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みんみ教徒の集い / 3128

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流浪のみんみ教徒 2021/12/09 (木) 00:03:03 457e0@664bd

本日は1911年に、浪曲師の桃中軒雲右衛門氏が
日本初となるレコードの吹き込みを行われた日であります。
 初代・桃中軒 雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)氏は、
 明治時代から大正時代にかけて活躍された浪曲師でいらっしゃいます。
 亭号は沼津駅の駅弁屋である「桃中軒」に、名は修行時代に兄弟分であった
 力士の「天津風雲右衛門」氏に由来するとされております。
 浪曲界において大看板を務められた事から、「浪聖」と謳われております。
 本名は「山本幸蔵」氏。群馬県高崎市新田町出身で、
 地方回りの祭文語りをされていた父親の吉川繁吉氏と
 三味線奏者の母親のツル氏の二男としてお生まれになりました。
 また兄の仙太郎氏は幸蔵氏と共に母親から三味線を習われ、
 弟の峰吉氏は後に幸蔵氏に感化され「桃中軒風右衛門」を名乗られました。
 三味線を習われた後に「吉川小繁」と名乗られ、ヒラキ(寄席の前身)での
 口演や流しなどをされておりました。父親が亡くなられた後、
 父親の名前「2代目・吉川繁吉」を襲名され、寄席への進出も果たされました。
 その後、横浜にて初代三河家梅車の興行に同行されていた
 三味線奏者(曲師)のお浜氏に同情されて恋仲となられ、
 そのまま駆け落ちされたため関東に戻られる事ができなくなり、
 京都を経て九州へと至る中で修行を積まれました。
 その過程で従来の関東節に加えて関西節や、九州で活躍される講談師の
 美当一調氏の「糸入り講談」(三味線を伴奏に入れた軍談で、浪花節の前身)
 を取り入れられ、後のスタイルである雲右衛門節を生み出されました。
 略称として「雲」一文字、または「雲入道」と呼ばれ、
 雲右衛門氏独特の重厚なフシ調は「雲調」や「雲節」と呼ばれます。
 1903年、「桃中軒牛右衛門」の名で雲右衛門氏に弟子入りされていた
 宮崎滔天氏やジャーナリストの福本日南氏、
 政治結社「玄洋社」の後援で「義士伝」を完成されました。
 武士道鼓吹を旗印に掲げられ、1907年には大阪中座や
 東京本郷座といった劇場にて大入りを達成されております。
 雲右衛門氏の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席での芸であった
 浪曲の劇場進出を可能にし、浪曲自体も社会へ急速に浸透していきました。
 大人気の雲右衛門氏でありましたが、要求されるレコード吹込料が
 非常に高額であったため、なかなかレコードが発売されませんでした。
 そんな中、1911年9月には神戸の時枝商店が「桃中軒雲右衛門節」と銘打った、
 本人によるものではない(「奏演者匿名」と明記)レコードを発売され、
 1912年5月19日、雲右衛門氏のレコードがライロフォン(三光堂)から発売され、
 これが雲右衛門氏のレコードデビューとなり、
 5種類の両面レコードが合計72000枚プレスされました。
 しかし、1913年頃から肺結核を患われ、宮崎氏の説得によって
 何度か入院されましたが体調が戻られるとすぐに巡業に出られてしまい、
 最後にご子息の西岡稲太郎氏が自宅に引き取られて看病されましたが、
 1916年11月7日に43年の生涯を閉じられました。
けものフレンズにおいて録音といえば、ラッキービースト様であります。
アニメ一期において収録されている音声を再生される場面がある他、
ミライ様が同行されていた当時は録画再生機能が不調であり、
修理が必要な状態であった事が明らかとなっております。
桃中軒雲右衛門氏が活躍されていた当時は高価であったレコードですが、
今や録画や録音は電子情報として管理されるのが一般的となっており、
それを個人で気軽に行える時代となっております。
改めて、情報技術の進歩には驚かざるを得ません。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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