1985年の導入会議当時は、DM33を購入することができなかった。→導入会議時に購入、つまり実物を日本国内に用意する意味がない
1985年以降、弾薬を導入していない。→上記から不適
DM33は1987年実用化、しかしドイツが自国の最新型APFSDSをそんなに早く輸出許可を出すはずがない。→根拠のない憶測。ラインメタルと日本側のやり取りそのものは1980年から始まっている為十分考えられる
1980年代戦車の場合、ソ連製APFSDS3BM22~3BM32 の防御を想定して開発されたため、DM23を使って試したのであろう。→いずれも根拠なし。Leclerc戦車など反例あり
85年の会議で決定されたのは、砲と弾薬の購入だけで、詳細は決まっていない。→どのようにするかの打ち合わせがあったと考えるのが妥当
87年以降も、自衛隊が実験用としてラインメタルから弾薬を購入したはずだ。→既に言われているけど二次試験で使う砲弾の実物が二次試験のタイミングで用意されたことは十分考えられる
1987年の実験でFCS等の開発のためDM33をテストしたはずである。自弾防御を要求するのでDM33を使用したのであろう。→上記
90式戦車二次プロトタイプの設計は1985年以前に終わり→根拠がない
1987年に公開されたDM33の細部スペックが分からないまま設計されており→根拠が薄弱
自弾防御が不可能なのではないか→想定脅威と開発年代から見れば不適である可能性が高い
「1984年に大砲のテストは終了し、他の部門は1986年までに重機関銃とモジュラータイプのセラミック複合装甲を開発し終えた。」という部分だけど、大砲のテストは2社の比較検討関連のことじゃないの。結局砲システム含む二次試作に関しての正式な試験は87年からだからね。1986年までに開発し終えたという部分も矛盾を生むことにはならないかな。その時点までで得られた情報を基に開発して、その是非を試験で調べるんだから。というかその解説記事は結構時期や内容のずれ/揺らぎがあるし、「前方550〜650mm、前方250mの距離から120mmJM33を食らって自走可能」「DM33はゼロ距離540mm」とあるじゃない。
ところでジェーンは少なくとも90年代以降の脅威=DM33以上を想定した要求だったと書いているようだけど。
開発
戦後の他の日本製MBTと同様に、90式は三菱重工によって設計、開発、製造されました。90式は、74式の後継機として1977年に正式に開発が開始され、後にTK-Xと呼ばれました。部品の製造とテストは1982年まで行われ、2つの新しいプロトタイプの製造が開始された。陸上自衛隊はTK-Xに、120mm滑腔砲、高出力重量比、1990年代以降に想定される脅威に対応できる新装甲、74式を超えない戦闘重量と外形寸法を求めた。当初、防衛庁と技術研究所は、TK-Xに国産の120mm滑腔砲を搭載することを目指しており、74式に搭載されていた105mmL7ライフル砲をボーリングして滑腔砲の技術実証機を製作した。その後、日本製鋼所で原型が製作され、1982年から1984年にかけて最初の試作車2台が完成し、1986年まで続く大規模な試験に使用された。この試作車には日本製の銃が搭載されていたが、射撃試験で満足のいく結果が得られなかったため、陸上自衛隊はラインメタル製120mm滑腔砲に変更し、1985年に第2段のTK-X試作車の製造を開始した。120mm滑腔砲を搭載したM1A1 MBTを採用していた米軍との運用上の共通性を高めるため」との理由からである。1987年後半に最初の2台の第2次試作車が完成し、1988年にはさらに2台が完成した。これらは1989年までに完成した開発・使用試験に使用され、1992年に型式証明を取得した。90式が陸上自衛隊で運用される最も重いARVであることから、後に90式ARVとして知られるようになる新しいARVも三菱重工によって開発された。これは1990年に試作段階に入り、1992年末に初公開された。90式ARVが生産されたとき、通常は年に1台という低ペースで生産された。90型の船体をベースにしたAVLBのバリエーションも開発され、91型として分類された。これも低コストで生産され、旧式の67型AVLBの後継機となった。
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