本日は阪神タイガース記念日であります。
1985年のこの日、プロ野球の日本シリーズにて
阪神タイガースが西武ライオンズを破り、
球団として38年ぶり、2リーグ化後で初の日本一となった事を記念して、
阪神タイガース後援会などによって制定されました。
・阪神タイガースは、一般社団法人 日本野球機構(NPB)の
セントラル・リーグに所属する球団であります。
本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場、準本拠地は京セラドーム大阪。
大阪府と兵庫県をフランチャイズとしており、
親会社は阪急阪神ホールディングスの子会社である阪神電気鉄道株式会社、
運営法人は株式会社阪神タイガースとなっております。
日本に現存するプロ野球12球団の中では、
読売ジャイアンツに次ぐ長い歴史を有しております。
・以下の書き込みは現在の阪神タイガース設立までとさせていただきます。
1934年末に創立した「大日本東京野球倶楽部」(球団名・東京巨人軍)の
オーナー・正力松太郎氏は、複数球団による職業野球リーグ結成を画策され、
特に三大都市圏(東京市/大阪市/名古屋市)でのリーグ戦開催を目指されており、
当時日本最大の球場であった甲子園球場を所有する阪神電気鉄道に
球団創設の誘いがかかり、実際に阪神を親会社、
甲子園を本拠地とした球団の設立が決定されました。
1935年10月22日の門前眞佐人選手との入団契約を皮切りに
山口政信選手/藤村富美男選手/藤井勇選手といった中等野球のスター選手と
都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎選手らを集められ、
同年12月10日に商号「株式会社大阪野球倶楽部」、
球団名「大阪タイガース」が発足されました。
1936年1月9日にコロムビアの若林忠志選手、2月28日に立教大学の
景浦將選手など有力選手と契約。4月19日の球団結成記念試合までに
17名の選手を獲得し、2月5日には日本職業野球連盟が結成されました。
1936年に行われた公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・
夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の
3シーズンに分けられ、東京/大阪/名古屋にて開催する方式でありました。
最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場/鳴海球場/
宝塚球場にて3大会が行われましたが、東京巨人軍がアメリカ遠征のため出場せず、
名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、春の優勝は決まりませんでした。
夏/秋シーズンでは各大会1位の回数でシーズン優勝を決める勝ち点制で、
タイガースは夏シーズンの名古屋大会で1位となりました。
また、親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝利できなかった事から、
初代監督の森茂雄氏が解任され、石本秀一氏が監督に就任されました。
同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と
東京巨人軍と並びましたが、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦にて
1勝2敗と惜敗し、優勝を逃す結果となりました。
1937年春から西村幸生選手が、1938年春には御園生崇男選手が
入団された事により投手陣が安定し、松木選手/山口選手/景浦選手/藤井選手/
田中義雄選手らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の
2シーズン連続の優勝を達成する事となりました。更にこの2年間は、
春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定しておりましたが、
2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破った事によって、
年間優勝2連覇を達成する事となりました。このように大阪タイガースは
第二次大戦前から戦中の期間、優勝争いを繰り広げる強豪チームでありました。
1939年、この年は全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという、
日本プロ野球史上初めてのケースとなりました。
1940年9月25日、日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、
敵性語とされた英語の使用自粛のため球団名を「阪神軍」に改称しております。
日中戦争や太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により
選手数が不足する苦しい状況となる中、1944年は監督兼主戦投手の
若林忠志選手が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにされ、
球団は3度目の優勝を遂げました。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会
ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に猛虎(阪神と産業の合同チーム)
の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止する事となりました。
第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)
から復帰となり、1946年3月に球団名を「大阪タイガース)に戻しております。
1947年、若林選手が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞
(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾りました。
1番・呉昌征選手から始まり金田正泰選手/藤村選手/土井垣武選手など
リーグ屈指の強打者が並ぶ強力打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれました。
特に4番の藤村富美男選手は物干し竿と呼ばれる長いバットで本塁打を量産され、
「ミスタータイガース」と称されました。1948年に藤村選手は対金星戦にて
日本プロ野球初のサイクル安打を達成されております。
1949年はチーム順位が6位にも関わらず藤村選手がMVPを受賞されました。
この年のオフの新球団加盟問題において、タイガースは当初こそ
毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していましたが、
最終的には反対派に回る事となり、2リーグへの分裂に際して
読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設する事となりました。
阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの
打撃や守備の中心選手を集中的に引き抜きました。
また、タイガース入団が内定していた選手も毎日に奪われ、
更に主要選手が他球団へ相次いで移籍した事により、
自慢であったダイナマイト打線は崩壊する事となりました。
1950年に松木氏が監督に就任され、毎日に引き抜かれずに残留された
選手らを中心にチームを構成して前年を上回る4位の成績に終わりました。
しかし、新規に加盟した球団を除けば最下位の成績であり、
レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻でありました。
なお、このシーズンより二軍チームを創設しております。
1952年にフランチャイズ制度が正式導入され、保護地域が兵庫県となりました。
チーム再建のため、二軍設備の充実や本格的なスカウト制度の導入などにより
世代交代の準備を進めた結果、吉田義男選手/渡辺省三選手/小山正明選手/
田宮謙次郎選手などの若手選手が次々と主力になり好成績を収めました。
しかし投打が噛み合わず、優勝から遠ざかる事となりました。
この間、松木監督は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験のない
岸一郎氏を起用してファンやマスコミを驚かせましたが、主力選手との対立や
成績不振から1955年5月中旬に岸監督は病気療養を名目に休養されました。
藤村富美男助監督が監督代行に就任され、1955年のシーズン終了後には
正式に兼任監督に就任されましたが、1956年のシーズン終了後には
一部の選手が藤村監督の退任を求めて球団側と対立する
「藤村排斥事件」と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要しました。
藤村氏が監督専任となられた1957年は巨人と激しく首位を争いましたが
1ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後に球団が監督を藤村氏から
田中義雄氏に交代させた事に伴って、藤村氏は現役選手に復帰されるも
翌1958年限りで引退され、藤村の背番号10は球団初の永久欠番となりました。
1959年6月25日の対巨人11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合となりました。
試合は藤本勝巳選手の本塁打と、小山投手→村山実投手の継投で優位に進むも、
9回裏の長嶋茂雄選手のサヨナラ本塁打によって4-5で敗戦となりました。
なお、シーズン成績は4年連続の2位に終わりました。
1960年は藤本勝巳選手が最多本塁打て最多得点の二冠を獲得したものの、
チーム成績はリーグ3位に終わりました。
1961年、フランチャイズ制度の導入に伴って、
保護区域を兵庫県と定められた関係でチーム名から「大阪」を外し、
4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」に、
球団名を「阪神タイガース」に変更しております。
けものフレンズの二次創作における一つのタグとして、
「野生解放」のパロディである「野球解放」が存在しておりますが、
阪神タイガースの担当はもちろんトラ様であります。
その「野球解放」においてトラ様は関西弁で話されるなど、
いわゆる「こてこての大阪キャラ」としても描かれております。
今年の阪神タイガースはセ・リーグ2位が確定しており、
クライマックスシリーズでの躍進が期待されております。
プロスポーツはやはり大勢のお客様にご覧になってもらってこそであり、
ただいま、球場等の観客収容人数の上限撤廃に向けて動き出しております。
1日も早く、気兼ねなく盛り上がれる世の中に戻る事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。