導入会議時に購入、つまり実物を日本国内に用意する意味がない → 認める、1987年6月までに2次試作プロトタイプの1、2号車が完成しているのを見ると、砲や弾薬がゆっくりと輸入されていたい。といっても過言ではない。
根拠のない憶測。ラインメタルと日本側のやり取りそのものは1980年から始まっている為十分考えられる → 同じ根拠のない憶測。西ドイツと日本が1980年から接触したことと最新鋭APFSDSの輸出は別もの、自国の最新鋭技術の輸出はそう簡単なものではない。
いずれも根拠なし。Leclerc戦車など反例あり → イギリス軍は、Stillbrew複合装甲(1990年代ソ連軍の弾薬を防護するプロジェクト、1986年開発完了)を開発した当時、ソ連軍の125mm弾薬貫徹力を最大475mmと推定した。そして下の外国人の指摘からも分かるように、90式戦車をLeclerc戦車と比較するのは非常に変なことだ。 Leclerc戦車は、90式戦車の第1試作が製作されていた1983年度から開発を開始したことを考えると、Leclerc戦車の例として用いるのは非常に誤りだ。 似たような年度に出たからといって、同じ水準の技術が適用されたわけではない。
どのようにするかの打ち合わせがあったと考えるのが妥当 → 打ち合わせでDM23を購入した可能性も排除できない。
既に言われているけど二次試験で使う砲弾の実物が二次試験のタイミングで用意されたことは十分考えられる → 正しい。でもここで重要な部分は DM23なのか33なのかが問題だった。
根拠がない →「防衛庁技術研究本部五十年史」の90式戦車の開発年表を見れば、1986年1月から制作が開始されることがわかる、それ以前に設計が完了していなければ制作が始められるのか。 設計図もない戦車をどうやって作るの? そして1次試作の2号車と特別な技術的違いもないんだけど? 設計が1985年までに完了しない特別な理由があるのか?
根拠が薄弱, 想定脅威と開発年代から見れば不適である可能性が高い → 90式戦車が開発中だった1980年代にNATO軍(米国、英国)などはソ連製APFSDSの威力を過小評価し、実際よりも弱いと結論付けた。その中でも最も広く知られているStillbrew複合装甲の開発当時(1990年代ソ連軍の弾薬を防護するプロジェクト、90式装甲の開発年と同じ1986年に開発完了)、イギリス軍はソ連軍の次世代125mm APFSDSが領距離で最大471mmを貫通すると推測(米国はこれよりも弱いと判断)した。 これはNATOのDM23に似たスペックで、「この程度を防げば十分」という基準があった。 日本もこの情報を共有してもらい、90式戦車の開発に反映させた可能性が非常に高い。
そしてLeclerc戦車と90式戦車の装甲材を1:1で比較するのは良くない。90式戦車は、実質的には1977年から開発が始まり、試作車1982年に登場した戦車、Leclercは、これより6年遅い1983年にプロジェクトが始まり、86年に試作車が登場したが、この2つの技術が同等といえるだろうか。90式戦車の複合装甲と同じような年度に開発された複合装甲と比較すべきであり、1983年のChobham-1、1984年に製作されたBRL-2、1986年のStillbrew装甲材と比較すべきだ。