもDM33の配備が'87年からだとしても、2次試作での技術試験も同じく'87年の9月から始まり'88年の12月まで続くので、少なくともそれまでには間に合うのでは?
年\資料 | 技本50年史 | ダイキン70年史 |
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'82(S57) | 1次試作その1 開始 | 開発試作 開始 |
'83(S58) | 1次その1終了/ その2開始 / 10月 1次技試 開始 | 展示射撃試験での比較 |
'84(S59) | 1次その3 開始 | ラ社製弾薬(DM33)導入決定、2次試作が始まり輸入準備 |
'85(S60) | 1次その2,その3終了/ 7月 装備審査会議 | - |
'86(S61) | 10月 1次技試終了/ 2次試作開始 | - |
'87(S62) | 9月 2次技試開始 | - |
'88(S63) | 12月 2次技試終了 | - |
- 2次試作での防護性能等の各性能確認試験は、S62年9月からS63年12月までの間に実施された。(技本)
- >> 246でも触れられていますが「(前略)新戦車の第2次試作(59年度)以降、砲身部および弾薬(DM33APFSDS弾およびDM12HEAT-FS弾)は導入によることを決定した。」という部分がある。(ダイキン)
- S58年に展示射撃が行われてからも、1次試作その2,その3として弾薬の試作は続いていたことから、国産vsラ社の関係は開発の進行につれて変化した可能性がある。(技本・ダイキン)
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現にDM33が90式正式化に合わせてライセンス契約をしているので、間違いなく試験や90式のFCS適応のためDM33が購入されていたはずです。DM33の性能評価のため、試作車または装甲サンプルへの射撃も実施されるのが当然と思います。DM33が1987年に納入か、1989年に納入か分かりませんが、DM33による耐弾試験が行われて90式はそれに合格したとしても矛盾は無いと思います。財務省または防衛相の当時の公文書で砲弾の購入について何か記述とか残ってないですかね?
>> 324砲弾の場合は、三菱重工の管轄ではなく防衛庁の管轄なので、あまり関係ないと思います、駐屯地の弾薬庫に保管しておけばいいんです。120mm L44滑腔砲は1985年に納品されています、1986年初めから2次試作品の製作が始まりましたので、それ以前に輸入しないと製作期限に間に合いません。
砲と弾薬を別々に輸入する場合、砲に対するテストは不可能です。戦車開発の際には主砲を別にテストしています。 しかし、先に砲を購入して弾薬を購入した場合、主砲に関するテストは不可能です。
そして、自国の最新鋭弾薬がすぐに輸出許可が下りたという事実もおかしいですね。1987年導入が事実なら、ドイツ政府が1987年に直ちに輸出許可を下したということですが、自国の最新鋭弾薬をすぐに輸出する場合がありますか。ドイツが弾薬を少量提供してくれたと確認された例はアメリカだけですが、これも共同開発プロジェクトで提供しただけです。
だからそれはもう君自身の考察じゃん。車体部や砲塔部を先に組み上げて砲システムを最後に装着する、つまり車両製造を始める段階から砲が用意される必要はないとも言えるよね?それに1987年9月から行われた二次技術試験で主砲に関する試験をすることは十分考えられるよ、1987年9月から1988年12月までが試験期間であってそれ以前に二次技術試験はやってないからね。
世界中のどの国もそのような方式で戦車を開発することはありません、起動試作の場合、砲がなくても大丈夫なので、似たような重さの振り子を付けて試験しますが、90式戦車の2次プロトタイプのような火力試作の場合は砲を装着します。
そして、1980年代の複合装甲の防護力技術を見ると、DM23を防ぐのは素晴らしい方です、戦車の設計は、無条件自弾を防護するのではなく、主要な脅威要素を防護するものとして設計され、その当時、主要な脅威要素だったソ連軍の弾薬は3BM22~3BM32で、これと似た威力を持つ弾薬はDM23です。IPM1のBRL-2セラミック複合装甲、レオパルト2A4のBtechセラミック複合装甲もDM23を防護する程度で終わりました。日本がもっと軽い複合装甲の重さで似たような防護力を達成したことはすごいことです。
1987年9月から行う技術試験の為に1986年から1988年にかけて試作したんだよ?その試作の為に1985年中に砲を輸入する必要はないって話なんだけど。火力性能試験が行われたのは1987年9月からであって試作期間中じゃないぞ。後半はツッコミどころ満載だけど本筋じゃないからノーコメント(↓ラインメタルからDM33の導入について協議するのに、まして日米同盟もあるのに仮想敵のそういう情報をキャッチできない訳がないしね)
あの、86年にソ連で3BM42が出て2km貫通力約450mmなのでdm33防げないと意味がないんですが…
BRL-2は非拘束型セラミック装甲だしB-tecもそうじゃなかったっすかね、仮にB-tecが拘束型でもB-tecは70年代のものになるから比較対象としておかしいけど。比較すんならC-tecとかルクレールの複合だろ
90式の仮想敵が自分の使用する砲弾より1世代前というのは素晴らしいどころか怠慢です。
>> 331探してみたら、あなたの言うことが正しい。 どうやら1986年に製作を始め、1987年に完成したらしい、試作5号車が88年6月に完成した銘板があるというのを見た。試作5号車が1987年に製作を始めたから銘板通りなら1年ごろかかったね、試作3号車は87年ごろに完成したようだ。
>> 332470mm貫徹は60度基準、90式戦車の場合、砲塔の主要装甲部が垂直で、車体の場合、弾子崩壊現象により特に問題はない(今WTではAPDSのみ)
一応主張をちょっと整理します。
90式戦車のテストにDM23を使ったと考える理由。
1985年の導入会議当時は、DM33を購入することができなかった。
1985年以降、弾薬を導入していない。
DM33は1987年実用化、しかしドイツが自国の最新型APFSDSをそんなに早く輸出許可を出すはずがない。
1980 年代戦車の場合、ソ連製APFSDS 3BM22~3BM32 の防御を想定して開発されたため、DM23を使って試したのであろう。
90式戦車のテストにDM33を使ったと考える理由。
85年の会議で決定されたのは、砲と弾薬の購入だけで、詳細は決まっていない。
87年以降も、自衛隊が実験用としてラインメタルから弾薬を購入したはずだ。
1987年の実験でFCS等の開発のためDM33をテストしたはずである。
自弾防御を要求するのでDM33を使用したのであろう。
他の外国人からの意見ですが、90式戦車二次プロトタイプの設計は1985年以前に終わり、1987年に公開されたDM33の細部スペックが分からないまま設計されており、自弾防御が不可能なのではないかという意見があります。意見をお願いします。
1986年に手袋の開発が終わったというポストを送って来たので添付します。
https://www.whiteorder.net/type90tank-kaisetsu/
"1984年に大砲のテストは終了し、他の部門は1986年までに重機関銃とモジュラータイプのセラミック複合装甲を開発し終えた。"
1985年の導入会議当時は、DM33を購入することができなかった。→導入会議時に購入、つまり実物を日本国内に用意する意味がない
1985年以降、弾薬を導入していない。→上記から不適
DM33は1987年実用化、しかしドイツが自国の最新型APFSDSをそんなに早く輸出許可を出すはずがない。→根拠のない憶測。ラインメタルと日本側のやり取りそのものは1980年から始まっている為十分考えられる
1980年代戦車の場合、ソ連製APFSDS3BM22~3BM32 の防御を想定して開発されたため、DM23を使って試したのであろう。→いずれも根拠なし。Leclerc戦車など反例あり
85年の会議で決定されたのは、砲と弾薬の購入だけで、詳細は決まっていない。→どのようにするかの打ち合わせがあったと考えるのが妥当
87年以降も、自衛隊が実験用としてラインメタルから弾薬を購入したはずだ。→既に言われているけど二次試験で使う砲弾の実物が二次試験のタイミングで用意されたことは十分考えられる
1987年の実験でFCS等の開発のためDM33をテストしたはずである。自弾防御を要求するのでDM33を使用したのであろう。→上記
90式戦車二次プロトタイプの設計は1985年以前に終わり→根拠がない
1987年に公開されたDM33の細部スペックが分からないまま設計されており→根拠が薄弱
自弾防御が不可能なのではないか→想定脅威と開発年代から見れば不適である可能性が高い
「1984年に大砲のテストは終了し、他の部門は1986年までに重機関銃とモジュラータイプのセラミック複合装甲を開発し終えた。」という部分だけど、大砲のテストは2社の比較検討関連のことじゃないの。結局砲システム含む二次試作に関しての正式な試験は87年からだからね。1986年までに開発し終えたという部分も矛盾を生むことにはならないかな。その時点までで得られた情報を基に開発して、その是非を試験で調べるんだから。というかその解説記事は結構時期や内容のずれ/揺らぎがあるし、「前方550〜650mm、前方250mの距離から120mmJM33を食らって自走可能」「DM33はゼロ距離540mm」とあるじゃない。
ところでジェーンは少なくとも90年代以降の脅威=DM33以上を想定した要求だったと書いているようだけど。
開発
戦後の他の日本製MBTと同様に、90式は三菱重工によって設計、開発、製造されました。90式は、74式の後継機として1977年に正式に開発が開始され、後にTK-Xと呼ばれました。部品の製造とテストは1982年まで行われ、2つの新しいプロトタイプの製造が開始された。陸上自衛隊はTK-Xに、120mm滑腔砲、高出力重量比、1990年代以降に想定される脅威に対応できる新装甲、74式を超えない戦闘重量と外形寸法を求めた。当初、防衛庁と技術研究所は、TK-Xに国産の120mm滑腔砲を搭載することを目指しており、74式に搭載されていた105mmL7ライフル砲をボーリングして滑腔砲の技術実証機を製作した。その後、日本製鋼所で原型が製作され、1982年から1984年にかけて最初の試作車2台が完成し、1986年まで続く大規模な試験に使用された。この試作車には日本製の銃が搭載されていたが、射撃試験で満足のいく結果が得られなかったため、陸上自衛隊はラインメタル製120mm滑腔砲に変更し、1985年に第2段のTK-X試作車の製造を開始した。120mm滑腔砲を搭載したM1A1 MBTを採用していた米軍との運用上の共通性を高めるため」との理由からである。1987年後半に最初の2台の第2次試作車が完成し、1988年にはさらに2台が完成した。これらは1989年までに完成した開発・使用試験に使用され、1992年に型式証明を取得した。90式が陸上自衛隊で運用される最も重いARVであることから、後に90式ARVとして知られるようになる新しいARVも三菱重工によって開発された。これは1990年に試作段階に入り、1992年末に初公開された。90式ARVが生産されたとき、通常は年に1台という低ペースで生産された。90型の船体をベースにしたAVLBのバリエーションも開発され、91型として分類された。これも低コストで生産され、旧式の67型AVLBの後継機となった。
Jane's Land Warfare Platforms: 装甲戦闘車-トラックド 2019年~2020年
防衛庁技術研究本部五十年史のII 技術研究開発 2.技術開発官(陸上担当)末尾にある「90式戦車開発の思い出」に90式戦車の研究開発は昭和63年(1988)に終了したと記述されています。平成元年(1989)の陸上自衛隊による実用試験中にDM33対応のアップデートを行っていては、昭和63年(1988)に研究開発を終了したとは言えないと思います。そのため、DMM33のFCS開発と射撃試験は昭和63年(1988)12月まで行われた技術試験(2次試作)の中で達成されていたのではないでしょうか?
導入会議時に購入、つまり実物を日本国内に用意する意味がない → 認める、1987年6月までに2次試作プロトタイプの1、2号車が完成しているのを見ると、砲や弾薬がゆっくりと輸入されていたい。といっても過言ではない。
根拠のない憶測。ラインメタルと日本側のやり取りそのものは1980年から始まっている為十分考えられる → 同じ根拠のない憶測。西ドイツと日本が1980年から接触したことと最新鋭APFSDSの輸出は別もの、自国の最新鋭技術の輸出はそう簡単なものではない。
いずれも根拠なし。Leclerc戦車など反例あり → イギリス軍は、Stillbrew複合装甲(1990年代ソ連軍の弾薬を防護するプロジェクト、1986年開発完了)を開発した当時、ソ連軍の125mm弾薬貫徹力を最大475mmと推定した。そして下の外国人の指摘からも分かるように、90式戦車をLeclerc戦車と比較するのは非常に変なことだ。 Leclerc戦車は、90式戦車の第1試作が製作されていた1983年度から開発を開始したことを考えると、Leclerc戦車の例として用いるのは非常に誤りだ。 似たような年度に出たからといって、同じ水準の技術が適用されたわけではない。
どのようにするかの打ち合わせがあったと考えるのが妥当 → 打ち合わせでDM23を購入した可能性も排除できない。
既に言われているけど二次試験で使う砲弾の実物が二次試験のタイミングで用意されたことは十分考えられる → 正しい。でもここで重要な部分は DM23なのか33なのかが問題だった。
根拠がない →「防衛庁技術研究本部五十年史」の90式戦車の開発年表を見れば、1986年1月から制作が開始されることがわかる、それ以前に設計が完了していなければ制作が始められるのか。 設計図もない戦車をどうやって作るの? そして1次試作の2号車と特別な技術的違いもないんだけど? 設計が1985年までに完了しない特別な理由があるのか?
根拠が薄弱, 想定脅威と開発年代から見れば不適である可能性が高い → 90式戦車が開発中だった1980年代にNATO軍(米国、英国)などはソ連製APFSDSの威力を過小評価し、実際よりも弱いと結論付けた。その中でも最も広く知られているStillbrew複合装甲の開発当時(1990年代ソ連軍の弾薬を防護するプロジェクト、90式装甲の開発年と同じ1986年に開発完了)、イギリス軍はソ連軍の次世代125mm APFSDSが領距離で最大471mmを貫通すると推測(米国はこれよりも弱いと判断)した。 これはNATOのDM23に似たスペックで、「この程度を防げば十分」という基準があった。 日本もこの情報を共有してもらい、90式戦車の開発に反映させた可能性が非常に高い。
そしてLeclerc戦車と90式戦車の装甲材を1:1で比較するのは良くない。90式戦車は、実質的には1977年から開発が始まり、試作車1982年に登場した戦車、Leclercは、これより6年遅い1983年にプロジェクトが始まり、86年に試作車が登場したが、この2つの技術が同等といえるだろうか。90式戦車の複合装甲と同じような年度に開発された複合装甲と比較すべきであり、1983年のChobham-1、1984年に製作されたBRL-2、1986年のStillbrew装甲材と比較すべきだ。
まず畳んでくれ。議論をすればするほど試験がDM23だった証拠はないってことが分かるし他に何人もそう考えてる、結論としてあなたは自分の推測を押し通したいだけに見える。それじゃこっちが何言ってもああいえばこういうでいたちごっこになるよな。人様に時間の無駄とか言う暇があったら我が振りを直した方が良いと思うよ
そもそもこういう議論自体が否定する人と肯定する人がお互い証拠を持ってきてぶつかるから仕方ないと思うけど、そう思うならごめんね。その前に人に時間の無駄って言ったのは意味のない返事だけ返ってくるからでしょう、むしろあなたのご意見はとてもありがたく思っているよ、いくつか学んだ点もあるし。
記述内容吹き飛んだから先書くけど、君がやってるのは「不明確ながら情報の取れる文献をいくつか用意して、それをいい感じに解釈して考察する」って行為なのね。それはここでの俺や他の人の考え、所謂通説と言われるものも全てそう。見た感じ君は自分の解釈を否定されて証拠を求めてたけど、それは間違いなんだ。ここでの一連の話の中で分かったとは思うけど、同じ資料を使っているのに何か文献を用意しろと言われても困る(言ってしまえば君がDM23だと判断した資料を提示しろと言ってるようなもん)し、まして不自由な言語なら尚更だよね。
何が言いたいのかよく分かった。私たちお互いに無意味な時間の無駄使いをしたようだね。この厄介な論争に答えてくれてありがたいし、確実な資料を探すときまた話すよ、ありがとう。
今ある情報だけでも日本で30年近く探された結果だから探すのもそれはそれである意味無駄だけど、理解出来たならよかった。あと一方的に言って言いっぱなしって良くないからね
ここ1年で1次試作車調べてまとめた人もいるし無駄ではないと思う。凄まじい時間と労力が掛かるだろうけど…
実際あの人それに掛けた実時間と情熱すげえと思うけど、あれは一次試作だったからこそっていう面もあるのよね。それ以外の部分は本当に枯れてると思う
便乗して関係ない質問したいんだけど通説にある「砲選定に関して国産がラ社に勝ってたけどコストは後者が優れる」って何がソースなんですかね?上見るとわずかに負けた(要求性能は満たした)って書いてあるけど
多分表記揺れとかの類い。どちらにしても大差が付いたという記述がない
質問なんだけど、ダイキンだと2次試作(昭和59年)って書いてて、技本だと表で2次試作が昭和61年からになってて、ラ社製の採用決定は昭和60年になってるから、これはダイキンの方が記述ミスしてるってことになるのかな
AがBに勝ったをBがAに勝ったって記述するって表記ゆれとは言えないですよね?
↑↑
一次試作その1が昭和57〜58年で、その3が59〜60だからなんとも言えないなぁ。一次試作と二次試作でダイキンが二種類の試験用APを作ったと考えれば説明は楽だけど、そんな記述はないしなあ読んだ人今のなし、ダイキンの記述ミスが一番丸いけどよーわからん。59年初期の会議で結論は出なかったけど官が導入によることを決定し、その時点では59年度から二次試作をやろうとしてた。けど内定してるDM33使うとなると結局諸々遅れた、っていうのをダイキン目線で記述したくらいしか今は考えられん。分度器アショアやる官だから見通し甘いのはまだあり得るし。あとは単純に59年に決めて以降だから二次試作((どう急いでも今からしか始まらないので)59年)以降、と記述したとかか↑とかの類いであって表記揺れとは思ってないよ、↑↑にあるように微妙に記述が異なってる部分もあるからどうずれを吸収してあげようかってところ